2011年8月31日
「ぶらぶら美術館物語」が横浜トリエンナーレを取材することになってぶらっと自作の展示会場に入ってナビゲーターの山田五郎さんと話す。山田さんは美術にも博識で、今までも時々見ていて、知らないことを教えられることがありました。13日(火)日本TVのBS夜8時より。

事務所に出入りしているクロタマが今日は、黒と白黒の2匹の子猫を産みました。このあとどうなるのかさっぱりわかりませんが、子猫が外に出てしまわない限り、家猫でしばらく飼って、その後里親に出したいと思います。以前の子猫は消息不明です。

マグリットの絵のタイトルは「メディテーション」です。ツイッターとメディテーション? ぼくのツイッターは坐禅(メディテーション)時に去来する雑念ですから、この「メディテーション」という題名はピッタリでしょう? またこの作品の制作年がぼくの誕生年(1936年)です。偶然です。

いよいよ(という言い方も変だけれど)「ツイッター、その雑念のゴミばこ」(角川書店)が9月1日より発売されます。都心の書店では今日(31日)の夕方です。ちょっと縦長サイズでルネ・マグリットのローソクが砂浜を蛇のように3匹(3本?)はっている何んとも不思議な絵です。詳細はHPで!

2011年8月30日
◯本日の寄贈本
西川隆範さんより「シュタイナー、天地の未来」ルドルフ、シュタイナー著 
西川隆範訳
埼玉県立近代美術館より「瑛九屋」カタログ

今日は和央ようかの「ドラキュラ」を観に行く。彼女の宝塚時代には「ベルサイユのばら」のポスターを描いた。

今回の横浜トリエンナーレのタイトルは「OUR MAGIC HOUR」。一作家一部屋を原則に非連関性が強調されている。どの作品にも作家の意図が示されているが、その観念は要易に探れない。それが「われわれの魔術的時間」なのだろうか。

2011年8月29日
ツイッターは雑念のメモみたいなものだ。マルセル・デュシャンも機会があるたびに書いていたメモをボックスの中に入れて、それ自体を作品にした。今度ツイッターを集めた本を出すが、「雑念のゴミばこ」としたのはどこかにデュシャンのボックスのイメージがあったのかも。

横浜トリエンナーレに今日初めて観に行った。

2011年8月27日
ジトッとした日は足が痛むのでマッサージをしてもらいます。色んな場所でクーラーを受けたり、また暑いので歩く機会が少ないためにどうしても運動不足になりますので、他人の手を借りて運動してもらうのです。

2011年8月26日
●本日の寄贈本
保坂和志さんより「小説の誕生」保坂和志著(中公文庫)
藤原書店より「ウクライナの発見」小川万海子(藤原書店)

以前一度自転車の鍵を掛けた時、開けることができなくなり、放置して帰ったことがある。それ以来鍵を掛けなくなった。だけど今度は新車だからどうかな? 今のところ盗まれていないけれど。

2011年8月25日
ビタミン剤を摂取するのを止めたら、咽の異変も軽くなって、声のかすれも取れて、少しずつ普通に戻ってきたけれど、こーいう体質の人っているんですかね。

2011年8月24日
この間のすごい寒い日に街で眼鏡店のオーナーにあった。思わず「寒いですね」と言うのを、うっかり、「暑いですね」と言ってしまった。すると相手も「本当に暑いですね」と言った。二人共ウソばっか。

2011年8月23日
田原総一朗さん。ここしばらくツイッターを見ていませんでした。その間にツイートいただき失礼しました。横トリ見ていただき感謝しています。メイルもありがとうございました。

シャガールの震えた線はガラスのヒビ割れを想像させるが、ここに至るまでに彼はこの手法を彼の肉体を通して取得したもので、それを真似したとしてもそこに肉体の経験がないと単なる借り物でしかない。

