2017年10月30日
腰廻りと腹廻りが痛いのは今まで自転車で歩かなかったせいが、急に歩き出したから眠っている筋肉が急に活性化したせいだろうと思っていて、歩いて治そうとして雨の中を歩いた、歩いた。するとかなり痛みがとれ始めた。

自己診断って結構、医者より当る場合があるんですよね。これで整形外科へ行くとレントゲンを撮ったり、時には局部注射されたりするんじゃないかな。人間には自然治癒があるんだから、それを利用すれば、他の病気だってある程度治るよ。

そんなわけで昨日は大雨の中よく歩いた。川の流れと滝の中を歩いている感じで、これで身体の脱水症状は治ったと思う。

前に言ったよね。(年を取ると同じことを何度も繰り返すよ、きっとこれからも)裸足で草履の生活をしているって。アトリエでさ。

畳を敷いて和室を作ったことだし、純日本的生活だ。アトリエに入るとプーンと新しい畳のいい香りがするんだよね。

外出というか散歩の時は下駄にしようかと思っているんだけど、下駄は結構危ないんだよね。足をくねって下駄骨折(本当の病名)ってあるんだ。去年僕はそれで骨折したんだけれど、その時はスリッパ骨折だったけどね。

ヒルティは「先ず始めよう」というが、この始めがなかなかできないんです。今日こそは始めようと思いながら、なかなかキャンバスの前に立てないんです。ところが始めてしまえば、どーってことないんです。そんなこともわかっているのに、始めを始めるのは本当に難しいんだよねえ。

僕の最大の欠点が、始められないことです。わからないのではなく、わかっていて始められない、最悪としかいいようがない。

絵に関してはそうなのに、他のことなら簡単に始められてしまうんですよね。例えばエッセイを書くとかは、特に苦にならないけれど、本職の絵は苦になるんですよね。

運動とか、散歩も始めればいいのに、これが苦になるんですよね。自分にとって本当に必要なものこそ苦になる。

「始める」これが簡単にできる人はみな成功してますよね。何んなんでしょうかね。「始める」ということは? はじめがないということは終りがないということですよね。

始めても終らないぼくの作品はいつも未完なんですよね。始めも終りも嫌いなのかも知れません。その間のプロセスが面白いからなんですかね。

あれをやんなきゃいけない、これもやんなきゃいけないと考えている、そんなことが一番面白いんだから、仕方ないんだよね。僕は妄想の人です。

横山大観は朦朧派だけどぼくは妄想派だなあ。

2017年10月27日
今日は肩のこらない話をしましょう。

6ヶ月も内緒にしていた土屋さんの死は驚いたけれど、まあ土屋さんらしい。人を驚かしたりかついだりするのが大好きだから。昔の映画の話をよくしてくれた。「ガス人間」や宇宙映画にもよく出ていたので「チ・キ・ュ・ウ・ノ・ミ・ナ・サ・マ」なんて言葉をブツブツ切って話すのは「俺の発明だよ」と。

土屋さんは俳優座のトイレでたまたま黒沢さんと並んで小便したために、「あの便所で会った男は誰だ」ということで「七人の侍」でデビューした。

原節子さんと家が近くて、原さんからナントカの木(忘れた)を畑に植えて「ひともうけしない?」といわれたことがあった。よく自転車で東宝に向う原さんに「ツチヤさーん」と声を掛けられたと喜んでいた。

原節子さんのことを「セッちゃん」と呼んでいた。そのセッちゃんが撮影所の中を歩いていると、休暇の人達の注目の的だったそーで、土屋さんが「セッちゃーん」と呼ぶと、両手を前でモジモジ動かしていたセッちゃんが喜んでピョンとはね上がった。

黒沢さんと多摩川の中州で魚を釣りながら立小便をしていたら、ヘリが2人の上空に飛んできたために2人の小便がヘリのプロペラで混ざり合った。黒沢さんが「バカヤロー」と怒鳴るとパイロットは降りて、小便したとか。

夜、夫婦で外から家に帰ったら玄関の板間で椅子に腰を下ろした男がギターを弾いている。誰かと思ったら土屋さんだ。上がろうとしたら「シーッ」と口に指を立てて、そこに立ったまま一曲聴いてくれという。玄関のドアーを開いたままなので、ヤバイと思って帰ってくるまで留守番をしていたという。

