2018年07月31日
目下、カルティエ現代美術財団30周年記念に制作した119人、133点のアーティストの肖像画を集めた画集をカルティエと協同で制作中。作品は現在上海当代美術博物館(現代美術館)のカルティエ展に出品中。今秋出版予定。

絵は推理小説だと思う。最後の最後にどんでん返しが起こる。これは自分でもわからない。とにかくひっくり返したいのだ。子供の頃から探偵小説が好きだったのが、まさか、こういう風に役立つとは。

2018年07月30日
何にも似てない絵って面白いと思うでしょう。ところがそーでもないのだ。何かに似ている方が面白いのだ。

嫌いな絵ってあるじゃない。その理由は?ぼくは単純に「生理的にイヤなんだ」がその理由。絵以外だって同じだね。身体が受けつけないというか本能が判断するわけ。芸術と整理は大いに関係あるはず。

ぼくの絵だって、嫌いな人は沢山いると思う。色々理屈をこねてあれこれ言っているかも知れないけれど、結局生理的な問題なんじゃない?

というか、生理が絵を描かせるわけだから、それを生理で判断するのは正しいんじゃないかな。

自分の絵だって嫌いな絵はある。結構多い。その理由はやっぱりその時の生理が描かせたので、生理的にヤなんだよね。だから「生理整頓」はちゃんとやんなきゃ。ナンチャッテ!

何もしないで1日が終ることがある。だけど何もしないことをしたわけだから、何もしなかったわけではない。

何もしないことは、何かをしたことより、大事なことをしたよーに思う。

その大事は何もしないことで、初めて大事だったことがわかる。

何かしなければいけないと、誰もそんなことを言っていないのに、まるで誰かに言われたかのように、何かしなければならないと思う。

何かしたら安心らしい。ではなぜ安心しなければならないのか。それは何かしたことで安心するからだ。では安心って一体何なの?

安心は心配しないで済んだから安心なのよね。

やっとアイフォーンを買った。カメラの代りに。それ以外のことはできない。何か調べるとか、メールするとか、電話を掛けるとかは全然できない。写真を撮るだけだ。

撮った写真を編集するとか、トリミングして撮るとか、撮った写真を誰かに送るとかはできない。以前携帯電話を持っていないと言ったら、なぜか持っている人から尊敬された。なぜだろう。だったら持たなきゃいいのに。

もう10才若けりゃいいのにと思うことがある。北斎は90才の時にもう10年生かされたいと願った。あと10年あれば宇宙の真理が描けるのにと。だめだったら5年でもいいと。結局1年後に亡くなったけれど。

画家は長生きすればするほど、絵が面白くなると思う。体力が落ちて、手が震えたりすると、きっと面白い絵になるからだ。肉体は老いても絵は逆方向に向う。そして、自分のヘナヘナの絵を見てみたいものだ。

ピカソの最後の絵はそれ以前の絵とも全く違う。これからが誰も見たことのない新しいピカソが見れたのに。ピカソは何を描いてもピカソだけれど、この1点だけはピカソだと言われないとわからない。

死んでから、その続きを描けばいいと言うかも知れないけれど、死んだら2度と絵など描きたくない。まして生まれ変わって、また画家になるなんて、もう結構。

第一生まれ変わりたくないよな。生まれ変るとすれば死後の世界に生まれ変わりたいね。まあ自動的にそーなると思うけれど。

でもサ、生きている間は生かされるしかない。そして、そこでどう遊べるかだろうね。社会の規範からはずれる。これだけでもかなり遊べるんじゃないかな。

一時、断捨離が流行った(今でも流行ってるか?)コレクション癖のあるぼくは物が増える一方。捨てて少しスペースを確保しようと思っても、何を捨てていいかわからない。また、捨てる必要もない。捨てれば気が軽くなるなら捨てればいい。

物を持てば執着ができるというけれど、持っていても執着がなければいいわけでしょう。だったらあってもいいじゃない。

お釈迦さんは俗界から離れて山奥に住めとは言っていない。むしろ街が見えている所に居ながら、俗界への執着が取れる方がむしろ修行になるという。

物を持ちながら、物に執着しない方が、断捨離よりレベルが高いと思うよ。捨てることが修行になるというのは、ちょっと違うような気がする。

断捨離の本でベストセラーになった人が、交通事故で死んだという記事を見た。なんでもかんでも捨てろ、捨てろと言っていた人が、とうとう自分を捨ててしまった。

この間150号の巨大自画像を描いた。自画像は自己顕示のために描くのではなく、自己嫌悪のために描くものだ。それを見る人は自己顕示で描いていると真逆に見てしまう。

大抵の画家は自画像を沢山描く。沢山描きたくなるほど、自分が嫌なのである。レンブラントもピカソも、ダリも、マグリットも、デュシャンも、ウォーホルも。自分を吐き出したいのである。むしろ描かない方が、顕示欲があったりして。

