2011年6月30日
平野啓一郎さんと電話で話をしていて、「愛をテーマにすることはあるか」と聞かれた。「ない」と答えた。絵画では画材を愛し、 テーマと表現を愛し、描く自分を愛することで絵には自然に愛は表現されるからだ。

そこが文学と違うところだ。絵画が肉体的であるということはこーいうことである。

2011年6月29日
●本日の寄贈本
藤原書店より「ジャポニズムのロシア」ワシーリー・モロジャコフ著

土日は岡山だ。日本三大公園のひとつ後楽園を見物するつもりだが、この熱さにじゃねぇ。夕方にでもブラッと散歩するかな。こんなのんきなこと考える前に公開制作の絵をどうするかの問題があるけれど、まぁキャンバスの前に立ってから考えても遅くはないだろう。

増田屋で久し振りに俳優の小澤征悦さんに会った。一瞬「大きくなったね」と言ったら変な顔をしていた。半年そこそこで大きくなるような年令じゃないから当然だ。顔に自信が漲っていたから大きく見えたのだ。

そーいえば三島由紀夫さんはぼくより身長が低かったがその存在のせいか大きく見えた。まあ大きく見せるテクニックも色々工夫されていたと思うけど。

チャップリンやエノケンは小さかった。だけどこの二人の大きいのは想像できない。どういうわけか天才は皆小さい人が多い。

大きいために目立たない、小さいために目立つというようなことがあると思う。目立つことには大小関係ないようだ。目立つ要素は中味の存在感かも知れない。

本日、ドキュメンタリー映画『映画 横尾忠則』の製作が発表された。シネマトゥデイのHP(http://www.cinematoday.jp/page/N0033392)をご覧下さい。


2011年6月28日
●本日の寄贈本
和合亮一さんより「詩ノ黙礼」新潮社
現代書館より「原子力事業に正義はあるか」秋元健治著
太田出版より「うみべのまち」佐々木マキ著

外猫になっていたタマが内猫になった。家の中で涼しい場所を見つけたのだ。最初は冷蔵庫の中だったが冷え過ぎるので応接間のクーラー(止めている)の上だ。この場所は家人があまり行かないので、中からよく鳴く。少しはチョッカイが欲しいようだ。

よく眠るくせに覚醒時になると、人恋しくなるのか、人につきまとう。だけどこちらが積極的になるとイヤがる。わがまま、気ままは芸術家のDNAを引いている。

東京は昨日より5度上って今日は最高31度だ。子供の頃は30度越えると大喜びで、太陽に向って走っていたが、今は太陽を背に自転車で逃げ廻っている。

2011年6月27日
●本日の寄贈本
平凡社より「水木しげるの妖怪地図」太陽の地図帖/別冊太陽

本日をもって前期高齢者から後期高齢者になりました。

2011年6月26日
ヨコハマ・トリエンナーレが近づいてくる。だけど出品作を描けば描くほど遠ざかっていく。絵を描くことは時間を拡張させていくからだろうか。

白いキャンバスは画家にとっては恐怖と不安、そして絶望さえ感じさせる。そんな時ピカソの父はキャンバスを真黒に塗った。黒は無意識を誘う。だからだろうか。

私は生きています。私は息をしています。私は生息しています。

生きるためには息をしないわけにはいかない。そういうと生きること、生存することを「生息」と言う。

吐く息はゆっくり長い方がいいそうだ。亀の呼吸はうんと長い。長く息をすることは長命につながるという。昔、富司純子さんが藤純子だった頃、手紙を貰ったことがあるが、そこに「長息して下さい」と書いてあった。

2011年6月25日
今日は快晴。風があって快適だ。早朝太陽の光を目に入れる、メラトニン効果を生じさせて睡眠を深めるためだ。気温は高いようだが、アスファルトの上を歩く蟻は平気なんだろうか。少しホースで水のシャワーをかけてやろうかな。

アルファー波が脳に流れるとメディテーション状態になるという。座禅時の雑念に近いのがぼくのツイートだから当然だ。

この本は8月に角川書店から発刊される。ゲラ校正をしている最中だが、読みながら眠くなる。どうもアルファー波状態で書いているからかも知れない。

マグリットの絵に砂浜を3本のローソクが白い蛇のように這っているのがある。エロティックで、ユーモラスで怪奇的で命を表現しているようだ。この絵をぼくのツイッターの本「雑念のごみ箱」の表紙に使用することにした。