子供の頃、夜以外は家の鍵を掛けたことがないので、東京に来ても外出時に鍵をかけたことがなかった。以前も片岡秀太郎夫妻も留守のわが家に上がってストーブでミカンを焼いて食っていたことがあった。

黒沢さんのお葬式の時、裏の畑で土屋さんと並んで立小便をしていたら、ヘリがやってきた。土屋さんとぼくの小便が黒沢さんの時みたいに混ざらなかったけど、「こーいう時によくヘリが来るんだよね」と。

三船敏郎さんが腰が悪くて立廻り出来ない時、こんな格好でやったんだよと橋の近くの川原で土屋さんが三船になったつもりで棒切れを振り廻していたら橋の上に見物客がいっぱいだった。

正月元旦、コンビニに行こうとして、そこらにいた2人の子供にドスをきかせて「おい坊主、この辺になあー」と店を聞こうとしたら、物凄いスピードで逃げられた。

新幹線の駅(名古屋?)で隣の婆さんが「ちょっと棚のカバン取って」といわれて間違って自分の荷物を渡してしまった。荷物はとうとう帰ってこなかった。

田舎の電車で窓を開けて外を見ていたら、前の方の席の人が帽子を外に飛ばした。その帽子が外から入ってきて土屋さんの頭に乗っかった。

こんな土屋さんのバカバカしい話は沢山ある。どこかでまとめて書いてもいいんだけど、どこかないかなあ。

町で土屋さんの自転車にぶつかりそうになった車の運転手が「このヤロー」と言って降りてきたら、落ちついた土屋さんは「関東の土屋組をテメエは知らねえのか、このモグリめ!」と言ったら車は飛んで逃げた。

10代には江戸川乱歩、南洋一郎の少年物の小説を3〜4冊読んだあと、20代にブルトンの「シュルレアリズム宣言」。そのあと30、40代が物凄く忙しく本を読む時間がなく、画家に転向した45才以後、美術の歴史、そこから少し本好きになりました。今は毎日、1ページでも読みます。

朝日の書評のためには新刊を読みますが、元々は少し前の古い(古典も含めて)が多いです。それから一番好きかも知れないのは福音書店や岩波の児童本だね。年を取ることは子供に帰ることだからピッタリです。自分が子供だと思えばこの先き長いよ。

今朝の朝日新聞に小林聡美さんがぼくの「言葉を離れる」(青土社)を「どれだけ励みになったか」とどんな本を読めばいいかと悩んでいる時に読んだ「好きな本」だと言ってくれています。感謝するしかないです。

ぼくが朝日の書評委員をしているせいか、本の広告には目がないです。先ず健康本をよく読みます(笑わないで下さい)。その次は中国の古典や、やはり哲学の古典、児童書です。

小説集「ぶるうらんど」(中央公論文庫)も出していますが、時間があると気分転換に小説も書いてみたい構想はあるんですが、やっぱり絵描きさんですからね、つい絵筆を握ってしまいます。

今、面白く楽しんでいるのは「文藝」の鼎談で小説家の保坂和志さんと磯崎憲一郎さんとの雑談です。「文藝」を買った人が一番最初に読むといわれているのがこのページです。単行本も出ていますが「文藝」をどうぞ。とにかく意味も目的もない、22世紀の文学です。アホらしさを味わって下さい。

2017年10月26日
ここんとこ、ひょんなことから、久し振りにニューヨークの坂本龍一さんとメールのやりとりです。また国内では仙台の高橋克彦さんとも猫と補聴器関係のやりとりです。

先週の朝日新聞の書評に鷲田清一さん VS 山極寿一さんの「都市と野生の思考」を書いたら、鷲田さんから「こんな本だったら、すぐに本屋に買いに行こうかと思うところでした。私も読んでみようかと」思われたそうです。ぜひ、10月22日の朝日の書評を読んで買いに行って下さい。

