2013年5月31日
6月2日に予定されておりました、大阪での北川フラム氏との瀬戸内国際芸術祭記念トークに、病気のため出席出来なくなりました。大変申し訳ありません。

2013年5月30日
入院すると見事に病人になってしまうものだ。環境を変えることは悪いことではない。病人体験は嬉しいものではないが、ある意味で貴重かも知れない。でも今はそんな風に考えられない。
病いに犯されてしまうと、「病いは気から」なんて言えない。「病いは体から」だ。
病気はもっと想像的になれるものだと思っていたけれど、全くその反対だ。何も浮かばない。
病人と囚人の違いはそんなに変らない気がする。他人によって閉じ込められているか、自分によって閉じ込めているかの違いだ。
薬、薬、薬。絵だってこんなに色んな絵具を使わないよ。多ければ多いほど絵が濁る。
今までの入院生活では絵を描いていた。100号の絵を2枚も描いたことがある。今回は絵を描き過ぎて病気になったんだから、絵から隔離しなきゃ。
病室には大きいテレビがあるけど見る気がしない。内部が問題で外部は関係ない。
薬には必ず副作用がある。絵にも副作用があった方がいい。
入院はカプセルに乗せられて宇宙旅行に行くようなものだ。肉体はファファと浮いている。思考が定まらない。病院食は口に合わない。何日間の旅だかも定かではない。窓の風景は一定していて変らない。軌道を廻っている実感はない。まだ発射台から離れてないのかな?

2013年5月29日
ほとんど終日、目を閉じて横になっている。眠っているわけではない。体中薬が駆け巡っているのがわかる。
病床での眠りは難しい。生と死の中間を漂っている感じ。
院内生活では肉体時間と通常時間が全くずれている。
一日の内に体にも四季がある。体は時間だ。

2013年5月28日
昨日から入院しました。

2013年5月27日
数年振りに寝込む風邪を引いてしまった。若い頃は「風邪ぐらい」で済むが、老齢になると油断できない。ピカソもイサム・ノグチさんも風邪で死んでしまった。高熱が出ると同時に喘息を誘発して咳が出る。病気になると世界観が縮小されて、自分の体以外に関心が持てない。
体温の上下に一喜一憂するだけで、他のことは自分と無関係になる。
こーいう日は江戸川乱歩の小説でも読むか。どれが面白かったかな。
4日間寝込んだ。別時間の流れの中を漂っている感じで、なんともアンニュイな重い気分だった。テレビも本もない孤独と沈黙の時間をあえぎながら吸っている感じ。海水の中の淡水魚みたいに。
喘息と風邪の合体は特に苦しい。喘息の咳なのか風邪の咳なのか区別がつかない。区別をつけたからってどーってことないけれど。
雑談のできない人がいることを知った。つまり役に立たない意味も目的もないことには興味ないことかも知れない。およそ芸術と対極の人ということになろうか。bit.ly/1Xgurj

2013年5月23日
長塚圭史さんの芝居「あかいくらやみ」を観に行く。彼の「タンゴ」のポスターを描き、今公演のパンフで対談をしたよしみだ。ところが舞台で焚かれたスモークを吸い、喘息を誘発したため、途中からロビーでビデオ鑑賞。見ているのは僕だけ。
ここ数年風邪と縁がなかったので、何んとか風邪を追放しなきゃ。五木寛之さんは風邪は体の浄化になるから悪いものではないとおっしゃる。理屈ではなく、むしろ科学的らしい。
久し振りに病院へ。咽が赤くなっているとか。風邪の兆候だ。僕はいつも夏風邪を引く。外出時に建物やタクシーのクーラーでやられてしまう。今や風邪も文明病だ。
アトリエで微熱と戯れているのも悪くない。微熱は空想の素だ。
木梨憲武さんから沢山帽子が送られてきた。去年も沢山いただいた。今年は木梨さんの個展のカタログに短文を寄せたお礼だ。これで熱中症対策万全だ。

2013年5月22日
朝、目覚めると同時にいつも不安の感情が湧いてくる。まるで神の不在のような不安だ。
多分残された時間に対する不安だと思う。時間は永遠でないのに。永遠だと思う観念が不安にさせるのだ。神は時間の中にいて、永遠の中には神はいないことを自らに認めさせる必要がある。
ダラダラした生き方は、時間を区切っていないからだ。時間を区切った生活に切り換えなきゃ。でないと時間に生かされているという意識の実感がなくなる。
時間のないところに住みたい。じゃ死ぬしかないことになる。というのではなく、生きて死の時間の実感があればいい。
鼻をかみ過ぎて鼻の皮膚がカサカサになって、鼻たれ小僧のような赤鼻になってしまったよ。
テレビを見ていると瞳の大きい女性が多い。感性が豊かなんだと思う。それに対して瞳の小さい男性が多い。観念的なタイプじゃないかな。
ドナルド・キーンさんの勇気にあやかりたい。命に対する執着があればあんなに大胆になれないと思う。キーンさん長命の秘密だ。
新沼謙治のポートレイトを描いたCDアルバムの評判がよく、㐧二弾も頼まれた。
現在、内外の何人からも肖像画の依頼を受けている。ウォーホルみたいに晩年は肖像画家っていうのもいいなあ。
9月には神戸の横尾忠則現代美術館で「肖像図鑑展」(仮)に500点(仮)出品の予定。

