3月31日
○本日の寄贈本
朝日新聞社より「運命のボタン」リチャード・マシスン著

春日八郎のCD全集と来月行くモロッコのベリーダンスの音楽などを制作しながら聴く、春日八郎とベリーダンスの合体はぼくの中で見事に同化しています。春日八郎といえば20代の頃、京都労音のポスターを担当していて、彼のコンサートのポスターをデザインしたところクレームがついたのですが、「こんなポスターは京都の伝統美をぶち壊す、ふさわしくない」という理由と、さらに「春日八郎がポスターを見て嫌がっている」といわれて、それを機に2年近く続いた京都労音の仕事を降ろされてしまったことがあります。


1964年制作

今日からツイッターを始めました。今後徐々につぶやきます。ブログと同様、こちらの方もヨロシク。


3月30日
ボブ・ディランのコンサートに行く。20世紀のアメリカの歴史に名を残すことになるディランを観るのも最後になるかも知れない。でも、あの60年代のディランはもうない。迫りくる老境には逆らえないのか、足元もおぼつかない。自分の体力と闘っているのか、体力に挑戦する姿に無理をしなくてもいいよ、と声を掛けたくなる。どの曲もこの曲も皆んな同じに聴こえる。長い長い一曲を聴いたという感じ。終わったあと細野晴臣さん、高橋幸宏さんらと食事をしながら、2人で演奏についての技術論を語っていたが、ぼくにはなんのことかわかりませんでした。東京湾のマンハッタンみたいなきれいな夜景の見える月島にすんでいる細野さんが遅くなったからと成城まで車で送ってくれる。

○本日の寄贈本
藤原書店より「父」石牟礼道子著


玄関の門に絡みつく花

3月29日
藤巻さん
50才前後の頃ですか?そうですね1980年代に45才で画家に転向をして、5年後ですね。ただ絵を必死で描いていましたね。絵に転向して、4年後にロスアンジェルスで1ヶ月以上滞在して、リサ・ライオンをモデルにした絵とイタリアの若手アーティストにモデルになってミラノの森でパフォーマンスをした絵をオーティスパーソンズ・ギャラリーで、劇作家のロバート・ウィルソンと別々の部屋で個展をしました。この時、心理学者のティモシイ・リアリィや画家のバスキアやミュージシャンのデヴィッド・バーンらも見にきてくれました。そのあとパリ・ビエンナーレにヨーロッパのコミッショナーによって選ばれて出品し、パリやリュッセルドルフやベルリンなどを旅行しました。この頃、サンパウロ・ビエンナーレにも招待出品をしましたが、体調を崩して現地には行けませんでした。その後、すぐにベルギー20世紀バレー団のモーリス・ベジャールからミラノのスカラ座で上演の「ディオニソス」の舞台美術の依頼を受け、ブリュッセル、ジュネーブ、パリ、ミラノを点々と移動しながら、舞台美術の制作をやっていましたね。そーこうしている内に50才になりました。まあ毎年のように展覧会が多く、その制作に明け暮れていたように思います。その間小旅行もしています。以上です。

○本日贈られてきたCDとDVD。
坂本龍一さんより「watch-ryuichi sakamoto playing the piano 2009 japan」DVD /「LOVE IS THE DEVIL/RYUICHI SAKAMOTO」CD

○本日の寄贈本
平凡社より「白川静読本」平凡社編
国書刊行会より「千夜一夜物語」ガラン版

今夜細野晴臣さんと高橋幸宏さんとでボブ・ディランのコンサートを観に行きます。以上

3月28日
今日は絵がうまくいった。すると、如何なる悩みも一瞬に解決してしまう。というかくだらないことのように見えるのだ。自分にとって一番大事な仕事を成功させれば、他の難問は全くどうってことないのに気づく。先ず最優先の仕事を片付けることだ。