この間、最年長友人の土屋さんが亡くなって、昨日はフォーク歌手の遠藤賢司さんも。70年代後半だったか「東京ワッショイ」のアルバムのデザインを頼まれたことがある。渋谷にピラミッドの形をしたカレーの店をオープンしたりしていた。まだ70才だった。

2017年10月25日
朝、アトリエに入った瞬間、新しい畳の匂いが。すっかり忘れていた。昨日アトリエ内に4畳半の和室を作ったばかりだったことを。

空海は拘りを捨てると思い通りになるという。人生の目的は思い通りになりたいためにあるようなものだ。生まれてきた以上思い通りになりたい。そんな気持がすでに拘りなのかも知れない。拘ることに拘らないようにするには、この言葉を頭から消してしまえばいい。そして生きることを忘れればいいのかな?

眠れない、眠れないと思う人のために睡眠薬がある。つまり拘わる気持を眠らせばいいわけだ。猫のように一日中眠っている動物にはきっと拘りなどないのだろうなあ。猫の爪でも煎じて飲みますか?

こんなことを考えている内にAM3時になってしまった。さて、猫の爪でも煎じて飲みますか。そんな面倒なことはできないので、牛の乳を飲んで眠ることにしました。

AM3時まで起きていたのは東京の下町を絵に描いた人達のテレビを見ていたからだ。耳が悪いので音声はわからない。素人の絵だけれどプロの拘りがないので、思い通りの絵になっている。絵はこれでいいのだ。

「思い通り」って一体なんだろう。よく思い通りの絵が描けないと聞くが、僕なんか、その思い通りというのが最初からないのだ。あれば描けるはずだ。結局思い通りにならないということは、思い通りっていうものがないのである。

空海だって、この思い通りになるために、一生、拘りを捨てるための修行をしたわけでしょう。だったら、最初から思い通りなんてことを考えなきゃいいじゃない。どこからか「カーッ!」という喝の声が聴こえてきた。だって難聴だから声など聴こえるはずがない。いいえ心の中の仏の声が聴こえてきたんです。

中国の洪自誠は「菜根譚」の中で「思い通りにならないのが人生だ」と言っている。

「君の名は」のDVDを借りてきて観ようとした。テレビ用の拡声器で聴いたがさっぱりわからない。どうやらアニメの声が変な声で、その上早口なんだ。難聴の人のために字幕を入れてくれなきゃ。

難聴の人の数は東京都民の人口に近いそーだ。東京都民全員が難聴になったと想像してみて下さい。

ひとりでいる分には難聴がどーかはわからないんです。誰かがそこにやってきた途端に難聴になってしまうんです。

2017年10月24日
加藤一二三さんが炭酸水をガブ飲みされていた。胸焼のする僕はマネをして飲んだ。胸焼けには炭酸水が効果ありという考え方とNOという意見がある。一体どっちや? 専門家の意見が知りたいですね。

フランスでは食前にペリエを飲むけれど、何のため? 今から胸焼けのする肉を食うぞ、というため?

高橋克彦さんとメールで話していて、愛猫タマゴが死んだあと、自分の年令のことを考えると、もう飼えないかなと。僕もそう思ったけれど、飼う羽目になってしまった。飼う意志とは別に、そーなってしまうのだ。このことは猫にも人間にもそーいう運命が作用するよーに思う。だからそーしただけのことだ。

あんまり考えたり、意志を通したりすると、あとが面倒臭いことがある。成るよーに成るのが一番自然でいいと思う。これはぼくのスタイルだけどね。

でも悪くなるようになることもある。それもなるようになった結果だから、諦めるんだね。また諦められるんだよね。状況に反抗した場合、思い通りにならなきゃ、諦めが悪いでしょう。

年と共に諦めることが多くなる。僕の場合メンドークサイと思うからだ。その代りストレスが少ないと思う。それと好奇心もそれほどない。好奇心は欲望が好きだからね。欲望は若い内にうんと使い果たすといい。でなきゃシンドイ老年を送るよ。

怠け心がつくと、とめどなく怠けたくなる。そんな時は徹底的に怠けるべきじゃないかな。永遠に怠けるのも苦痛だ。その内怠けるのに飽きる時がくる。チャンス到来だと思えば、急に働きたくなる。こんなことを僕はしょっ中繰り返している。1日の内に何度も、1週間の内に何度も、1年の内に何度も。