2018年07月26日
この年になると(変な表現?)入院することが多くなる。去年の夏は喘息で1週間、今年はまだない。ないに越したことがないけれど入院生活は嫌いじゃない。非日常生活が面白いからだ。病院の規則に従っていれば、何も考える必要がない。

考える必要のない生活は便利だ。言われた通りにしていればいい。空いた時間には館内見物(館内散歩)や、ロビーでじっくり人を観察する。病院に来る人は、とにかく、どことなく変っている。その一挙手一投足を観察する。

空いた時間は、絵を描く。入院時に、キャンバス、絵具、筆をどっさり持ち込む。ぼくの場合、絵画療法が必要だと先生も知っている。絵が描き上がらない場合は入院を延長してもらう。でも看護師から先生が怒られることもあるそうだ。

病院のコンビニは愉しい。普段読まないよーな本を買う。ぼくの場合難聴だからテレビを観ても聴こえないので、スキャンダルは全て週刊誌から情報収集。前にも書いたけれど、スキャンダルは自業自得、因果応報の結果だから仏教の勉強になる。

とにかく一日中コンビニに顔を出す。病院食はまずいので弁当を買ったり、果物やおやつ、そして、やっぱり週刊誌。女性誌も片端から読む。病院は実に俗世間だ。アートには俗も必要。

病院の真横に森があって小さな神社がある。この場所も好きだ。近くのデパートに行くと、他の人と自分は同じ人間には見えない。だってこっちは保証済みの立派な病人だ。病人の目から眺めるから風景が違ってみえる。こーいう経験は大事。

病院の周辺には野良猫が沢山いる。猫にエサをあげたり、スケッチをする。病院に集まる猫は皆んな病人ぽい。

2年前、足の骨折時には2ヶ月半も入院していた。お陰で絵が沢山描けた。死んだタマの絵ばかりだ。もう60点以上描けたはずだ。ここしばらく入院がないので絵が増えない。だから今は、小旅行した時、旅先きのホテルで描いている。

もう何年も前からタマの絵を描いているので少しづつ絵が変ってきている。世間に問いかけるような「作品」ではない写真的なごく普通の匿名的な絵だ。自己主張のない匿名的な絵を描くことは必要だし大事だ。

2018年07月25日
昨夜は玉置浩二さんのコンサートに招かれる。ライブを見るのは初めて。難しい曲を、まるで自分が楽器になったように、劇的に歌う。オーロラビジョンで見る彼の正邪が入り混じったような表情は演劇的。

難聴が心配だったけれど微妙な部分は音や声が飛んでしまうようだった。補聴器を調整しながら聴いたが言葉の部分はやっぱり理解できなかった。でも彼のパワーとエネルギーは充分伝わってきました。

13才から18才までのモナコ少年合唱団(20人位?)の歌は何語。日本語に聴こえたけれど……。

いつも不思議に思うのは会場のキャパに合った人数が集まることだ。昨夜みたいに5000人のキャパは5000人、500人には500人、100人には100人、いつも不思議でならない。展覧会もそーだけれど、ほぼ予想通りの観客を動員する。

皆、どうするのかな。全体の構想やスケッチやデッサンを用意して描くのかな? ぼくは全然違う何もないキャンバスにいきなり描いちゃう。最終完成図など全くない。絵にまかせるから、「私知りません」って感じ。絵は完成よりプロセスが面白い。面白いかどーかが目的。

この態度は日常の中でもあまり変らない。気分が第一なので、他の人は時にはキリキリ舞いをするみたい。兄弟のいないぼくは子供の頃から猫を同居。全て猫から学んだ。

どうして虎屋の羊羹ばかりが集まってくるのだろう。ぼくは甘党だけれど羊羹は一番ニガ手だ。キンツバもだめ。最近はどら焼きが多いけれどこれも飽きた。まだ鯛焼の方がいい。