昨日友人達が4日早いバースディを祝ってくれた。大きいローソクを7本、小さいローソクを5本、デコレーションケーキに立てて、息を吹きかけてもどうしても1本消えない。その内隣のローソクに火が移った。しぶとく生きたがっている自分に思えた。

2011年6月24日
◯本日の寄贈本
佐古文男さんより「ゲゲゲの旅」佐古文男著(Gakken)
「モダン盆景」佐古文男著(日東書院)
マキノ出版より「身体で考える」内田樹+成瀬雅春著

夕べ紹興酒を飲み過ぎたのか、逆に眠れず、今日は朝からあくびの連続で眠くて仕方ない。絵を描くつもりでいるが、困ったもんだ。時々絵を描きながらウトウトすることがある。筆が手からこぼれてズボンを絵具で汚す。そんな汚れたズボンが何本もある。

2011年6月23日
◯本日の寄贈本
幅允孝さんより「幅書店の88冊」幅允孝著/マガジンハウス

熱中症の季節になってきた。去年は4回倒れ、1回は点滴を受ける。今年は何回点滴を受けるでせう。

2011年6月22日
旅から戻るといろんなことがたまっている。それを片付ける作業は結構面倒だが、それを終えないと次のことができない。逆に次のことを先きにやっちゃうと、たまっていることが自然消滅することもある。というより忘れてしまうだけのことかも知れない。

岡山での公開制作の様子はブログに掲載しています。

生まれた時は単純で、段々複雑になって、また死が近づくと単純になる。ピカソやミロ、そしてロスコみたいに。

創造の吐き出す行為は結局、単純になる行為かも知れない。

言葉が豊富な方が真実が語れると思っているが、かえって複雑にするだけだ。真実は単純だから。

最初は固有名詞から健忘が始まる。その内普通名詞が出てこない。段々ボキャブラリーが貧困になってくる。だけど子供のように少ないボキャブラリーの方が真実を語ることがある。

公開制作で150号を描いたせいか、アトリエの80号はえらい小さく見える。もう150号はきついと思っていたが、まだいけることがわかった。自分の体力にやゝ負荷をかける方が気持が前進する。用心深くなることは老化を促進させる。

老化は生まれると同時に進行する。そのスピードに対して、先行することが負荷だと思う。

ぼくは45才で画家に転向したが、この転向そのものが年令と気力に対する負荷だったと思う。今の体力年令を持続させたいなら、やゝ負荷をかけるのが効果的だ。



岡山県立美術館公開制作



2011年6月20日
岡山から帰京。制作時に屈伸を繰り返すので腰が痛く、枕が変ると小刻みに目が覚めて、やや睡眠不足。早速マッサージを受ける。思ったほど体はダメージを受けていなかったようだ。治療中ウトウトする。この居眠りが最高。マッサージは速効性サプリメントだ。




岡山県立美術館公開制作


2011年6月19日
5日間の岡山での生活は創作のみで、残念ながら観光は次回に廻す。7月3日に館長との公開対談とまた描き残しの絵の続きを仕上げるために再度岡山に行くことになっている。

しばらく公開制作をしていなかったことと、体力の心配はあったが、今回で体力は自信を取り戻せたかと思う。今後のぼくの創作は知力より体力だ。むしろ知力は創作には邪魔だ。

岡山県立美術館での公開制作は非常にはかどり3日間で150号1点、100号ほぼ2点だった。それも観客があまりにも多いために最も広いエントランスの場所に変更。300〜400人の観客は今までの公開制作の新記録だ。岡山は「入らない」という風評は完全に覆されました。

2011年6月18日
9時半にホテルを出て、美術館へ。日に日に人出が多くなる。岡山のツイッターのフォロアーが展覧会の告知を次々送信してくれているので、入館者が増加し始めている。若い人や県外からの来館者も多く次第に活気を帯びてきた。

明日の日曜日の公開制作はちょっと大変なことになりそう。

今日はオフで岡山の観光見物と思ったが、美術館で次の作品に取りかかる。100号キャンバスを2枚ジャクスタポジション(平置)作品で、昨日のY字路の反復、別バージョン。予定にない公開制作だが、観客はふくれ上がる。

春の叙勲で旭日賞受賞を戴く。シリアスに喜ぶ。岡山にて。

2011年6月17日
東京での公開制作と変わらない、いやそれ以上の来客の熱気があと押ししてくれたように思います。この調子で明日は100号2点に取りかかるつもりです。まとめ打ちではなく、まとめ描きのチャンスだと思っています。