成城の街で散歩中の俳優の土屋さんにばったり2年振りで会った。背筋が伸びてゆっくりだがスーッスーッと歩いていた。「土屋さん、老いぼれていたと思っていたら全然若いじゃない」というと、「死亡通知出そうかとおもっていたんだよ」、「八ヶ岳の別荘で白骨死体になっているんじゃないかと思ってたのよ」。土屋さんはぼくより一回り上。土屋さんは最近、黒澤明生誕百年で、「七人の侍」の唯一の生き残り俳優だというので、あっちこっちから呼ばれて講演やサイン会や、外国からの取材で忙しいらしい。東宝時代の空想科学映画の主演や宇宙人の役なので、そちらからも引っぱりだこだそうだ。久し振りにメシを食おうといって増田屋さんでカレーうどん、お店の女性に「土屋さんっていくつに見える?」といったら、「横尾さんと同年?」、ぼくは怒ったね。「そんな年寄りに見えるの?!」土屋さんは「言うなよ、俺の年を」と今度はぼくを土屋さんは怒る。土屋さんは成城に住んでいるけれど、別の家に引っ越ししたそーだ。「どんな家がいいの?」、「そうだね幽霊が出る家がいいんだよ」、「それって土屋さんの好みだよね」「うん、そんな家はうんと安いんだよ」、土屋さんはよく幽霊を見る人である。


3月27日
80年代に入ってからしばらくの間に制作したポスターの大半はペインティングとドローイングの作品が中心になり、今夏の大阪・国立国際美術館での全ポスター(900点)展に出品するために、美術館の建畠館長らとポスターの原画を南天子画廊で下見作業を行う。久し振りで見る原画ばかりで、原画としては今までどの展覧会にも出品していない作品ばかりだが、今回の展覧会には出品することになる。また国内の美術館でのポスター展は実は初めてなのだ。海外ではMoMA(ニューヨーク)、アムステルダム市立美術館、ベルリン、イスラエル、ワルシャワ、パリ、ブルーノ、ジェノヴァ、ローマ、ニューオリンズなどの各美術館で個展をしてきたが、本当に国内の美術館では初めてだということに自分でも全く気づいていなかった。

3月26日
○本日送られてきたCD
平野啓一郎さんより「葬送/平野啓一郎が選ぶショパンの真骨頂」ショパン作曲

ここ1、2年文楽に傾いていたが、久し振りに能楽堂で新作脳を観ました。小田幸子脚本、梅若六郎さんと野村萬斎さん公演。能と狂言の共演?ちょっと不思議かも知れないが、以前「夜叉ケ池」でも二人が共演、それだけではなくタカラヅカを退団したばかりの壇れいさんまでも共演。このポスターをデザインしました。今回は能の中に狂言が導入されていますが、狂言の中に能がからむ場合(梅原猛作「ムツゴロウ」の場合ーこれもポスターを担当)もあります。一般的に能は何を言っているのかわからないものですが今回の「野馬台の詩」は狂言の部分が多いだけにエンターテイメント化され、客席からの笑いもあり、結構面白かった。梅若さんが少しスリムになられて、萬斎さんとの20才近い年令差を感じさせない若々しさに驚きました。ついでながら拙著「ポルト・リガトの館」三篇共能仕掛けになっていますがわかっていただけたでしょうか?

3月25日
○本日送られてきた本
新潮社より「神の木・いける・たずねる」川瀬敏郎/光田和伸共著

腱鞘炎で右手を痛めている所に猫に引っかかれて、血が噴き出した。雨の日新聞を包んで配達される薄いビニールの袋を頭からと、お尻からパンツを履くようにかぶせて、袋の外からちょっかいを出していたら、いきなりビニールの中から爪を立てた腕が飛び出して、掻きむしられてしまい、筆を持つ手がジクジク痛む。