2013年5月21日
日本に帰化されたドナルド・キーンさんに久し振りに会う。日本近代文学者の肖像画集のために文章を書いていただくことになった。明後日から、トルコへ。そのあとメキシコへ船の旅に出掛けられるが91才で40日間の海外旅行は普通じゃない。僕なんかハワイに行くのも止めたくらいなのに。
キーンさんの健康法が面白い。①体を動かさない。②好きな物を食べる。③心配をする。以上。一般的には不養生訓だ。要は自分を肯定することが養生訓なのかも知れない。

2013年5月20日
肖像画をあと10点に控えて描くのが嫌になっていたが、それがスルスルと面白いように描けるようになった。苦しむと解決法が浮かぶものだ。それはある過去の経験を思い出して、その再現を始めたら、問題解決したというわけ。
経験の中に今を打開する力が潜んでいることに気づいた。経験は終ったと思って捨てるものではなく、活用するものだということがわかった。
僕の体調を管理しているのは全て睡眠だ。睡眠は自分の一生を随分左右してきたと思う。不眠は体と心を切り離すからけしからん。
昔から鼻炎(アレルギー体質なので)でしょっちゅう鼻をかんでいる。ティッシュ一箱持って出掛けたことがある。何もしないでマコトちゃんみたいに鼻水がスーッと糸を引くことがある。僕が村上春樹だったら誰も声を掛けたり近寄って来ないので安心だろうな。
書評を描き上げたら、どーいうわけか、本の内容をケロッと忘れてしまう。お仕事で書いたせいだろうか。言葉に変換した時点で僕は本から離れてしまっている。

2013年5月17日
あと肖像画(文学者)を10人描けば一応終了する。「一応」とは気に入らない絵を描き直すために「一応」というわけ。後半になるにつれて明らかに未完成とわかる作品が増える。画集になった時の統一性など考えてない。性格が出ればいい。生き方が出ればいいんじゃないかな。
上手に手抜きをするといい絵になることがある。何にしても気張るとダメ。と言って意識的に手抜きをするとワザとらしい絵になる。本心で「もう嫌!」という気になった時は手抜きが成功する。
僕は本質的に怠け者だと思う。だけど怠けてばかりいると気が小さいので、少し努力らしいこともしてみせる。目標のない努力を。昔フランス映画でオムニバスで「七つの大罪」という映画があった。徹底した怠け者。怠けるならあそこまで行けば芸術だ。
よく物凄く働く人がいる。そんな人を見ていると何かが間違っているような気がする。きっと彼方にある目的と手段のために働いているからだろう。
夕方になるとなぜか古本屋に行きたくなる。妙に店の外から赤い光が本棚に差して本が陽に焼ける感じを見ると、今日の夕めしは美味しそうに思える。どうでもいいことだけれど。
糸井重里さん一度会って昼メシ食いませんか。Tel乞う。
真理アンヌさん 60年代からよーく知ってます。本当に美しいーーといつも思ってました。