手土産の甘い物はもう××××××です。どうしても手土産をとおっしゃるなら、原稿用紙とか、キャットフードとか、メダカの餌とか、使い捨て髭剃りとか、週刊誌とかの方がよっぽどいい。

デュラン・デュランから頼まれたTシャツがある。イギリス製で日本では売ってないはず、ウチのネットでは少し在庫があるらしいですが、ノーサインのものです。もし在庫切れなら悪しからず。

わが家の猫は「おでん」。事務所の猫も最近改名して、2匹共おでん。計おでん3匹、時々母野良がくるけれど、これは母おでん。

「おでん」って独創的な名前でしょ。だけど犬に「おでん」とつけたタレントの人がいたけれど、どこから来たの? それともわが「おでん」のパクリ? 怪しいよね。道ですれ違った猫もぼくは「おでん」と呼ぶ。全国の猫は全部おでんにしちゃへ。

人間に「おでん」って名前の人いるかな? 誰か身近なところに「おでん」さんって方はいらっしゃいますか? これから絵のサインを「ODEN」にしちゃおうかな。

2018年07月24日
同じ表現者でも小説家は言葉で考えて作品にするので常に脳の中には文字や言葉や文がギシギシにつまっているのだろうか? その点画家は意外とボヤーッとして言葉をそれほど必要としていない。むしろ考え(観念)というより想い(感覚)の大海の中を漂流している。海で顔を上げて空を眺めている感じ。

ただ、漂っている感じ。この感覚が描くという純粋行為を誘発してくれる。言葉より、その時々の肉体感覚に従っている。小説家は知らないが、例えばぼくでも文を書く時は、絵の時の肉体感覚には決してなれない。つまり肉体の脳化によって「アホ」になるのである。なろうとしなくても「アホ」でおれる。

画家は世界的にも長寿者が多いのは思考停止術を身につけているからではないかな。勿論考える美術家もいる。ぼくは半々だ。ぼくの場合、考えがあって描くのではなく、最優先は衝動と気分、絵が終るころになると絵が勝手に考え始める。

そして、へえ、こんな絵ができた! 絵が勝手に考えたらしい。これでいいと思っている。

わが家の周辺にはいろいろな野良猫がくる。エサをあげるからだ。その内、1匹ずついなくなる。病気の子もいるから、きっと死に場所を探してどこかに消えるようだ。野良でも名前をつけて呼んでやる。家の中に入る子もいるが、やはり遠慮している。遠慮が過ぎて死んだんだろうなあ。

でも猫はマイペースだから遠慮などするはずがない。遠慮なく死んでいったんだろう。

MoMA(N.Y.近代美術館)でかなり前からロングセラーになっている「New York」という作品(1967作)があるけれど、今度大手の出版社から、その作品をポスターサイズにして大々的に売り出すことになった。勿論MoMAのブックストアでも販売される。ニューヨークのお土産に!

あゝ、そーだ9月からチェルシーのぼくの専属画廊(マーク・ベンダ)で個展が開催。詳細はもう少し期日が近づいてから。今はアメリカの画廊は夏休み。近い内にオーナーの家族6人がドヤドヤとやってくる。

6才の天才ゴルファー少女がテレビで紹介された。その技術はプロも顔まけ。その彼女のビッグマウスが凄い。大人が舌を巻いてしまう。平気で「私はゴルフの神様」だとか、「地球で私の存在を証明するため」にゴルフをする。6才ですよ。

またお父様の協力が凄い。この子のために広大なゴルフ練習場の土地を確保する。そしてそのお父様のコーチがケタはずれ。

「Number」で清原和博のインタビューが連載され、今号で終ったけれど、ここまで自分を見つめ続けながら自分をここまで正直にあらいざらい語る。果たして誰がここまで忠実になれるのだろうか。

さあ、間もなく玉置浩二さんのコンサートに家族、スタッフ6人でドヤドヤ行きます。

絵は一気呵成に描くのが自分の気分に合っている。なんだって早い。エッセイを引き受けて、その依頼者が社に帰るまでに書き上げたことがある。編集長が帰社したら、書き上がった原稿がテーブルの上に。仰天して電話があった。ぼくはただ面白がってそーしただけだ。絵も仕事も遊びである。

絵を描く前には儀式がある。手を洗って水を飲んでチョコレートを齧ったり、トイレに行ったり、ひとことツイッターに何か書いてみたり、CDを掛けたり、結構大袈裟だ。絵を描くことは神との対話だから、本当は祝詞を上げるとか、バカ! そこまではやりまへん。