3月23日
昨日一日、凄く疲れた。少し疲れたということは時々あるとしても昨日は本当に疲れた。原因が全くわからない。以前宮崎まで列車で往復したことがあった。車中10時間ズーッと原稿と読書に首ったけになっていた。この時の疲れも非常に大きかった。この後遺症は一ヶ月近く続いた。病院に行ってもわからなかった。普通車中で本を読んだり、原稿を書いたりしてもまあ大して疲れることはないと思っていたので、この時の疲労の原因が全くわからなかった。何か大病でも患っているのではないかとさえ思えるくらいだった。それが車中での仕事が原因だとわかったのはずっと後からだった。そして昨日はこの時と同じような疲れを感じた。するとここ2〜3日、一日中読書と原稿を書いていた。読書といっても自分の読みたい本だから、愉しいはずだ。原稿といっても別に頼まれもしないエッセイを勝手に書いているだけだった。それがストーンと穴の底に落ちるような疲労を感じた。集中すると姿勢も変えないで何時間でも没頭してしまうからだ。大勢の人に会うのも疲れるが、ダメージを受けることはなかった。また疲れた時、絵を描くと快復することもあった。今まで疲れ=病気と考えたことはなかったけれども、これからは、疲れこそ病気の原因と考えを改める必要を考えさせられた。仕事と休養のバランスが静養につながるというこんな単純なことが、やはり身を挺して実感しなければわからないのだった。

メダカのケンカは凄い。お互いに一歩も譲らない。死闘に近い。巴卍になって渦巻模様に格闘する。まるで道教のイーチン。

タンスの奥から引っ張り出してきたセーターを着ていたら、長男は「ジーンズメイト?」と言った。その通りだ。またニット帽を見て「それもジーンズメイト?」と聞いた。そージーンズメイトばっかり身につけてないよ。ニット帽は「シャネルでした」。

ついでに今日のジーンズはオーストラリア製(ハワイで購入のブランド)、ジャケットはイッセイ・ミヤケ、シャツはポール・スミス。以前アメリカの画家ジェニファー・バートレットと会う度に"How many country do you have?"といって今日は何カ国の衣装を着けているか?とお互いに聞いてい多い方が勝ちだからといって、また次の日はお互いにできるだけ沢山の国の衣装で会うのだった。

3月22日
老境に入って読んでみようと思い、「古塔の地下牢」と「緑の目の少女」を買い、風が強かったが暖かかったので公園のベンチで「古塔の地下牢」を読んだ。息つく暇もないサスペンスの連続に子供の思考のスピードについていくのが大変。頭の回転がにぶりかけているのでいい訓練になる。夜は五木寛之さんの「親鸞」を読む。これは大作で、じっくり読む。親鸞によれば悪党ルパンも救われます。

昨日の朝方の雷雨と嵐で庭の樹々の枝が驚くほど折れて地面に重なり合っていた。風が強いのか樹がもろいのかどっちか分からないけれど、荒れ狂った跡の状況はそう悪くない。破壊のエネルギーは妙に元気にしてくれる。一度スリナガルで体験した暴風雨の跡のすさまじさは感動的だった。この時の印象を「ポルト・リガトの館」の中の〈スリナガルの蛇〉に書いている。

3月21日
去年の暮、新型インフルエンザの猛威をよそくして、薬局からマスクが消えてしまったことがあった。だけど、その割にマスクを着用している人はほとんど見なかった。ところが最近やたらとマスク着用の人を沢山見るがあの人達は、風邪を引いているのか、それとも予防なのか、あるいは花粉症なのか、単に防寒のためなのか、それともオシャレなのか、単に自己主張なのか、何が理由なんだろう。とにかく気になって仕方がない。

○本日送られてきた本
岩波新書より「想い出袋」鶴見俊輔著/「同性愛と異性愛」風間孝・河口和也著
講談社現代新書より「ニッポンの刑務所」外山ひとみ著/「母親はなぜ行きづらいか」香山リカ著/「大学論」大塚英志著

3月20日
書評用の本がどんどん集まり、それ以外の献本も多い。その上、自分の好みの本も買う。一日中、本ばかり読んでいるもうひとりの自分が欲しいくらいだ。愉しみのために読む本、学習のために読む本、資料のために読む本に囲まれながら、本と無関係なような絵を描いている。30才まではほとんど本は読まなかった。仕事に全ての時間を奪われていたので読書の時間が全くなかった。45才で画家に転向するまでは本当に超多忙で独学というより、無学のままで突っ走ってきたそんなツケが今頃きたのだろう。天からも地からも本が降ったり湧いたりしている。それにしても物忘れが激しく読んだ尻から消しゴムで消されるように記憶の忘却に襲われている。まあシャーナイヤンケというしかない。