2013年5月16日
絵は身体の体操になるけれど、エッセイは、特に書評は頭の体操になる。
だけど頭を使うより、頭を休めた方がいい。身体は休めるよりは少しは使った方がよさそうだ。
いつの間にか夜、肉を食べても胸焼けがしなくなっている。薬を飲んで副作用で悩まなくても人間には自然治癒力がある。ただそのことを強く信じることが効力を発揮することにつながる。
僕は信じることの中に何か神のような存在を描いているようだ。かといって信仰ではない。むしろ信心というかサイエンスに近い感覚だ。
イチローが4試合無安打だが、自分に置きかえれば1ヶ月、2ヶ月も無安打ということがしょっちゅうある。このままヒット(絵)が打てない(描けない)のじゃないかと思うことがある。打てる時のイチローより打てない時のイチローを研究する方が学ぶことが多い。
僕は時々自分の運について考えることがる。あの時、あの人に会っていなかったらどうなったか――と。こんな場面を次から次と回想すると、自力では考えられない他力のようなものを感じる。ではこの出合いは何によって設定されたのか――と。運の科学が存在することだけはわかる。
運を引き寄せようと努力などしない方がいい。運のことなども考えない方がいい。静かに大きな流れ(摂理)にまかせる(乗れる)心(頭ではない)の準備体操を怠らなければいい。
昨日は長男の誕生日で家族でレストランへ。瀬戸内さんも美輪さんも美川(憲一)さんも大竹(省二)さんも同じ5月15日生まれ。ついでに僕は6月27日生。ヘレン・ケラーの他に誰がいたっけ?
仕事は気が重い。〆切があるからだ。それに対して趣味は楽しい。だったら仕事を趣味に変えればいいのだ。そのために僕は〆切以前になるべく仕事を片づけるようにしている。すると仕事は趣味と同格になる。追われるのは仕事。追うのは趣味。
ムカシは〆切が何度も過ぎなきゃアイデアが浮かばなかった。だからいつも徹夜に近かった。今はアイデアは浮かぶものではなく、すでに浮いているものだと思うようになった。だからそれをすくい取ればいい。ただしいいものをという色気を捨てる必要があるけどね。
年を取るとこのような俗界的色気はなくなる。その代り、クリエイティブな色気(エロティシズム)がでてくる。
最近は休み休みに絵を描いている。ちょっと描いて、何か飲んだり、食べたり、何か読んで、何か書いたり、体のどこかを掻きむしったり。
今日は一日中三橋美智也全集を片端から聴いていた。彼の歌は遠くの高い場所で遠い山に向って歌っているそんな歌ばっかりだ。

2013年5月14日
「老人」、「老年」、「老齢」、「老境」、「老い」、「老化」、「老後」、と付く題名の本を片端から読んだ。いやが上でも老人を肯定するためだ。全身全霊(齢)老人になるためだ。老人になり切れない部分があるとかえって中途半端で、人間が全うできないような気がするからだ。

2013年5月13日
ちょっと本屋(古本屋)に行くと、その日によって一冊も買わないかと思うと次の日には山と買う。買うとストレスが解消されて気分がいい。そのために買うようなもんだ。そしてまた本が山積みになってストレスになる。そこでまた買う。ストレスの輪廻だ。
2日間神戸で非公開制作をするはずだったけれど、金曜日に小一時間で描けてしまった。だから2日目はおしゃべりだけで済ましたが、なぜか立見まで出るほど満員。プレッシャーだった。非公開だからプレッシャーになる方がおかしいんだけれど。
神戸の横尾忠則現代美術館が発信するツイッターやフェイスブックにもアクセスしてみて下さい。ぼくは見たことないけれど、美術館の学芸員が毎日(かな?)何か書いたり写真なども発信しているらしい。アクセスしてみて下さい。http://www.ytmoca.jp/
旅行に行くとその期間の時間はうんと拡張されるのはなぜ? 非日常時間のゾーンに入るからかなあ。情報量が増えるからか? 次から次と場面転換がして、色んな人が入れかわりたち変りするからか? それとも普段食べないものを食べるから? 単に東京を離れるから?
蟻の家族人数が多いのは被害に遭うことを前程にしているのだろうか。無防備にうろついていると被害に遭う割合いがうんと高いからだ。人間も人口が増加すると命を粗末にしかねない。
冬の間どこを探しても一匹もいなかったわが家のメダカが、すごい数になって戻ってきた。しかも元気だ。人間も冬の間、仮死状態的に休養した方がいいのかな。冬明けに亡くなる人が多いことを考えると。
「横尾忠則幻想小説集」が中公文庫で6月頃出版されることになった。「ぶるうらんど」と「ポルトリガトの幻想」計4点集録。そのゲラの校正を始めている。発行日が決まるとお知らせします。

2013年5月10日
ぼくの70年代の作品の贋作が古書店や骨董品店にかなりの点数出まわっている。かつての白黒のイラストに彩色したものや、ありもしない絵にサインを記入したアクリルや油絵が大半で、現在のところ本物はほとんどない。騙されて購入しないように。所持している方は写真を送って下さい。
神戸なう。気が向けば非公開制作するかも。

2013年5月8日
ゴールデンウィークが終って再びシルバーウィークが始まる。
10代の頃勤めていた印刷所がその後どうなったんだろうと、夢の中で想ったら、その印刷所は間もなく閉じて、その後新しい事業に取りかかるが、それも上手く行かなくって、その後どーなったかが次々と頭に浮かぶという不思議な夢を見た。
他人と意見が対立する時、大抵は相手にはその根底に唯物的発想がある。
今年の夏はなるべく温かい食物を摂るようにしよう。体を冷やさないためだ。喘息予防である。
GW中に本を沢山買った。ほとんど古本だ。今の時代から少し遅れた古い時代のものの方が今の時代の見方のヒントになる。今の時代が見落としているものを発見させてくれる。
アトリエの外の遊歩道から声を掛ける人がいる。俳優の土屋嘉男さんだ。「入ったら?」と言うとしばらくいたけど、絵を描いているので落ちつかないのか、出て行った。描いている方より見ている方が落ちつかないのは面白い。
公開制作ではこっちが落ちつかない。見ている方は落ちついたものだ。こっちが出て行きたい。
昼の外食はいつも定まった店だ。メニューを変えれば色んな店に行ったも同じ。