絵の手法(様式)はどんな方法でも、その本質の部分が「自然」の仕組とどこかで一致していれば、その作品は芸術になり得るということが、自作の制作の過程で気づいた。別に珍しいことではないかも知れないが、画家はこうして肉体を通して学ばされるような気がする。

2011年8月22日
ぼくのツイートが身辺整理をしているみたいだと言った人がいたけれど、ぼくは25才の時からメメントモリ(死を想う)状態だ。絵を想うことはぼくの中では死を想うことと同義語だ。だから身辺整理は今日、昨日に始まったわけではない。

ぼくの雑念(ツイート)はぼくの中のヤバイもの、エグイもの、ダサイもの、恥ずかしい不透明なものだったりするので、毒にも薬にもならないガラクタ想念だと思って、早いとこ素通りしてもらっていい。

このところの気温の変化の激しさはそんなに嫌ではない。落差の激しさは創造のエネルギーになる。

2011年8月21日
本当に不思議だ。事務所が休みの日は野良猫がやってこない。人間には解らないことが彼等には解るらしい。

家の近くでパトカーに職務質問された。ボロ・ママチャリに乗って和物アロハにキャップ。どこか怪しかったらしい。盗難品の自転車に乗っているオッサンと思われたらしい。荷台がはね上がった自転車は若者が愛用するそうだ。「あっ、横尾さん」で済んだけど、もっと追求してもいいんじゃない。

神戸で1回、東京で3回目の職務質問だ。どうも怪しいオーラを出しているのかな。警官とのやりとりは不条でもあるが快感でもある。退屈な日にはちょっとした事件で、両者にとってお遊びでもある。

絵には事件が必要だ。平々凡々の中からは何も生まれない。日頃しないことをするのも、ちょっとした事件だけれど、想定外のことが起きるのをぼくの無意識が望んでいるのかも知れない。

2011年8月20日
◯本日の寄贈本
岩波新書より「仏教漢語50話」興膳宏/「老いの歌」小高賢
白水社より「偽りの来歴」レニー・ソールズベリー/アリー・スジョ

野良猫も事務所の休日(土日)はよくわかっていて、猫の子一匹も来ない。休日明けは物凄くよく食べる。週2日の断食も今では板についてきた。

ツイッターに関するエッセイの依頼を受けて翌日すぐ入稿したが、編集者からの反応はなし。面白くないヒト!

こちらは面白がっているのに、真面目人間は「遊び」がわからないのだ。

2011年8月19日
猛暑のあとの雨は甘露の露でありがたい。そんな雨の中、街を歩く。車の飛沫で足元が濡れたが、待ちに待った雨だから、これも良し。外のメダカの鉢の水の増水だけが心配だ。天候の気分転換に、こちらも気分転換にヘアーカットへ。

「ぴあ」が休刊して、表紙を描いていた及川正通君から、最終号とその前号に彼のインタビューが載っている2冊を送ってくれた。彼と事務所を持っていた時代の懐かしいエピソードを語っていたが、ついこの間のことのよう。時間は古びたが記憶は新鮮だ。

昨夜10時に寝て、目が覚めた時はグッスリ眠った感じなので、朝の4〜5時頃だと思い、起きて、電気をつけたら、11時30分だった。部屋のどの時計も11時30分だ。だけど熟睡気分なので全く信じられない。そういえばテレビもまだ今日の番組だ。そのまま3時頃まで起きていた。

2011年8月18日
○本日の寄贈本
ハヤカワ文庫より「闇の王国」リチャード・マシスン著

この間から喘息がひどく、咽がザラザラして声が出にくい。色々原因を考えたら、丁度その頃からビタミン剤を飲み出した。以前にも全く同じ症状が起って飲むのを中止したことがあったが、すっかり忘れていた。ぼくには合わないらしい。