3月19日
昨日、重体でほとんど死んだも同然だったメダカが今朝見たら快復していた。すでに腐敗したように白くなっていたのに、不思議だ。水槽の外から手の平を当てて、生体エネルギーが送れないかなと思ってマネ事をしたのが効果あったのか、とにかく生き返ったのだ。いつものように全員が元気で泳いでいる。

書斎には水槽が二つあってもうひとつの方にはどじょうとエビが2匹いる。ここの他のエビ2匹をメダカの水槽に移したら間もなく死んでしまった。理由はわからない。どういうわけか、夢でこのエビのいる水槽の様子をよく見る。日中、あまり関心を向けていないので、せめて夢の中で見せられるのだろうか。

3月18日
スポーツ誌「Number」を毎回見ているけれど、写真がなかなかいい。なのにスポーツ写真は芸術としての評価がほとんどされていないのはなぜだろう。ルールに従って行動するからかな。決定的瞬間でよくこんな写真が撮れるなと思うのがいっぱいある。バッターが振ったバットに硬球がベチャッとお餅みたいにくっついた写真などは凄いと思うし、同時にユーモア写真でもある。スポーツ写真の傑作はやはり決定的瞬間だが歴史に記録されるためには、その写真の背景がないと評価されないようだ。例えば長嶋の初の展覧試合で阪神戦でサヨナラ満塁ホームランとか王のアーロンの記録を抜いた756号とかではないと傑作写真といわないようだ。やっぱりスポーツ写真は報道写真のカテゴリーに入るのかも知れない。

糸井重里さんが拙著「ポルト・リガトの館」に対してというか、結局はぼくに関してなんだけれどユニークな文を書いてくれて、(「ほぼ日」参照)そのお礼をメールで、またブログで報告したら、えらい喜んでいただいたとか。なんでも糸井さんのことを「墓泥棒」と書いたのがお気に入りとか、(スタッフの意見)でした。糸井さんは「墓泥棒」かも知れないけれどぼく自身は「墓堀り人夫」だ。

○本日送られてきた本
五木寛之さんより「親鸞/上・下」五木寛之著
森村泰昌さんより「全女優」森村泰昌著

今、メダカが一匹死を迎えて、断末魔の苦しみの中で喘いでいます。間もなく息が途絶えることでしょう。すでに透明の肉が死装束の白色に変わりかけています。最後の力をしぼって、死と格闘しています。ふと「方丈記」の一説が浮かびました。

3月17日
メダカが何を思ったのか突然数匹でパフォーマンスを行うことがある。勢いよく相手の体にぶつかると、その瞬間から目に止まらぬ早さで、2〜3匹が三つ巴になってカンフーみたいな格闘技を始める。そのスピードの早さはどのメダカがどれだか分からないほどで、まるでコンピューターの世界だ。彼等の運動の軌跡が光線か何かで記憶されれば、まるでジャクソン・ポロックのクロス・オーバーペインティングだ。こんな決闘ともダンスともつかないパフォーマンスが、長時間繰り返されるのだが、一体何をしているのだろう。メダカの交配だとしたらまるでケンカごしだ。そんな格闘技が行われている中で、一方、割れ関せずの態度を取るメダカもいるのでこれはこれで立派といえば立派だ。そんな状況に無感情でおれるのはまるでジュール・ベルヌの「八十日間世界一周」のフィリアス・フォッグうらいだ。

3月16日
30才になるまであまり本を読まない生き方をしてきたように思う。10代までは3〜4冊、20代では10冊に満たない。小学生では1冊も読んだ記憶がないから、30才になるまでは平均2年に1冊位の割合だ。それが現在では書評本も含めかなりのペースで読んでいる。まあ読むのが遅い方だから、そんなに読めないが、まあ毎日読むことは読む。朝日の書評を始めるようになってからは自主的に買う本とは別種のものを読むことが多いので、この仕事を引き受けてよかったかなとも思っている。とはいうものの全く関心のない気色の違う本を読むことはない。読書に最も適した年令に本を読んでこなかったことにはちょっぴり後悔はあるが、今それを取り戻そうとしているようで、その点では納得できる。10〜20代に読むべき名作や伝記をこの年で読むと不思議に少ない未来にもかかわらず夢や理想を抱きながら生きようとする、そんなところが我ながらおかしいのである。

今年は去年と明らかに異なる動きをしているように思う。体を移動する仕事が多くなりそうだ。絵の方も従来のスタイルを意識的に変化させようともしている。というか解体させとうとしている。一度チャラにしたがっているようだ。そんな風にもうひとりの自分がやや高所から俯瞰しているが、さらに第三の「私」かな?