2013年5月7日
瀬戸内海の豊島(てしま)横尾館が7月20日にオープンします。まだ少し先きですが、作品の展示と同時に10メートルのタワー内を滝のポストカードのインスタレーション(永久保存)と魔鏡のトイレ、さらにガーデニング(川のある庭園)などを担当しています。夏休みにぜひ。
また7月13日から神戸の横尾忠則現代美術館では「動物図鑑」展を開催。今回のカタログは絵本です。豊島と合わせてこちらへもどうぞ。
ベッドの中に大きい枕が6個入っている。頭が1つ、手に2つ、足に1つ、股に1つ、抱き用に1つだ。ホテルのベッドは常にダブル。枕は4つ。時にはスペアー2つを加える。これで6つ。枕が足りない時は要求して持って来てもらう。
9時にベッドイン。10時に就寝。よほどのことがない限り厳守する。これが狂うと一晩中狂う。早寝早起きは三文の得(徳)というが、確かに体には得だ。心も徳を積んだ気になる。
アトリエで制作の休暇時間にソファーで本を読むが、同時に仮眠もしているようだ。いつも首が痛くなって目が覚める。せいぜい5~10分位だ。
GWが始まった日、どうしようと思ったら山田洋次さんから昼の食事を誘われ、お茶を飲んで、いつものように映画の話をする。こんな寅さん、あんな寅さんができるのじゃないかと、真剣に構想を練る。こーいう無目的な時間が大事なんだ。
僕は年中鼻をかんでいる。だから風邪と間違えられる。じゃなくて鼻炎なのである。子供の頃から一度も治ったことがない。今では出るものはなんでも出ればいいと思っているので、病気とは思っていない。癖みたいなものだ。
貝原益軒、白隠、そして五木寛之さんまで色んな人の養生訓を読んでいる。体の生き方はそのまま心の生き方につながる。
水は体にいいというけれど飲み過ぎは体を冷やす。体が冷えると血流が悪くなるという。夏は脱水症状から熱中症になるので、つい水を多く摂取する。すると体を冷やした反動が秋口から喘息の季節に入る。
連休の公園はなぜか人が少なかった。もっといい所があるのだろうか。ぼくはここが一番落ちついて孤独になれる最良の場所だというのに。
デザイナー時代と違って頼まれ仕事がほとんどないので、全部が自分の時間だ。どう使おうと自分の勝手だ。仕事もよし、街歩きもよし、古本あさりもよし、どういうわけか食物あさりは興味ないんだなあ。だったら病院あさりの方がいい。
どこも悪くない時でも、何んとか悪いところを探して病院に行く。自分の体を知ることで自分を知るためだ。

2013年5月2日
誰かが誰かの作家または作品論を書く。それを読むとなんだか難しかったり、解らなかったりするのに、自分のことを例え難解な文で書かれたものでもちっとも難しくなく、よく解る。こんな風に何もかもが理解できればいいのにとよく思う。
昔書いた寺山修司についての自分の文を読んだら、今の考え方よりうんと彼についてうまく語られている。時間が経ち過ぎるとなんだか観念的になって彼から遠ざかってしまっているようだ。
寺山修司は生と共に死も終ると言った。ぼくは死と共に死は終り、生が始まると考える。そして生の状態でいる今は生よりもむしろ死を強く生きているように思う。ちょうど逆なんだ。
5月10日頃神戸に行くので美術館で突発的に公開制作を行うかも知れない。今のところ予告するかどうかわからないので、公開制作というより非公開制作というべきかも知れない。
30~40代の頃に3人の占い師から寿命は50才と同じことを云われていた。ところがその後27年近く生きている。占いが当たらないというより、今日まで生きたことを喜ぶべきだろう。でもその長さを問題にするよりは、納得できたかどうかだろう。
誰とも何日会わなくても平気なのは、どこかで自分と会話を交しているんだと思う。公園に行ったり、絵を描いたり、本を読んだりしていても、その対象と語り合うのではなく、その対象を回路にして対局自分と会話を交しているのだ。孤独な人は会話の対象を他に求めているのだと思う。

2013年5月1日
このところ絵を描かない日がない。本を読まない日がない。文を書かない日がない。テレビを見ない日がない。音楽を聴かない日がない。新聞を見ない日はある。ツイッターも書かない日もある。
糸井さん。そんな感じの休日で、また四連休も前半と似たりよったり。ワンピースの大判を手に入れました。小さいのは絵が見にくくって。マンガは読むより絵を見る方が時間かかる。

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