風邪薬の時も、喘息薬の時も同じように声が出なくなった。喘息に喘息薬が合わないなんて、困ったものだ。

2011年8月17日
○本日の寄贈本
荒俣宏さんより「アラマタ生物事典」荒俣宏著

昨日はちょっと熱中症になりかけたので、あわててスポーツでドリンクを飲んだら治まった。去年の経験があるので、ヤバイ症状はすぐわかるんです。

アンリ・ルソーの2コマ・アートのシリーズの内26点がニューヨークに行ってしまうことになった。国内では姫路市立美術館の11点のみ。手元に一点もなくなったので、引き続き描くつもり。13点描いて計50点にして完結させたい。

2011年8月16日

この夢はぼくの中のアストラル体が睡眠中に肉体からソーッと抜け出して、死のシミュレーションを体験したビジョンだったのかも知れない。

神戸新聞宣伝研究所のボロ社屋から神戸新聞会館の新社屋に移った頃の自分(18〜20才)の姿を克明に夢で見た。口ベタで、恥ずかしがり屋で、気が小さく、オドオドした劣等感のカタマリの時代を一晩じっくり追体験させられた。死後最初に見るビジョンを先きに見せられた感じだった。

雑念を吐き出す。雑音は自然消滅する。雑縁は不必要になる。残った時間は死ぬための準備だ。

言いたいことが言えない絵(または画家)はその創造と人生に於いて勇気がないということでも不誠実だ。

ぼくは絵で言葉を否定しようとしている。絵の中から言葉を追放させるとはそーいうことだ。美そのもので言葉ではなく哲学を語らせたいのだ。それがこれからのぼくの絵画修行だ。

ぼくの小説「ぶるうらんど」と「ポルトリガトの館」でも能プラス狂言の手法を取り入れた。ぼくの新作絵画(横トリ出品)も見えるものを消すという能の逆を描いた。

ぼくは絵で言葉を否定しようとしている。絵の中から言葉を追放させるとはそーいうことだ。美そのもので言葉ではなく哲学を語らせたいのだ。それがこれからのぼくの絵画修行だ。

ぼくの小説「ぶるうらんど」と「ポルトリガトの館」でも能プラス狂言の手法を取り入れた。ぼくの新作絵画(横トリ出品)も見えるものを消すという能の逆を描いた。

ぼくは時々、黒沢さんの「羅生門」について考える。あの映画は「能」だと。森の中で樹に縛られた夫の森雅之はワキだ。そのワキの眼前で妻の京マチ子が三船敏郎に犯される。これはシテの京が見せる幻の舞いだと。正に世阿弥の夢幻能だ。

よく絵はアイデアで描けると思っている。とんでもない絵はアイデアではない。実感だ。油断できない。肉体をぶっつけたところから生まれる。

2011年8月15日
もしぼくがストイックな人間だったらおよそ創造とは無縁の人生を送ることになっただろう。もちろんストイックな創造もなくはないだろうけれど、きっとぼくがぼくではないだろう。

ぼくにもし絵がなければ面白く生きられたかどうか怪しいものだ。面白いということは創造そのものを遊びに変えられたからだ。

ツイッターの宿命みたいな運命を生きたいと思う。

以前ツイッターは特急電車で各停のドンコとは違う。サーッとやってきて、スーッと姿を消すように走り去る。何か言ったが聞きとれない内にどこかに消えた。そんな電車が次々ととめどなくやってくるみたいだ。何ものこさない。これでいいのだ。

2011年8月14日
事務所の敷地内で野良猫どもが熱さでのびています。その様子はちょっとイタリア的です。

◯本日の寄贈本
世田谷文学館より「和田誠展/書物と映画」

どーなってんのと思うほど和田君の本が次から次と出版されて送られてきます。それだけ沢山描いているんだろうね。

この暑さじゃ冷房も必要だけど、ぼくは昔から冷房で体をやられることが多いのです。特に足首に来ます。風呂の長湯も足に来ます。老人は足から衰えるといいます。その前に頭が衰えていますが。

体も頭も衰える老人は、それなりに生き易い部分があります。あまり考えない、あまり努力しない、あまり好奇心を持たない、あまり欲も野心も持たない、あまり食べない、あまり人に会わない、これだけでも随分生き易くしている。