3月15日

光文社文庫で「名画感応術」と「裸婦感応術」を出したところ、前者は凄く売れたけれど「裸婦—」の方はもうひとつでした。ところが内容的にはこちらの方がズーッとズーッと面白くていいのに、タイトルが「裸婦—」だから、女性が恥ずかしがってレジに持って行けなかったようです。今度の小説集「ポルト・リガトの館」もエロティックなシーンがありますが、題名がちょっとロマンティックでしょう。だから女の人も堂々とレジに持って行きます。愛がテーマです。ヨロシク。

藤巻一也さん
早速読んでくれてどーも。そうですね。現実を凹レンズで見たり、双眼鏡を逆さに見たりして、ゆがめたりデフォルメしたり、解体したり構築したり、現実の表皮をペリッとめくったりしながら、現実と非現実を交換したりしていますが、残念ながら私小説ではありません。。まあ横尾版アラビアンナイトです。

元匿さん
現実はどーにもならないほど閉塞状態でも時間が経って、かつての現実が過去になった時、全ての難問は解決していることが多いですよね。だからまた明日もあると思うんじゃないかな。時間が解決するというけれど、これ信じていいように思いますね。そうですね、「アッチイタイ、コッチイタイ」というのはぼくの専売特許で、ぼく自身、「マタイッテイル」と思って相手にしないんだけど、人騒がせをやっていると、いつか自分は台風の目の中にいるようで、落ちつくんです。ご心配させてすみません。

糸井重里さんが「ほぼ日」でぼくの「ポルト・リガトの館」についてというか、この本の著者という人についてあれこれ、それこれ、と面白くて、ためになる文を書いてくれています。ぜひぜひ読んでみて下さい。ぼくの小説は文学という大河から飲み取ったものではなくむしろ絵画の大河から飲み取った一滴だと思います。なんだか秘密を暴かれた様です。糸井さんって墓堀人夫じゃなくて、エーッと墓泥棒みたいな人ですね。糸井さんの言葉に耳を傾けたあと、どうぞ「ポルト・リガトの館」を御賞味下さい。賞味期間はありませんので。

時々水槽のメダカの視線になって水槽の中や、中から見る外の世界をバーチャルしてみる。岩に生えている藻はちょっとした芝生の草ぐらいある。水底の小さい石はまるで富士山頂近くの岩のようだ。水草の中はちょとした森だ。無数の枝と枝の間をくぐり抜けるには技術がいるが幸い体が柔らかくてくねくねしているので、どーってことない。上空から落ちる滝は水中でサッカーボールくらいの無数の水玉になる。それが上下に輪舞している。時々その中に飛び込むと、全身マッサージされているようだ。この場所は水圧が変わっていて、流れが速い。この中には毎日は入らないが、時々仲間と追いかけっこしている間に危うくこの中に吸い込まれることがある。毎日同じ所でこれという仕事もしないで、意味もなく泳ぎ続けている。寿命のことなど考えたこともない。第一死の観念なんてない。ここに連れてこられた最初の頃は、物凄い広大無辺な宇宙空間だと思ったけれど、その宇宙は外宇宙と呼んで、われわれの水の惑星との間には肉体では行けないガラスと名付けられた結界があることを知った。ふと我にかえって時計を見ると12時半だ。さあ外食に出よう。

3月13日
今日、兵庫県立美術館で養護学校と小学校の二校の生徒の作品とぼくの作品の交換会があったそうだ。養護学校の生徒は「目に見えないものを描いた」と凄いことを言ったそうだ。負けますね。われわれはこのことに四苦八苦しているのにいとも簡単にサラッと言われちゃうと、もはや相手が子供であろうと、もうぼくのライバルだ。