世阿弥は男時(オドキ)と女時(メドキ)と呼ぶ。勢いがある時を男時。そのタイミングを見誤ってはいけないと。怠ける時期は女時だと思う。この両者は循環しているようです。

僕は今は女時です。男時を発揮する予定が少し先きにちらついています。こーいう時は体力作りです。

今日、突然、午後に男時(オドキ)がやってきて、絵の制作に入った。と同時に怠け心は消滅。長い旅に出掛ける感じだ。でも遠足気分に近い。身体の小さい細胞が活動を始める。するとミューズ神がソーッと近づく。このミューズ神という他力の助けがないと絵は始まらない。待ちに待った男時である。

男時が動き出すと、それにつられてシンクロニシティが起こる。無意識と顕在意識が統合されて起こる共時性のことだ。

シンクロニシティは本来(生まれながらの)運命路線の軌道に乗った時に起こるように思う。それ以外の時の行動は本人の意志と理性によるものでシンクロニシティと無関係のようだ。自ら運命を切り開いていくタイプは後者だろう。僕は前者のタイプのようだ。

アトリエに4畳半の和室を作った。さて、ここで何をしよう。目的があって作ったわけではない。先ず昼寝でもしましょう。畳のヘリが赤だから色っぽいよ。

咄家の悠々亭うどん(中村さん)さんが遠視用の赤いフレームの眼鏡を買ってきてくれた。ちゃんと度が入って、1230円也。この間作った遠視用はウン万円也。掛けると見え方は全く同じ。どーいうこと?

今日はソーダ水を飲んで胸焼が起った。この間は逆に胸焼が治った。一体どちらがどちらなのよ。

「文藝春秋」の本誌で「死ぬほど読書」の著者丹羽宇一郎さんと対談しました。物凄い読書家で足元にも寄れません。臨終の瞬間まで読書の方です。一方ぼくは子供時代から画家に転向するまでほとんど読書の時間が絵の時間で本は読まない人でした。

ところが書評委員になってからは月に2冊は読むようになりました。絵を描く間と、何もしない無為の時間しか読まないので「死ぬほど読書」はできません。でも一日に10ページ位は読みますが、読んでも忘れてしまうので、そんな忘れた時間が勿体ないと思います。絵でも描いておけばよかったのにといつも思います。

目も悪く、集中力もなく、理解度も悪くなったので、これからは少年少女文庫のような子供帰りの本がいいかとも思います。

とはいうものの昨日なんかは大雨で雨宿りのつもりで入った本屋で、ボルヘスと空海と、金正恩の本を買って喫茶店で読みました。

雨降りの日はなんとなく気分が純文学的になります。でも文学はこーいう日には読みません。純文学的気分の時は頭から文字や言葉を廃除してアトリエの外の雨の森をボンヤリ眺めます。

だけど家の中も、事務所も、アトリエも本だらけです。その膨大な本をいつも、「ヘェーッ!」と眺めています。読まないで眺めるだけでも読書になります。どーいうことかというと本の中味を夢想するからです。

一日の内で一番気持のいい時間は、やること(絵を描く)があるのに何もしないで、気持があせる時です。この時間は至福の時です。そして気持のいいのが過ぎると次は気持悪くなります。

2017年10月23日
高橋克彦さんちの猫がタマゴ。死んだわが家のタマも元はタマゴだった。声優で女優、(名前が出てこない)の家の犬が、わが家の猫おでんと同じ名の犬がいるらしい。タマゴもおでんも滅多にない名だと思っていたけれど、いるんだよねえ。

わが家によく来る黒い猫がいる。この猫はどうやら隣の橋爪功さんちの猫らしい。橋爪さんの家にブラーッと入ってきた猫で、どうも面倒を見てもらっているらしい。野良猫にしては太っていると思った。他の野良から仲間はずれになったと。何んでこんなことを橋爪さんは知ってはるの?