高知県立美術館での個展で、別会場で26年前にハワイで制作したリサ・ライオンのパフォーマンスのビデオを上映しています。デジタルのない時代のデジタル作品です。音楽はワーグナーとニナ・ハーゲンです。

2011年8月13日
「仏界入り易く、魔界入り難し」と川端康成は一休和尚の言葉を伝えているが、ぼくの好きな作家、川端康成、谷崎潤一郎、泉鏡花、森鴎外、内田百閒、佐藤春夫、柳田國夫、三島由紀夫など、皆魔界の人だ。

2011年8月12日
◯本日の寄贈本
国書刊行会「アート・スピリット」ロバート・ヘンライ著/野中邦子訳
マガジンハウスより「なんだかんだの病気自慢」クロワッサン編集
約80名の執筆者の病気自慢でぼくも本書で自慢しています。

自分の内部に蓄積された不透明な要素をどれだけ吐き出すか、ツ
イッターを雑念の吐け口だとすると、ぼくはすでに一年以上吐き出
し続けているが、これって唯識論でいえば自己執着心である末那識
だ。早いとこ清浄無垢な阿頼耶識を駆け込み寺にしなきゃ。

とはいうものの阿頼耶識はいのちに拘ってしまう心だから、つまり
輪廻するものとして阿頼耶識は想定内だ。ここは命のカルマの集合
地だから、やり残しているものがあるともう一度転生しなければな
らないというわけ。空っぽになるまで吐き出せれば、この世と永久
におさらばなんだけどね。

そんなぼくの雑念=煩悩にちょっかい出す人がいるけれど、こっち
がうっかり引っかかったら、また煩悩の種子を阿頼耶識の蔵にため
ることになり、永遠に輪廻転生のサイクルから脱却できない。

阿頼耶識じゃないけれど、早いとこアラヤシキからアラエッサッ
サーと逃げて、さあ次はどこへ行こう。藤田嗣治と横山大観のアト
リエへでも行くか。

この間ヘリがアトリエの上をブンブン飛んでいるので、芸能人の空
からの取材かな、と思っていたら、えらい近くが火事で、老人と犬
13匹が死んだそうだ。2、3年前もアトリエの近く(こ
の時は辺り一辺煙に包まれた)が火事でやはり死者がでたことがある。

見えないものを顕在化させるのが絵画だとすれば、ぼくがやろうとしていることは見えるものを消滅(Banish)させることだ。このことが絵画で可能かどうか。その試みが黒の絵画だ––。(横浜トリエンナーレ)

描きながら消す。消しながら描く。描けば描くほど消える。画家は時にはマジシャンでなければならない––。(横浜トリエンナーレ)

産道を通って胎児は初めて現象界を目にする、その瞬間と、死を前にした者が、現象界の光がフェードアウトされるその瞬間の両視線を一枚の黒の絵の中に閉じ込めたかった––。(横浜トリエンナーレ)

三島由紀夫は「君は土着を描くことで土着を否定したが、俺は土着を描かないで土着を否定した」と言ったが、45年後にぼくは三島のやったことをやり始めている。

絵はぼくが何をやろうとしているかを教えてくれる。 そして導いてくれる。だからそこには努力は必要ない。努力を必要としている間は絵は黙して語らない。

そして絵が語り尽して絵の中に言葉が失くなった時、 絵はぼくの思い通りになった時だ。


2011年8月11日
死と詩を描く絵人(かいじん)109(イチマルキュー)面相であります。南国土佐のよさこい祭に絵人(かいじん)百九面相出現中であります。

私は詩人ではなく死人であります。私は怪人ではなく絵(かい)人であります。死を書く詩人ではなく、詩を描く絵人です。

若い頃はそんな前衛に憧れたものだ。そしてその観念で武装したものだ。ナンチャッテになれなかった昔のファンタジーだ。

もし前衛でいたいなら、五条の橋の欄干に片足で立っている牛若丸になればいい。そしてびっくりしている弁慶を叩けばいいんだ。ここにはナンチャッテの精神がある。

前衛は思想になって、ナンチャッテの遊びがない。トンボ切りがないのだ。全身前衛は高校野球でアウトだとわかりながら頭から一塁ベースにすべり込むようなものだ。真剣さを通り越して滑稽でさえある。