それほど描くのは大変だ。というか、しんどいというか、走ってしまったらそのまま走るしかない。儀式というのは、まあストレッチみたいなものだ。

それでも、難戦苦戦の激戦が続く。このまま絵に殺されるかも知れない。そんな時は敵前上陸なり、バンザイ突撃をして自決するしかない。自決のあとはあの世で続きを描けばいい。

あの世では全てが完結している。だからこの世では未完で結構。無理して仕上げなくてもいい。寿命を縮めたきゃ完璧なものを作ればいい。そんなもん最初からないけれどね。

ツイッターも一種の儀式かストレッチみたいなものだ。他者へのメッセージのつもりで書いているのではなく、自分への奉納みたいなものだ。お供え物だ。

夕方から、家族+スタッフ全員で玉置浩二さんのコンサートに招かれているので、顔を出そう。難聴なのでどこまで音が音楽になってくれるか? だけど誰もが聴けない音楽を聴く特権がある。それが凄いのだ。

2018年07月23日
絵はなるべく描きたくないと、最近思うようになった。なぜかわからないけれど、メンドークサイとかしんどいとかが理由というか、描かなきゃと思いながら、一向に腰を上げない。その感じが意外と好きなんだ。描きたくない理由は多分このことかも知れない。

だけど描き出すと、結構面白くなるので、だったら、もっと早く描けばよかったのに、とも思う。

画家は、本を読んだり、知識を身につけたり、理屈をこねたりしないで、絵描き馬鹿になって、純粋に絵のことだけを考えて、描くのが一番健康でいいし、この方が面白い絵が描ける。つまり世間から離脱した方がいい絵が描けると思う。

絵を描かないというか、描きたくない時に限って色んなアイデアが浮かぶ。またこの時が一番楽しい。描いている時の楽しさとは別の楽しさがある。

つまり、描かなきゃという脅迫観念に襲われていて、ここから逃げることがもしかしたら一番楽しいのかも知れない。苦しい楽しみを味わう快感かな?

絵は描く気になれば何んぼでも描ける気がする。だけど描かないでじらす。描く自身があるから、こーいうことをしてしまうのかも知れない。

絵は描くと上手く描けるか、下手に描けるかのどっちかだ。それしかない。

歩けば足跡を残すように、次は描けた数だけ足跡を残す。何んで足跡を残したいのだろうか。よくわからない。

毎回感心するほどタイプの違う絵を描いてしまう。どこかで評価されることを拒否しているのかも知れない。だって評価されたきゃ、いつも同じ主題、同じ様式の絵を描けばいい。認知症的に気分がいつも徘徊したがっているのかも知れない。

ぼくの絵のスタイルは、徘徊派と呼ぶのがいい。意識的、理性的徘徊派である。

朝、目覚めると、途端に何か変だ、以前熱中症に何度かなったあの時と似ている。そこでOS-1を飲むと30分位で落ちつく。

熱中症はどこででもなる。以前クーラーの効いた美術館でもなった。病院で点滴をしてもらって治った。

熱中症はクセになるとテレビで医者が言っていたけれど、「また熱中症では?」という自己暗示がどーも影響しているよーだ。

「今年はならない!」と決めつけて、暑い日に公園に出掛けたりした。こーいう時は信念でならない。

熱中症という言葉のない時、バリで歩いていて気分が悪くなって、店の中で、横になってジュースを飲んで治したことがあるけれど、あれが熱中症だと思えば、もっと大ごとになったかも知れない。

睡眠がとれるために、午前中、太陽光線を浴びる、メラトニン効果だ。メラトニンという目的があるから、こーいう時はいくら暑くてもならない。

熱中症は過呼吸に似ていて、かなり気分や暗示でなってしまう。

毎日のように新聞の死亡欄に死亡者が載る。この人達の中に会ったことのある人が何人もいる。こういう記事が日常的になっている。それに気づく自分も他人事として受け入れていないような気がする。