日野原重明先生は死を目前に「死ぬのは恐ろしい」と語られました。死を怖くないという人もいますが、多くの死を看取られた医者が「恐ろしい」とおっしゃる。この言葉はある意味で救いになる。なぜ救いになるかを考えてみて下さい。

80代に突入すると死は未来というより、そこにあるという感覚です。実にリアルです。こーいう感覚は70代の時はなかった。ある時、オノ・ヨーコさんから電話で「私80才になったのよ。大変なことだと思わない?」如何に大変なのかその時はさほど実感がなかった。今はあり過ぎる。

年令をリアルに実感することは重要だと思う。肉体と時間はあと戻りできない。身体全体が時間です。

小林秀雄は59才の時に老齢を意識していた。59才で若いと思っていたら歳を取った値打がないと言っていた。

平均寿命を越えるとある意味で未知のゾーンに入ることだ。未知は夢であり希望である。本当の青春は平均寿命の時間と肉体をどう生きるかだ。

パンドラの函は神はすべての悪や災いを詰めてパンドラに渡したというが、われわれの中にもパンドラがある。ヤバイもの、エグイものイカガワシイものなどの不透明なものが詰まった函。それをここぞという時に開ける。でも函の底に「希望」が残るという。その希望こそ老年の未来だ。

災い転じて福とするのはこのパンドラの函のひっくり返し方だ。小出しにチョロチョロじゃダメ。終末を迎えるつもりでやんなきゃ、創造なんてくだらないことを考えていては、破壊もできない。破壊があって創造なんだから。

したいことだけをする。したいこととは、山ほどある。だから年令と共に忙しくなる。こーいう忙しさは疲れない。疲れるのはしたくないことをするからだ。でも本質的にしたい、したくないというものはない。それを判断するのが自分。そこに結果とか利益を持ち込まなきゃ、いつも自由だ。

頭の支配から自由になるためには肉体に思考と行動の自由枠を与えればいい。ストレスも、コンプレックスもトラウマもパニックもなくなる。

文学と違って絵画は肉体的行為だ。描くのではなく作るのだ。作るのは頭ではなく身体だ。その時、頭はアホになるべきだ。無心にね。直感の受けやすい装置になること。こーいうことをやっている人間はストレスがないから長生きするよ。

頭をトコトコ使って認知症になって長生きしたいか、アホになって、寒山拾得のように宇宙と溶けて戯れながら長生きしたいか、「それはあなた次第です」。

いいかげんな生き方が一番いい加減でいい湯加減だ。でも温泉の長湯は禁物! まあ中庸でんなあ。

アイフォンを買った。失くてもいいが、あってもいいと思った。先ず何からすべきか。そーだカメラから始めよう。教わったけれど、ひとりになると全部忘れている。だからまだ一枚も撮ってない。2日目に撮ろうと思ったけれど作動しない。なんでや? 充電が切れたのか? 何んて不便なもんだ。

便利いいことは便利悪いことや。かしこくなるけれどアホになれない。僕のいうアホは脳の支配を受けない肉体優先の生き方や。知識や教養から自由になる。人間の肉体の中には万巻の書の詰まった図書館がある。そこと寒山拾得になってアクセスすれば、アイフォンもスマホも大学もいらない。

言葉はエライといわれて言葉に頼り過ぎや。芸術は言葉で理解するものではない。身体的感性で言葉以上の内容を理解し、即生きることに直結する。

ツイッターも言葉や。限界がある。ツイッターは何もツイッターえない。ハッハッハ。

道徳的で倫理的で真面目なヒトほど面白くない。こーいう枠にはまっているから遊びを知らない。遊びはゴルフ、カラオケ、マージャン、居酒屋のことではない。計算のできない無手勝流で、規格はずれのデュシャンの「便器」みたいなものだ。

昨日、大雨の中衆議院選挙の投票に。雨やどりのつもりで書店へ。最近はあまり本は買わないが気分転換に、ボルヘス、空海、金正恩の本を買う。脈略がなさそうだが僕の中ではある。依然として雨止まず、喫茶店に入って買った本を読む。この雨じゃアトリエには行けない。

2017年10月21日
NHK WORLD(国際放送)のインタビュー番組「Direct Talk」に出演します。日本時間の10月24日(火)午後8時45分~9時 世界160カ国で同時放送されます。オンデマンドのURL:https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/vod/directtalk/

日本では、NHK WORLDのHP上でリアルタイムの視聴ができます。また、放送日から2週間程度、ウェブからオンデマンドで視聴ができます。(国内・海外ともに)オンデマンドのURL:https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/vod/directtalk/

Yokoo is to appear on TV talk show "Direct Talk" (NHK WORLD) on Oct 24, 2017.