それと作品から歴史観が全く伝わってこなかった。彼の妙な前衛精神が逆に歴史を否定した。そして彼の作品からは近代(モダン)も消えた。

岡本太郎はどこかストイックだった。何をやっても真剣だった。戦士のようだった。またそれをアピールした。芸術は禁欲的な精神からは生まれない。太郎は常に肩に力が入っていた。芸術は自由な精神と肉体から生まれる。太郎にはそのための「遊び」がなかった。

2011年8月10日
○本日の寄贈本
竹本忠雄さんより「めぐりきて蛍の光」竹本忠雄著(高木書房)

今、発売中の「週刊朝日」で田原総一朗さんと対談しています。老後を味わおうとする者と老後について考えたことのない二人のズレ対談です。

デザイナーだった頃は仕事が終ると、すぐどっかに消えて行ったが、画家になってからはひとつが終ると、すぐに次の絵に取りかかろうとする。絵を「お仕事」と考えてないからだ。

海外渡航は打ち止めにしようと決めてからは、海外の仕事が多くなっている。いつもこうした逆行現象が起こるのは不思議だ。何かを捨てれば何かを呼び寄せてしまうのだ。

2011年8月8日
昨日みたいに休みの日は事務所周辺の野良猫にエサをやりに行かなければならないが、何匹もいるので、全員が万遍なくエサを食べたかどうかを見届けなければならない。

猫のエサがマンネリになると、違う種類のエサを要求するが、それがきまって朝方なので、あと一時間眠りたいのに、そのまま起きてしまう。

昨日みたいな突発的な大雨になると自宅の玄関前のメダカの鉢の水が増水するので、傘を差してやらなければならない。

今日みたいに暑いとアトリエの玄関前の蟻の姿がないので、来客の交通整理をしなくて済むので、やれやれだ。

深夜に部屋の中に蝉が入り込んでいて、それを捕まえて、外に逃がしてやるが、ぼくの寝室への経路は猫の出入りの小さい穴から、洗い場を通って台所に入り、台所から廊下に出て、寝室のドアの隙間からしか入ってこられないのだ。こんな迷路をどのようにして入ってきたのか不思議。お陰で昨夜は不眠気味。

2011年8月6日
いよいよ横浜トリエンナーレが開催された。自分から作品が離れて、一人旅を始めたような感覚だ。だけどその旅のあとを見守ったり、追いたいとも思わない。作家と作品の関係ってそんなもんだ。だから次の作品にかかれるのだろう。

2011年8月5日
◯本日の寄贈本
平凡社より「空海」別冊太陽

一昨日の虹は凄くきれいだったですね。見ましたか?ブログの写真を見て下さい。一瞬ハワイの空かと思うほどでした。

高知の方へ。高知で行ったうなぎ屋は「うなぎ屋せいろ」でした。予約がとれなかった店は「かいだ屋」でした。

2011年8月4日
固定するということは、他人も自分も安心することだ。安心なんて芸術の敵じゃないか。

いつも同じスタイルの絵しか描かない画家なんて、ぼくだったら退屈で死んでしまいそうだ。生きるということは固定してしまうのではなく変化することなんだから。

多分、自分が単一のアイデンティティで特定されるのが嫌なんだろうなあ。

絵のスタイルってなんだろう。特定のスタイルが持てないぼくは極端にいうと一点一点が異なるスタイルだ。というよりスタイルを持つことをどこかで恐れているのかも知れない。自分を限定したくないからだろう。

東京であんな見事な虹を見たのは初めてじゃないかな。見なかった人はぼくの昨日のブログを見て下さい。東京の上空だけに超自然現象に見えました。結構長く出ていましたが、次第に消えていきました。