一方、平均寿命が男性81.09歳で3位、女性87.26歳で2位。いずれ平均寿命よりも長く生きる人が多くなるという。何んだか生き方、死に方がむつかしくなってきた。

では死とは何か? 肉体の死が本当に死なのか? 死は肉体の消滅が決定するのか? 死んだら無なのか。大方の人はそーだと思っているよーだ。

無になるんだったら、なぜ生まれて来たのか。では最初から無ではいけないのか。

樹齢80〜100年の庭の木(老木)を伐採した。年齢を調べようと思ったら年輪はなかった。中が空洞だったからだ。そんな死木の根元に小さい草のような新芽がヒョロッと出ていた。新芽はボロボロの老木の一部だった。

死して、自らの分身に次世代の命を与えたのである。こーいう現象を初めて知った。奇跡のように思えた。自ら死して、その魂(新芽)に命を譲ったのである。自然界の摂理に輪廻転生を見た思いだ。

では人間だけが、なぜ死ぬと無になると思う人が多いのだろう。形で証明されない現象は全て無ということになるのだろうか。

老人が死にました。その老人の小指に小さい人間の形をした生き物が椎の木みたいにくっついていました。こーいうことだったら人間の転生を信じましょう、ということになるのだろうか。

見えるものしか信じない。理にかなったことしか信じない。こういう発想が、現在の世の中でまかり通っている。そーでないものは全て無だという。

どうやらぼくは世の中と逆の方向に生きているような気がする。その方が混雑していないで、歩き易い。

2018年07月20日
ツイッターのプロフィール写真は70代の頃のものなので80代の写真に取り替えることにした。この写真は福沢一郎さんの家で撮ったもので82才の誕生日を迎えた直後のもの。

2018年07月19日
この酷暑、どうお過ごしですか。この年の年令の者には厳しいですね。ところが、わが家の庭のシイの木は80ウン才の老木。いつ倒れてもおかしくない。今日この大木を伐採しています。その庭師はメチャ元気。その姿に感動しています。ぼくはそばにいるだけで倒れます。

80ウン才のシイの樹が斬られることがわかったのか、ここ2〜3日の内に根元に小さい草のような小さい芽を出して、次世代の「私」を主張し始めました。こうして輪廻転生を約束するのですね。自然界の理法に感動しています。

2018年07月17日
アトリエ帰りに事務所に寄って2匹の猫の相手をする。玄関に入る前から察知して、出迎えてくれる。そのあとしばらく甘えっぱなし。帰り際「バイバイ」というとスーッと部屋の奥に消える。ところが休日に寄ると、それほど喜んでくれない。なぜか、わからない。

人間は猫のことがわかっていないけれど、猫の方はかなり、人間のことをわかっている。五感でわかるのではなくテレパシー(第六感)でわかっているということを人間側が理解しなければならない。

事務所の2匹の猫はお互いにジェラシーをする。片方にちょっかいをすると、他の方はご機嫌ななめ。それが露骨である。人間以上だ。

昨日描いた作品はもう古い。今日描いた作品だけが未来に続く。だけど明日になると、今日の作品は古い過去の作品になる。

といって過去に描いた作品と同じものは描けない。それ以上のものを描こうとしないで、むしろ下手くそに描いた方が新しく見えるのはなぜだ?

絵は描けば描くほど上手になるのではなく、下手になっていく。下手に上達するのである。

下手になるということはアホになることだろうか。

アホよりエライものはあるのだろうか?

絵を描かない時は人の画集を見る。すると仕事をしなくても、したよーな気になる。展覧会でヘトヘトに疲れるのは、展示作品を全部描いた気になるからだろうか。

人の絵をあまり感心して見ない方がいい。時には鼻でフンとあしらっちゃへ。

最近作品のサイズを少しづつ大きくし始めた。小さくすれば自分の気持も小さくなっていく。環境が変れば人間の気持も変るもんだ。努力しないで自然にね。

いろんな人の空襲体験記を一時よく読んだけれど、戦記小説は読んだことがなかった。マッカーサー元帥の自伝を読んだけれど、戦場の現場は伝わってこない。大岡昇平さんの「野火」はいつ殺されるか、いつ自殺するか、覚めない夢の中から逃げ出されないような小説だった。

20匹いたメダカが4匹になってしまった。どーやら猫にやられたらしい。わが家のおでんか、野良かどっちかわからない。腹がへってメダカを獲るんじゃなく、単に動いているからだ。ネズミを獲るのも同じ原理だ。

2018年07月12日
芸術は今アートになったよーだ。何がどー違うのだ。芸術は重くアートは軽く感じるから? 軽い分芸術から魂が失われたように思う。人間も死ぬと軽くなるという。それは魂が抜けたからだという。今は魂のないアートの時代らしい。