"Direct Talk"
Broadcasting dte and time :
JST : 8:45pm-9:00pm , on Oct.24
GMT : 11:45am-0:00pm , on Oct.24
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/vod/directtalk/

How to watch : Please refer to the URL for details : https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/howto/

VOD URL (Oct.25~ / about 2 weeks only) : https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/vod/directtalk/

Program site URL : https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/directtalk/index.html

2017年10月20日
外部(社会)に対する発言はぼくのテリトリーではない。ぼくはアーティストなので創造の核である内部に視線を向けることがどうしても多くなります。当然、社会的関心はありますが、公な発言や作品がプロパガンダになることは良しとしません。でも同じ外部でも自然や宇宙はテリトリー内です。

元若嶋津が自転車で転倒したのを知ってぼくも自転車はソロソロ中止しようと思います。現役の若嶋津の化粧廻しをデザインしたことがあります。

ついでに言うと、若の花、隆の里、千代の富士の化粧廻しもデザインしているんですよね。みんな昔のことですが。

2017年10月19日
神戸の美術館が台風18号の建物被害による改修工事のため、10月12日(木)より休館中です。大変ご迷惑をおかけしています。ミュージアムショップのみ隣接の原田の森ギャラリーに移設し営業します。再オープンは11月上旬を予定。詳細:http://www.ytmoca.jp/topics/2017/10/11.html

一息ツイッーターか、やれやれですよね。ホント、底がツイッターんですよね。でも一息ツイーッタから、何か思いツイーッタので始めますかー。

難聴ではテレビの音声が99%聴こえないので、字幕入画面しか理解できない。おしゃべりは、見たことのないどこかの惑星の鳥が鳴いているようにしか聴こえないが。そんな中で、2人の人間の声だけが解る。そのひとりは姜尚中さん。もうひとりは誰だと思いますか?

その方は天皇陛下です。この二人の方の話だけはよく聴こえます。難聴が治ったかと思ったくらいです。

東宝スタジオでラーメンとチョコレートを食べた。食い合わせが悪かったのか胸やけ激し。

10月20日からパリのポンピドゥ・センター・メッスで「ジャパノラマ」展がスタートしました。3月5日まで。そしてもうひとつは「ジャパン−ネス」こちらは1945年以降の日本の建築と都市計画展。両方に出品しています。――というわけで、ではまた。

ツイッターはツィンタワーの略。じゃないかと思いツイッターんですがねえ。ちゃいますか。

2017年10月16日
今日、雑誌の対談をアトリエで行った。編集部から音声が拡大する装置を持ってきてもらったが、聞くことに集中しようとする努力に疲れ、また自分の発声音が機械的に変質してしまうために自分の話が時には理解できない。困ったものだ。

聞く次元と話す次元が同一次元で行われるのではなく、両者の間に段差のようなものがあって、水の中の人間と外の人間が会話しているような感覚だ。それがひとりの人間の中で起っているのである。

2017年10月12日
河口湖の近くの宿舎にいるが寒い。暖房の工事が遅れているとか。ピンポンで暖を取るとか。絵で気持は燃えるが、身体は冷える。そのせいか睡魔に襲われる。凍死しないようにがんばってピンポンをする。

夕方には糸井重里さん一行が到着した。糸井さんが来ると少しは暖まるような気がする。

絵を描き始めると腱鞘炎で手が痛い。絵は正直で痛いなりの絵になるものだ。痛い絵とは手抜きの絵のこと。

2017年10月11日
アトリエでの履物を健康サンダルから藁草履に変えた。体内を流れる電流が足の裏からアースに抜けるためだ。ゴム製品はアースに抜けないで、そのまま戻ってくる。その戻ってくる電流と下へ流れる電流がぶつかると、体内が汚染して病気を発生すると直感したので藁草履に変えた。ぼくの勝手な科学知です。

