2011年10月
○本日の寄贈本
姜尚中(かんさんじゅん)さんより「あなたは誰?私はここにいる」集英社新書
NTT出版より「芸術の陰謀」ジャン・ボードリヤール著
ワイズ出版より「写狂老人日記」荒木経惟著
講談社より「母のまなざし、父のまなざし」いわさきちひろと香月泰男著
西川隆範より「地獄と極楽」風涛社
国書刊行会より「怪談」ヤン・シュヴァンクマイエル画/ラフカディオ・ハーン著
朝日で書評を担当するようになってからは書評本しか読まなくなってしまったとは前にも書いた。といって書評をしなくなると、他の本を猛烈に読み始めるのだろうか。反動って必ずあるから、そうなるかも知れない。
ぼくの生活や仕事の変化は反動の作用がかなり関与していると思う。
ところで最近、芸術なんて概念で語られる制度としての芸術なんて必要ないんじゃないかとおもうようになった。こんなモンから解放された方が人生を最大限に遊べるんじゃないかな。
温泉ホテルの朝の大浴場は気分がいい。入賞作7点を午前中に決める。朝風呂のせいで、頭も体もボヤーとなる。審査が早目に終ったの、帰京時間を大幅に変更する。車中、ユリイカの連載エッセイを7枚ぐらい書くが、書き上げたわけではない。

左から横尾、山本容子さん、酒井忠康さん
米原経由で小松に行く。小松といえばこの間自衛隊機のエンジンが飛行中落下した。いつもエンジンが落ちるわけじゃないが、つい思わず上空を見てしまう。飛行機での先着の世田谷美術館長酒井忠康さん、版画家の山本容子さんらと合流。宮本三郎美術館で開催されるデッサンの公募の審査のために小松に来た。600点以上の中から70点位選ぶ。かなり狭き門だ。数が多いのでくたびれた。夜は市長の招きの夕食で賑う。
何かに怒ることがあると、その怒りを作品にぶっつけることにしている。すると元の怒りの対象がどーってことなくなる。
絵が終わりに近づくと、こんなはずじゃなかったと思うことがある。そんな時、自分の中の野生の暴力みたいなものが表出して、絵をぶち壊したくなる。何点かに1点はぶち壊して、自作のどの系列にも属さない作品を作ってしまうことがある。
明日描く絵が決まらないまではなるべくアトリエを後にしないことにしている。明日何をしていいのかわからない日は決して今日が充実したとはいえない。明日の見えない今日は実に暗いが、明日の見える今日は夜もよく眠れる。
ぼくのツイートに違和感を感じる人も多いはずだ。そう思う人は時間がもったいないからフォロワーをさっさと退散した方がいいと思うよ。徘徊老人は独りでブツブツささやくから。
これからの老人人生が愉しみだ。体は弱る。記憶は落ちる。物忘れも激しい。黙っていてもシンプルになるしかない。シンプルな生き方の本など読まなくても生きたサンプルが自分だ。
加齢と共に物覚えがどんどん、日に日に悪くなり、記憶も激しく忘れていく。固有名詞は昔から忘れるが、最近は外来語が出てこない。普通名詞も随分忘れた。こんな調子だからエッセイの仕事もあんまり引き受けられない。講演やトークショーもそろそろ限界だ。新しい人生の始まる予感だ。
7時にアトリエに入る。絵を眺めている内につまらなくなり、大幅に変更したくなる。ヤケクソというか破壊したくなる。自分の中の暴力性が表出するのだ。今日は描くより眺めている方が長かった。
日曜美術館の「岸田劉生」の番組を見る。古本屋でビジュアル本4冊買う。午後アトリエ横の遊歩道を通って野川へ。熱いココアを飲んでアトリエに戻って現在進行形の絵と次回作についてとことん考える。長時間かかったが、考えがまとまったので安心して帰宅。
久し振りに朝の散歩に野川へ行く。川の鯉など写真を撮る。この前の大雨で川の水が増水していたので鯉も下流に流されたかと心配していたが全員健在だった。米粉パンは夕方に買いに行った方があることがわかった。朝食だから朝かなと思ったが、朝食だからこそ前日の夕方なんだ。主婦の感覚がないのでわかりません。東京新聞夕刊の文化欄に大きいインタビュー記事がでていた。