脳とか心臓は見えるけれど、魂は見えない。見えないものは存在しないという科学の時代にわれわれは生きている。すると芸術は科学と対極にあることになるんじゃないか。

科学がどんどん進化すると科学こそ芸術だと言いかねない。すでにそう言っている者もいる。そーして魂という言葉が死語になる時代がもう、そこに来ている。魂のない肉体はサイボーグである。サイボーグになるのも「マッ、エエカ」。

要するに、絵は無茶苦茶に描こうとするしか、絵は乗り越えられない。用心深く、丁寧に、失敗しないよーに描こうとするから、絵が絵を乗り越えられないのだ。苦労しています。

世間の眼に無頓着になれば、大抵面白い絵が描けるはずだ。絵でなくても面白いことができるはずだ。

アホになるということは反知性と対峙しません。知性はアホを支持します。本当の知性こそアホです。だからアホになるのは秀才ではないのです。ひと握りの天才です。

日本国内の各地でインドカレーを食べることがあるが、そのほとんどの店のオーナーや店員はポカラ出身者だというのが不思議だというか面白い。最初、誰かが日本でカレー店を開いて成功したために、後に続いたのだろう。

ポカラはカトマンズから飛行機でヒマラヤの麓にある小さい村だ。いつも目の前にヒマラヤがドカンと迫ってくるようにそこにある。その裾野にある小さな村から、日本へ出稼ぎに沢山来ているというわけ。

飛行機が滑走路目がけて、垂直に降りる感じ。山に囲まれた小さい盆地の地道が滑走路で、着地すると砂煙が立って辺り、真白。飛行機を見に来ている子供達も砂をかぶって石地蔵みたい。

昔の話である。今は滑走路はアスファルトで舗装されていると思うけれど、当時は、谷間の空き地に降りる感じで怖かった。

風光明媚なポカラから、人口の多い日本に出稼ぎに来ているよーだが、ぼくなんかはポカラに1年くらい住んでのんきにヒマラヤに囲まれた村の絵でも描いていたいと思う。

画家になる前は郵便局員になって、日曜画家として旅行しながら、各地の風景を描くのが夢だった。夢はなかなか実現されないものだ。

会社に入ると競争しなければならないので、郵便配達夫なら、競争しないで一生働けるし、休みに旅行して絵が描ける。日曜画家だから誰かと競うこともないので理想の仕事だと思っていた。

高校の頃、絵は描いていたけれどデザインや絵を職業にしたいとは思ってなかった。切手を蒐集しながら郵便屋になるのが最高だと思っていたのに、人生はどこかで狂うものだ。望みもしないものになるなんて……。

自分が望まなくても運命が望むものに従わざるを得ないというのが人生らしい。

絵は好きだったけど、デザインという職業になると必ずしも「好き」とはいえない。その点、絵は誰にも頼まれないで描いているのでシンドイことはない。誰かに頼まれて生きているわけじゃないからね。

2018年07月10日
夕食後、30分ほど散歩する。以前、足骨折以来、足裏の肉玉が歩く時、圧迫があって気持悪い。病院でもよーわからんと言う。病名さえない。一体何んなのか、その治療は? 経験者いらっしゃいますか?

老齢と共に原因不明、病名不明の「何か」が起こります。まあ新しい体験には違いないけれど、新しい不快感など未知との遭遇があります。

この間、長谷川利行展を観た。身体的な衝動、そのプロセスを見せられている鑑賞者は何かを見失った感じで、目的地に向う途中の駅で降ろされて、その場でボー然と立っている。よりどころのない気持ち悪さが好きだという人にはいいんじゃないかな。

長谷川利行はあんな絵しか描かないのか、描けないのか知らないけれど、それが彼の強味だろうなあ。

そー考えると自分のやっていることは全部弱みばかりに見えてきた。

認知症じゃないけれど、自分が何者かわからなくなることで目覚めた状態で最初に描いた絵こそ本当の自分の絵ではないのか。アホになり切れていない間は頑張れば頑張るほどアホから遠ざかってしまう。

取材を受けながら、何を知りたいのか、何を解りたいのか、それがわかったら、何なのか、その先き、何があって、何をしたいのか、水飲んで小便してそれで終りじゃないの。

2018年07月09日
絵は本当に好きで描いているのか、どーかわかりません。思うように、は最初からないんだけれど、その思うようにが何を思っているのかわからないんです。