公開制作の作品は想像しなかった絵になりました。ぼくが描いたというより、観客のエネルギーという他力によって描かされました。

明日はオフということになっていますが、多分描くと思います。また明日は担当学芸員の高嶋さんによる出品作品の解説(ギャラリー・トーク)があります。(14時〜15時)こちらの方もぜひ。ぼくも聞いて見たいと思っていますが、イヤがれそうですね。

岡山県立美術館での公開制作がスタートした。驚くほど沢山の人達が来られ、ついつい熱が入り日曜日までに完成する作品(150号)が今日一日で完了してしまった。まるで別のゾーンに入ったように、制作が進んだ。

2011年6月16日
岡山に向かう途中、あちこちに田植えの終わった水田が鏡のように光って空を映している。子供の頃は水田の中にコブナが沢山いて、裸足になって片っ端から穫ったものだ。今どきそんな子供はいないだろうな。第一コブナが化学肥料のために水田からいなくなっているのだ。

作品を変えようと思わなくても、公開制作では自然に作風が変る。マナイタの鯉になるので、「どうにでもなれ」と居直れるから新境地が開拓されるのだろう。

公開制作の利点は肉体を晒すことで、なぜか無心になれる。見られることで自我意識が希薄になるからだ。この意外な化学反応は体験した者でないと解らない。

岡山県立美術館での公開制作(17日)のために岡山へ。公開制作を始めたのは1980年。アトリエがなかったので美術館のスペースを借りることになったが交換条件に公開制作を要望され、それが切掛け。このことによって絵画制作が如何に肉体的行為であるかを知る。

岡山の方へ––今日6月16日の山陽新聞に岡山県立美術館の個展の記事が大きく掲載されています。一読の上御来観を。

明日(10:00 a.m. 〜 4:00 p.m.)の公開制作のモチーフ(岡山市内のY字路)の撮影に出掛ける。雨のY字路はぼくのお気に入りだ。雨で滲んだ夜の街はまるで海底都市だ。

2011年6月15日
◯本日の寄贈本
竹本忠雄さんより「ノストルダムス・コード」竹本忠雄(海竜社)

竹本忠雄さんから著作「ノストルダムス・コード」が送られてきた。1970年にパリのモンマルトルで2ヶ月滞在した時、毎晩のように竹本さんの家で夕食を戴いた。そして世界の不思議について語り合った。竹本さんはアンドレ・マルローを日本に紹介された方で、現在は筑波大学名誉教授。また竹本さんに連れられて、アラン・ロブグリエやピエール・マンデァルグ、ボナ夫人とも会った。40年振りくらいで近い内ぜひ会いたいと思っている。今回出版された「ノストラダムス・コード」は世でいうトンデモ本とは異なる。本格的な学術的な本だと思う。是非手に取ってみて下さい。

2011年6月11日
1965年に開催されたペルソナ展のメンバー(すでに3人欠けている)の、永井一正、勝井三雄 、宇野亜喜良、細谷巌、和田誠、横尾忠則の6人でトークショー。全員が70〜80代になってしまった。当時ぼくは29才だった。同窓会のような集まりだった。

次の集まりは?「そして誰もいなくなった」日が確実に来るのだろう。アガサ・クリスティの小説もルネ・クレールの映画も最高に面白かった。

2011年6月10日
●本日の寄贈本
和田誠さんより「五・七・五交遊録」白水社
朝日出版社より「チョウはなぜ飛ぶか」日高敏隆著/写真:海野和男
和合亮一さんより「詩の礫」徳間書店
ワイズ出版より「若杉嘉津子」若杉嘉津子著/「江戸川乱歩全集・恐怖奇形人間」石井輝男著/「遊撃の美学」中島貞夫著/「加藤泰映画」加藤泰著/「大映戦慄篇」編著・那智史郎/「多羅尾伴内・七つの顔の男」関貞三著/「戦慄と冒険の映画王国」那智史郎著/「東京ホーシャセン」荒木経惟著/「ルネ・クレールの謎」ピエール・ビセール著

2011年6月8日
時々不眠症になる。原因は実に簡単だ。眠る瞬間を見届けてやろうと思うからだ。

居眠りの醍醐味はこの領域を彷徨できるからだ。

芸術の醍醐味はもしかしたら居眠りの醍醐味に共通しているのではないだろうか。

どちらだっていいと思うことが多い。上京したばかりの時、田中一光さんと喫茶店に入った。「何飲む?」と聞かれて、「なんでもいい」と答えて、延々説教された。本当になんだってよかったんだ。