2011年8月3日

○本日の寄贈本
リトルモアより「東北」田附勝著/「東大夢教授」遠藤秀紀著

今日はなぜかアトリエの玄関前に蟻が沢山集まっていたので、来客に踏まれないように、頭の上から水を撒いて、散らした。雨だと思ってあわてて巣に帰っていった。来客の時はいつも蟻の交通整理をしています。

わが家はツイタチは赤飯と鯛が夕食の食卓にのる。月の初めを祝う ためだ。ただそれだけのこと。

夏は毎日柄違いの和柄アロハだ。和柄こそアロハの原点だ。アロハ は日本人が着物から仕立てたものだ。

高知で食べたうな丼は今までの中でNO.1だったけれど、この 店の味はNO.2らしい。NO.1のお店は予約が取れ ず、NO.2に行ったけれど、NO.2でもNO.1だと 思ったぐらいなので、もしNO.1のお店だったらNO.1だ と思ったNO.2のお店はNO.2になるだろう。

去年は1年に24冊しか本が読めなかった。しかもこの 24冊全部が書評のための本だった。今年も下手するとそうなりかね ない。そんな危機感から枕元にドッサリ積み重ねた。書評と対照の 古典ばっかりを。

前にも書いたかな? ぼくはなんでも古い物が好きだ。人間も 老人がね。老人から歴史と哲学とほんの耳かき一杯の宗教を学ぶためだ。

ぼくが学んだ禅は宗教というよりサイエンスであり、哲学だと思っ た。信仰ではなく信心だから(信神じゃないよ)。

2011年8月2日
アトリエでの魂労働が終って今日は一日中横浜美術館で展示の肉体労働だ。

ぼくがデザイナー時代、前近代的土着を描いたのは、それを肯定したのではなく否定するために描いた(吐き出した)のだ。歌謡曲を聴くのも同じ精神だ。これが肉体を通すことだとぼくは思うよ。頭で処理してその気になっているなんて信用できないね。

独学って結局、肉体を通過することで学ぶんだけれど、アカデミックな学問は人の考えを自分の頭に移植するようなもんで、暗記みたいなもんだ。解った気になるだけで、錯覚じゃないの。そんな錯覚人間が集まって錯覚社会を作っているというわけか。

アンリ・ルソーの独学絵画が20世紀美術の中で存在を発揮しているのはそこに「本能」と「肉体」があるからだ。

一方頭脳的にみえるデュシャンこそ、何も考えてない人間だ。だから考える人間に一撃を加えているのである。

ウォーホルが「キャンベルスープ」の缶を描くのは考えではない。いつも食べていたものを描いただけだ。だから皆んな頭で考えて答えを出そうとしているんだよ。すでに彼は「答えている」というのに。

頭脳派を怖いと思ったことないけれど肉体派は怖い。

2011年8月1日

○本日の寄贈本
架田仁緒さんより「寒月の下に」架田仁緒著/河出書房新社
赤坂出版より「記憶力が驚くほど甦る!」坂倉弘重監修/赤坂出版

まだ本物の蝉の声を聞いていないけど、蝉はいつも耳の中で何十、何百匹も鳴いているので年百年中真夏気分だ。

糸井重里さん、ショーガ好評で食べ過ぎたせいか、そろそろ底をついてきたので注文は糸井さんの所にすればいいの?

横浜トリエンナーレの出品作がアトリエから消えて淋しいような、嬉しいような。しばらく絵から離れて、浮世気分を味わおう。でも浮世気分はやっぱり絵の中にしかないんだなあ。
年百年中とは俗にいう年がら年中のことです。

そんなに多くの人と会う時間がないのです。人生の残る時間は創造にあてたいのです。アーティストは孤独を愛するのです。

絵は描き終ったら、それまでだ。サイナラだ。もう、そこには自分はいないのだ。影もないのだ。


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