神戸市内の美賀多台小学校と青陽東養護学校の生徒さんから作品を交換したお礼の寄せ書きが送られてきました。二校の生徒の作品は着き次第、ブログに紹介します。


加古川線のラッピングカーを紹介します。詳細は今月号の「芸術新潮を」見て下さい。

『見る見る速い』
 
『滝の音、電車の音』
 
『銀河の旅』
 
『走れ! Y字路』

3月12日
○本日送られてきた本
みすず書房より「定本ジャコメッティ手帳」矢内原伊作著
薗部雄作さんより「脱・西洋の眼」薗部雄作著

何もしないまま黄昏を迎え一日が終わろうとする時、少し気分があせる。何もしなかったことに対する罪の意識のようなものが働くのか、思わず評価を下してしまう。何もしないまま時が過ぎていくのをどうも近代人は許し難く思うのだろう。何もしないことと意味のない時間を分けて考えないからに違いない。何もしないことは意味から自由になることではなかったのか。人間は常に意味を求め、その結果、この文明を作ってしまった。そしてその文明の未来に不安を抱いて鬱の時代を向かえているのではないか。意味と答えを求めて人間は質問を繰り返してきた。「なぜ?」、「なぜ?」と。その質問に答えようとした結果、人類は「核」を発明してしまった。

3月11日
○本日送られてきた本
渡部真さんより「私説・教育社会学」渡部真著

右手の親指の付け根と手首の辺りがここ一ヶ月ぐらい痛む。もしかしたら腱鞘炎かなとも思うのだが、別に筆やペンを持っても痛まない。神経質?リュウマチ?だったら温泉が一番だけど、面倒臭い。この前右の人差し指が痛かった時、城崎温泉で3分間で痛みが取れたけれど一過性のものと思っていたら、あれから1ヶ月半経つが一向に痛まない。あの時も親指が少し痛かったように思うのだが、治ったのは人差し指だけだった。一回の入浴で1本づつしか治らないのだろうか。もし5本痛いと5回温泉に行く必要になることになる。手足入れて計20本。温泉20回。百足だったら百回か。アホなこと考えている間も無関係に痛む

3月9日
このブログを書いている最中にシャックリが出始めて止まらなくなってしまった。いつまで続くのかわからないのが、最初は面白がっていたが、どうも止まりそうにはない。ちょっと疲れてきた。以前高倉健さんが遊びに来られた時もシャックリをしてらしたが、いつも映画の撮影に入る時にシャックリが出るそうだ。薬を飲んでおられたので何日も続いているらしい。健さんが帰られて、二日後だったか沖縄から電話があった時、まだシャックリが出ていた。こんなに長い間シャックリが出ていると、シャックリが止まる最後ってちょっと興味がある。最後のシャックリは何を根拠に最後なんだろう。

○本日送られてきた本
大竹誠さんより「初めてデザインを学ぶ人のために」大竹誠著

3月8日
はこたゆうじさん
毎回送ってくれるあなたの絵を見るのが楽しみです。画集発刊おめでとうございます。ぼくの小説「ポルトリガトの舘」も今週中に出ます。あなたが言ってくれているように、ぼくの小説にはエッセイや日記のエッセンスが最もよく表れているように思います。そして絵とも対応しています。今年は絵に専念ですが、いくつかアイディアがあるので書きたくなれば書くかも知れません。それとモロッコのこと、なぜモロッコなのか自分でもよくわかりません。ただ行きたくなっただけです。

竹内信介さん
西脇市岡之山美術館の展覧会名「確想重積の光景展」は館長の命名でぼくも意味がよくわかりません。聞いてみて下さい。

田中小百合さん
今度の小説は全作「ぶるうらんど」の延長上にあるようにも思います。でも、独立した物語です。

目下ニューヨークのMoMAで「Shaping Modernity: Design 1880–1980」という展覧会が開催されていますが、現地の方、また旅行者の方、足を運んでいただくと嬉しいです。

○本日送られてきた本
国書刊行会より「冒険狂時代・ピピちゃん」/「ケンエ探偵長」/「サボテン君+快傑シラ」手塚治虫著
徳間書店より「プロジェクト・ペガサス」by ペガサス
和田誠さんより「ポケットに砂と雪」和田誠著