絵は好きだから描く、なんてウソじゃないかな。ぼくはあんまり好きになれません。嫌だ嫌だと思いながら描くことも結構多いです。ただ仕事で描いていないのでいつでも止めますけどね。

2018年07月06日
アホになるということはどーいうことかというと、賢くならないということです。頭が鋭く働くとか抜目がないとかエライ人に多いですよね。アホは関西で使う馬鹿のことかな。常識的判断ができないで常識を超えてるってことだろうね。

アートは常識的ではダメでしょう。やはり常識を超えた発想、考え方、生き方がアートを作るんです。世間一般の人にスンナリ理解されるようなアートはもうひとつです。

だからアーティストは通例、慣例、常識がわかっちゃアカンのです。賢い人はなんでも知っていなきゃ賢いといわれないけれど、アホはその点、知らんことは知らんと平気でいえるだけ、自由です。

拙著「アホになるための修行」はアホのすすめの本ではありません。編者が、長い文の中から、ヒョイと抜き出してくれた言葉を集めて、こんなタイトルをつけてくれたのです。この本ができてから、ぼくも毎日この本を読んで、アーソーカと思っています。アホでしょう。

この本を賢い人が読むと全否定するでしょうね。「悪書」と呼ばれる本はそれなりに立派なんですが、この本はタダの悪書です。人と競争するのが好きな人はこの本は害になります。

「アホになる修行」と言ったのは江戸時代の黒住宗忠という神道の教祖です。人間は何のために生きるか、つまりアホになるためでは、という哲学です。

もし書評の仕事(朝日新聞)がなければ、本を読む機会がうんと少ない生活になっていたと思う。もし書評の本を読まなければ極端な話、年に1、2冊、時には1冊も読まない年があったかも知れない。本は好きだけど読書はそれほど好きじゃない。

本を読み出すと同時に本とは別のことを考えてしまうからだ。映画や芝居を観に行っても同じようなことだ。だけどこの別のことを考えるというのは必要だし大変重要なことだと思う。

そー思えば読書はいいことかも知れない。読んでいる本の内容からヒントを得るのではなく、全く関係のない想像がヒントを与えてくれるのである。そー思うと、あんまり面白い本よりは面白くない本の方が役に立つかも知れない。

活字の本より、ぼくは画集などをよく見る。解説はメンドークサイからなるべく読まない。その代り絵は隅々まで凝視する。そして自分の感性と言葉で理解する。

本当に画集は100回でも200回でも見る。何が描いているか、なんてどーでもいい。作者の名前など忘れてもいい。そんなこと知ってわかったように思うのは頭のいい証拠だ。絵は頭ではなく目で見るものでしょう。

2018年07月05日
糸井重里さんの「ほぼ日」(http://www.1101.com/ahoninaru_yokoo/2018-07-05.html)で糸井さんとアホ修行についてアレコレ毎日連載で9日間語り合っています。ぜひアクセスしてみて下さい。

2018年07月03日
えまおゆうさん
誕生日メッセージありがとうございます。本物のおじいちゃんになる前にお会いしましょう。

AERAの創刊号から16号まで送っていただいた金政浩さま、ご住所書いていなかったので、お礼ができないままです。創刊11号の表紙です。1988年です。


7月7日、イーストプレス「アホになる修行」発売。(本体1300円+税)この本は未完。完成させるのは読者です。
http://www.tadanoriyokoo.jp/product/1471


82才の誕生日から1週間が過ぎた。肉体が82才になったのか? それとも精神が? どっちも82才になってないよ。世の中が年を取っただけじゃないの?

皆んなが同んなじように年を取るんなら、皆んなが同じ年に死ななきゃおかしいよ。

セミとかカゲローは、一緒に生まれて一緒に死ぬ。これなら話はわかるけれど。

死ぬ人の年令がバラバラだから、死を恐れるのかも知れない。定年退職みたいに何才になったら肉体退職をするみたいな自然の摂理に従うようになってないから、ワーワー思ったり言ったりするんだろうね。

哲学者は変化しないことを問題にしているよーに思うけれど、芸術家は変化することを問題にしているよーに思うけれど。

絵を変化させようとしなくても日々環境が変るんだからほっとけば勝手に変化する。

だけど芸術家でも全く変化したくない人もいる。変化しないと苦痛だという芸術家もいる。さてドチラニシヨウカナ?



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