彼には「東京では白黒ハッキリしなきゃダメだ」と叱られた。関西の方がずっと生きやすいよ。

ぼくの絵はどっちだっていいのだ。観る人間が好きなように見ればいい。ぼくには「こう観るべきだ」というコンセプトなんか最初からないんだから。

知らず知らず生まれてきて、知らず知らず生きて、知らず知らず描いて、その内、知らず知らず死ぬんだから、何をはっきりしろというんだ。

ラマ教の高僧は言葉など信じないという。信じるのはマントラだ。ラマ教の僧侶の描く砂絵も描き終ると同時に消してしまう。描くことそれ自体がマントラだ。われわれは描き終ってからが勝負だ。マントラは勝負を超えた世界だ。

われわれは勝負の世界に生きている。だから人生は戦場に例えられるのだろう。

前進が停滞した時、ぼくは反復を試みる。反復は過去の追憶ではない。

反復は未完の完成への願望だが、未完は永遠に未完だ。と思えば少しは救われた気分になるものだ。

1960年代の終り頃だったか、「未完への脱走」というエッセイ集を出した。あれから40年以上が経つが、まだ脱走を続けている。
反復も未完もその地平には自由があるから現状から脱走し続けるのだろう。幻想への脱走だと判りながらね。

2011年6月7日
◯本日の寄贈本
ワイズ出版より「美人女優」/「定本円谷英二・随筆評論集成」円谷英二著/「ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代」山田宏一著/「映画監督・深作欣二」深作欣二+山根貞男著
美術年鑑社より「空想美術館を超えて」河原啓子著
日本経済新聞出版社より「遊星ハグルマ装置」朱川湊人+笹公人著
和田誠さんより「Coloring in Wadaland」愛育社

2011年6月5日
◯本日の寄贈本
松本徹さんより「同時代の証言三島由紀夫」鼎書房

どこだか忘れたが、ある種族は昨日も、今日も、明日も「今日」と呼ぶそうだ。つまり、われわれは昨日にも明日にも存在しないからだ。たった今(Be here now)、つまり今日にしか存在しないからだ。

明日は? 多分、別の方法で描くだろう。だって今日は明日ではないのだから。

線一本引くだけで「出きた!」という作品もあるかと思うと、色を塗りたくって塗りたくって、消して、消して、描いて描いて、やっと「出きた!」という作品もある。今日はそんな絵を描いた。

2011年6月4日
◯本日の寄贈本
白水社より「本の魔法」司修著

昨夜、地震の夢を見た。来たかなと思った瞬間に、家が真半分に折れた。外を見ると数件先の家の向かい側から火が出て、猛火に包まれた。郷里の実家の辺りの光景だった。

今回の地震と関係なく、以前から地震の夢はよく見る。夢の中で何度も地震を体験させられているが、3.11の地震も今や夢の中の体験に思える。まあ今まで地震自体が非日常的だったから、夢とそう変わりないのだろう。
津波に襲われ、やっと助かった少年が、気絶して気が付いたとき、夢か現実か区別がつかなかったと語っていたのを思い出した。

恐怖的体験は時間が経つと、全て夢か幻のように思える、戦時中の体験だそうだ。そしてそれが不思議と創造の核になっているのだ。

2011年6月3日
◯本日の寄贈本
白水社より「本の魔法」司修著
イーストプレスより「粋に暮らす言葉」「憩う言葉」杉浦日向子著/「俺のトーキョー!」植田朝日著/「恋とセックスで幸せになる秘密」二村ヒトシ著/まんがで読破「カラマーゾフの兄弟」/「失われた時を求めて」/「種の起源」/「旧約聖書」/「コジキ」/「日本書記」/「新約聖書」
東洋書林より「芸術の蒐集」ウンベルト・エーコ著

アトリエの玄関には蟻が集まっている。蟻に限らず虫は踏まないようにしている。この虫も前世で人間だったと思えば踏むわけにはいかない。母からの教えだ。

2011年6月2日
◯本日の寄贈本
天野祐吉さんより「北風とぬりえ」谷内六郎著/天野祐吉作業室

2011年6月1日
◯本日の寄贈本
中川恵一さんより「放射線のひみつ」朝日出版社

昨夜ホテルの部屋が寒くて眠れず体調崩しかけたので一日切り上げて自分に対してドタキャンする。


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