勝新太郎はある日シナリオライターとホテルのエレベーターに乗った。そこへエキセントリックな恰好をした女性が乗ってきた。勝新は非常に興味深く彼女を観察したが、一緒にいたシナリオライターはむしろ彼女から視線を外した。あとで勝新はシナリオライターに、「お前はどうして彼女を見ないんだ」と言ってえらい怒った。勝新は演技の基本は「見る」ことだといった。クリエイターであるシナリオライターが見ないとはけしからんと。ぼくは歩きながら、気になるものを見るとカメラのシャッターを押す。別に資料のためではない。プリントアウトする必要もない。「アッ!」と思ったものにシャッターを切るのは、その対象を体の中に移植させるためだ。こうすることで対象を記憶し体の中にスクラップして閉じ込めるのだ。ただそれだけだ。あとは忘れてしまってもいい。

3月7日
「天才・勝新太郎」という本を読んでいて、ふと昔のことを思い出した。勝新がハワイへの機内でパンツの中にマリファナを隠し持っていて逮捕されたために、キリンラガーのテレビコマーシャルの放映が禁止になった。そのことで急遽、ぼくのところと遠藤周作の二人にその仕事が廻ってきた。勝新のギャラ一人分をぼくと遠藤さんが分ける形になった。ビールの飲めないぼくを知りながらクライアントは依頼してきたのだ。CMのセリフは自分で作ることになり、ぼくは「ビールの飲めないぼくでも飲めるキリンラガー」というコピーを撮影現場で作った。面白いコピーだと思ったが、「飲めない」という否定文は困るといって、キャンセルになった。そこで次は「キリンラガーを飲んだら魂が飛んじゃった」というコピーを作ったら「こりゃいい」といってすんなり採用されて、放映された。このコピーはぼくのブラックユーモアだというのが誰にも気がつかれなかった。「魂が飛んじゃった」という意味は「死んじゃった」ということだ。「キリンラガーを飲んだら死んじゃった」と言ったのに誰ひとり気付かなかったことに、ぼくはひとりほくそ笑んだのである。今だから話そう。

3月6日
戦後間もなくの頃だった。本を開くと何ともいい匂いがした。あれは何の匂いだろう。最近の本はあまり匂わない。匂ってもしばらく嗅いでいたい本はない。一冊一冊全部違う匂いがするのが、この間手にした本は昔の匂いがした。子供の頃嗅いだ匂いそっくりだった。その匂いを連想する他の何かの匂いを探したが見つからない。やはり戦後の本の匂いだ。ぼくはこの本(タイトルを言っても意味がないので、あえて言わない)を読みながら何度も本を開いて鼻に持ってきて犬のようにクンクンと嗅いだ。本に限らず道を歩いたりして突然いい匂いが鼻をかすめることがある。そんな時、もう一度その場所に戻ってみるがその時は匂わない。あの香りは一体どこからやってくるのだろうか。気分が落ち込んだり、また逆に気分が高揚している時にフーッと匂う。すると気分が変化する。二日に一回位の割りで匂ってくるのだ。場所は特定しない。香水の匂いでも花の匂いでもない。過去からやってくる匂いとでもいっておこう。

3月5日
○本日送られてきた本
扇田昭彦さんより「蜷川幸雄の劇世界」扇田昭彦著

今日はいい天気だったので公園でエッセイを書く。自然の中の書斎は結構活用できる。その上陽に当たることで身体も健康でおられるのでは。川の水が少なくなっていて鯉のせびれが水面から出ているのがちょっと痛々しい。雨は嫌いだけど川の鯉が喜ぶかと思うと雨降りも嬉しくなることがある。