○本日の寄贈本
磯崎新/浅田彰さんより「建築と哲学をめぐるセッション1991-2008」/
「ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり」磯崎新/浅田彰著(鹿島出版会)
NTT出版より「芸術の陰謀」ジャン・ボードリヤール著
メディカ出版より「祖父、ソフリエになる」NPOエガリテ大手前編
咽の薬が切れたので病院へ。総合病院は診察を受けないと薬だけは出ないのだ。半日時間がつぶれてしまった。午後はアトリエへ。
ぼくの絵の見方は他の人とちょっと違うと思う。どのように見るかというと「描くように見る」のだ。見ながら描き、描きながら見るわけ。すると絵の秘密が解るわけ。
絵の秘密を解くのがぼくの見方だ。どんな絵にも秘密がある。絵が解る、解らないは秘密を知ったか知らないで決まる。
絵が解らんという人は、その絵の秘密が解けなかったわけ。作者も気づかない絵の秘密ってあるものだ。下手には下手な秘密がある。
「婦人公論」の筒井康隆さんの老人論(そんなカタイ話ではない)を読んだ。ぼくと似ているところは「嫌なことをいっさいやめた」とこだ。老人になって嫌なことをやるなんて老人になった値打ちがない。老人には老人の値打ちがある。
人が見て嫌なことやっていると思っても本人はちっとも嫌でないこともある。でも本当に嫌なことを引き受けてみて、やっぱり嫌だなあと感じて、初めて何が嫌なことかが解るのだ。嫌なこともしないで、最初から嫌なことはしないと言うのは臆病かも知れない。
若い頃は来るもの拒まず式で、嫌なことを嫌というほどやってきた。だから今は好きなことだけをやっているというわけ。
福岡アジア美術館での来年の企画展(インドとのコラボレーション)の出品依頼と作品の選定のミーティングをする。ボストン美術館のシャンバラ展、カルティエ現代美術財団のプリミティブ展にしろ、ぼくのかつてのエスニックぽい絵画作品の出品依頼が立て続けにある。今日は制作せず。

朝から雨。雨降り日は体調がもうひとつだけれど、この間病院で咽を診てもらって以来快調で今日は雨の中よく歩く。ジョージ・ハリスンとラビ・シャンカールのCDとDVD(計4枚)のボックス入りと、エンヤの新曲アルバム、レディ・ガガの最新アルバムを買う。午後今日買ったCDを聴きながら夕方まで例によって例の絵を例の如く描く。












今日はワハハ本舗の喰始(たべはじめ)社長が何か面白いこと楽しいこと、アート的なことができないかと相談に来られる。こちらのいいなりにやるという条件なら可能だ。本日は先ず喰始さんをご賞味させていただきました。夕方はオイルマッサージへ。少し足が冷えているので根菜をとるといいとのこと。
「ツイッター、その雑念のゴミばこ」(角川書店)読んでいただけましたか?(新規のフォロワーの方々へのPRです)ぼくも最近やっと読みましたが、書いたことを忘れているのが実に多いのには我ながら驚いています。つぶやきは本人には記憶されないことが判りました。
糸井重里さんのお嬢さんが黒タマ一家見学に友人のカメラマンの池田さんと事務所へ。子黒タマ3匹にえらい感動。以前近所のSさんの家の子猫を人にあげてしまって親猫が毎日泣き続けて狂人(猫)になってしまったことがあるので親子セットで貰ってもらうのが条件だけど、もらってくれるかな?
今日は日経新聞の「奇縁まんだら」の単行本化の打合せをする。四巻揃ったところでボックス入りのセット販売も予定されている。それ以外の近代文学者の肖像画を集めた画集も予定されていて、すでに30人ほど描いているが、引き続いて描くことになっている。夕方までこの間から製作中の絵も描く。
















本からは知識、絵からは智恵が得られる。知識で頭がよくなっても智恵がないと悟れない。なーんちゃって。
頼まれ仕事をやるよりも、好きなことをやっている方が、金になる。理に合わないけれど本当だ。
大問題をテーマにすると逆に自分を見失う。小テーマの中にこそ大問題が隠れている。
関西で言う「ちゃらんぽらん」が好きだ。スタイルのないスタイルだ。「ちゃらんぽらん」人間は人に信用されないけれど、大事なことは自分を信用することだ。
「白黒はっきりさせろ」とデザイナー時代に先輩からよく言われた。そんな不自由なことしたくなかった。どっちだっていいことばかりやってきた。その方が考えないで好きなように生きられる。
どうでもいいことは大事だ。どうでもよくないことは権威を指向する。
賞味期限ぎりぎり、あるいはその手前で筆を置く。それがぼくの絵のコツだ。それを越すと絵も腐る。
「明日は明日の風が吹く」。心がさすらうのはいいことだ。一ヶ所に固定してしまうと、変な思想が生まれる。
その日暮しがいい。ぼくの中にはそんな感覚がある。その日の気分次第で気がコロコロ変る。それを絵が一番物語ってくれている。関西系はどことなくラテンっぽい。
画家の大半は絵画の意味や内容に触れた事柄でビッシリ埋まっているが、最も重要な表現や技術について触れた評論は非常に少ない。時には皆目だ。絵画を伝記的または文学的に知識のみでしか語らない。
こらじゃ本当の絵の見方(感性)が解らないまま頭がかたまってしまう。
9時過ぎアトリエへ。昨日の続きを描く。昼、増田屋でナベヤキウドン。久し振りに本屋へ。ゴヤの画集と論語の本を買う。アトリエで製作中の作品完成。次作(100号)にすぐ取りかかる。間が空くと怠け心が出て描かなくなる。製作中ズッとタンジェリンドリーム全曲、片端から聴く。70年代によく聴いたものだ。そーいえばアルバム内に入るポスターを作ったことがある。そんなことを想い出した。