3月4日
○本日送られてきた本
朝日出版社より「西洋絵画のひみつ」藤原えりみ著

元匿さん
どうしちゃったのかと思っていたら、いろいろ考えることがたくさんあったそうで、ぼくもいろいろ考えることがたくさんありますけれど考えるのが面倒臭くてほったらかしにしていたらいつの間にか気がついたら解決していたり、大したことでなかったり、結局運にまかせるしかないんですよね。運に対して低姿勢になるのが一番いいみたいですね。ぼくのいろいろはこの間まで身体のことだったけれど、今は来月カサブランカとかマラケシュに行くことを考えています。この間からあまりテレビを観ないんですが、ふとつけたらモロッコの番組を2回も観てしまって、だんだんモロッコ、、モロッコと頭の中で繰り返している内にとうとう行く決心をしてしまいました。

3月3日
今日は暖かい。公園での読書日和だ。そのために本を2冊買ってきた。その一冊は貝原益軒の「養生訓」。何冊も持っていて、何回も読むんだけど、訳者が変わるたびに買っている。買うことがすでに養生訓の実践になっているのだ。

アトリエに向う時、目の前を歩いていた帽子にコート、スニーカーにショルダーバックとビニール袋(買物がいっぱい入っている)を持った白髪混じりに薄いサングラスの初老(?)のおばさんが、ぼくが追い越しそうになると急に5~6メートル走り出す。近づくとまた走る。道路に面した公園の近くになると公園内の抜け道をダッシュする。また近づくボク。また走るおばさん。またぼくの足を聞いたおばさんは走り出す。こんなことを10回ほど繰り返す。あんまり面白いので、どこまでもおばさんの後をついていってやろうと覚悟する。その内おばさんは走り疲れて倒れるかも知れない。と思ったらアトリエの隣の歯医者さんに入ってしまった。

オリンパス主催の「クリエイティブ・フォト・コンテスト」の第一回目の審査をすることになりました。詳細は下記オリンパス・ペンのホームページをご覧下さい。
http://fotopus.com/style/photocon/

○本日送られてきた本
平凡社より「松本清張=黒の地図帳」/「白子正子=十一面観音の旅」別冊太陽

3月2日
オノ・ヨーコさんがアトリエに遊びに来られて、夕食をしながら4時間あれこれマクロから、ミクロまでの話しをする。いつも彼女といると時間の外に出ているようで、中々帰還ができなかったりする。チェコの国立モラビアン・ギャラリー(美術館)での個展のミーティングに来ていた館長、学芸員、大使館の人達がヨーコさんの来訪で、びっくり仰天。ヨーコさんの海外での知名度の偉大さを目の当たりにした感じだ。ぼくがびっくりしたのは別のことだが、40年前から行方不明になっていたピンクガールの1966年作「テレビ」がなんとヨーコさんの手に渡っていた。いつ海外に流出したかわからなかったけれど、まさか彼女のコレクションになっているとは!!絵の運命の不思議さを見せつけられた感じだった。


アトリエにてオノ・ヨーコさんと
○本日送られてきた本
木村永遠さんより「おにぎりはすりすり」にぎにぎ著

やっと、小説集二作目「ポルトリガトの館」(文藝春秋)の見本刷が出来た。表題作の他に「パンタナールへの道」と「スリナガルの蛇」も収録されている。この三篇は別々の物語だが、それぞれの頭と終わりの部分で連鎖している。他にも共通したイメージがある。物語の舞台はスペイン、ブラジル、インドと南方の旅で遭遇する世にも不思議な「現実」の話である。現実ともうひとつの分離した現実が交差することで能の世界を再現させて見たかった。前作「ぶるうらんど」の第三章目がそうだ。是非読んで見て下さい。そして感想を寄せていただくと嬉しいです。発売は3月10日。


○本日送られてきた本
平凡社より「健康問答」/「養生問答」五木寛之・帯津良一

3月1日
文章のプロはそんなことないのかも知れないけれど、ぼくは文章など書いて、校正もするのだけれど、それが印刷物になって商品、製品になって、社会化された途端、書いた文章のアラやミスが見えて、ああすればよかった、こう書けばよかったと思うのである。まぁどうでもいいことだけれど。

人間はどうでもいいことにコセコセするが、アートはそんなもんを突き抜けた存在でなければならない。技術がどう、美がどう、何をテーマに、なんて言っている間はあきまへんなぁ。どうでもええという境地にならんとあかん。

↑↑ GO TO THE TOP ↑↑