明日、河口湖へ。年に一度の合宿です。仕事する人、卓球する人、テニスする人、カラオケする人、落語する人、絵を描く人、人それぞれの仕方でアホになる修行です。

2017年10月10日
ぼくの家の中のテリトリーとおでん(猫)のテリトリーは同じなので、いつも場所の取り合いでケンカが耐えない。結局はおでんに負けてしまう。

ただおでんに感謝するのはお腹が痛い時などは、お腹の上に乗って、ベターっと吸いつくように横たわってくれる。彼女の生体エネルギーで不思議と治るのだ。

前にも書いたと思うけれど、ぼくはベッドの中に枕が6個入っている。7つ目の枕は小さくて、赤くてポニョ、ポニョしたマシュマロのような感覚だ。「崖の上のポニョ」の魚のポニョに似ているので、この枕をポニョと呼んでいる。

そーすると大きい枕の大群はフジモトの魔法で魚に化した大波ということになる。寝ているぼくはさしずめ、宗介ということになる。宗介がいつもポニョと一緒で、離さない。

画家に転向した45才まで、あまり本を読んでこなかった。でも年に7~8冊は読んでいた。でも画家になってからは美術書を読むようになった。美術書というか画集である。画集は読むというより見ることだ。見ながらあれこれ考えるのが楽しい。

本当は質問の答えは全部身体の中にあると思う。身体の中に図書館がある。必要な時、その答えが直感を通してやってくる。

世の中だって本だらけだ。色んな人に会ったり、見たり、旅したり、そーしたものはひとつの読書行為だと思う。人の言葉ではなく自分の身体を通して生まれる言葉だ。

絵を描こうとしてもなかなか腰が上がらない。ほんの3メートルも動けばキャンバスの前に行けるというのに。ぼくはいつもグズグズして、強迫観念が襲ってくるまで、ビクとも動かない。ところが、ある時、覚悟を決めてキャンバスの前に座って筆に絵具をつける。すると信じられないほど絵に没頭できる。どうして、こんな単純なことに気が重いのだろう。

どこかで不安があるのかも知れない。思い通りの絵がかけないんじゃないかという。ところで、思い通りって一体何んだろう。そんなものが最初からあるはずがない。やってみて初めて思い通りになるんじゃないのか。

年令のせいか思っていることがすぐ行動に移せない。というか、行動がしたくないのかも知れない。絵ができるまでの作業を考えると面倒臭くなるのだ。想念がそのままパッと絵にならないものかなあ。思念がすぐ物質化するのは死んでからの体験でしかないのかなあ。

生きている状態で死を体験できる方法がないものだろうか。もしあるとすればこの地球自体が四次元するしかないんだろうなあ。

2017年10月04日
画家は晩年になると画面から不必要な要素が廃除されて、えらいシンプルになる。そこからが面白い。これは老齢にならなきゃできない。だけど一般的な評価はやはり全盛期の芸術至上主義的な、いわゆる力作を好む。だけどここには晩年の作品のような自由さはない。画家が自由になって、無手勝流になる――そこを評価するべきだ。

むしろガンジガラメになった状態で苦悩しながら出来た絵を評価する風潮があるが、本当は、創造からも自由になった作品にこそ高い評価を与えるべきだと思う。最終的に人間は原郷に還るべきである。

読書することは一種の病気だと思う。読書しなければならないという教えも義務もそんなものはないのに、人はなぜか読書に対して一種の強迫観念を持っている。読むだけで安心する。ぼくにもそんなところがあるけれど、この時間を何もしない時間に当てた方が、はるかに有効だと思うことがある。何もしない、無為こそ有為である。

1970年だから47年間ズーッと日記を書き続けている。なんのためかは考えたことがないので、よくわからん。まあ一日の締めを短い言葉で残したいのだろう。だけど読み返すというようなことは全くない。

このツイッターの文は日記ではない。これはツイートである。日記はできれば事実だけを書いて、あれやこれやと心情を述べるできではないと夏目漱石は言うが、その漱石さんの日記はツベコベと心情を吐露したはる。

ピカソは作品がすでに日記であるという。そーいえば作品に日付を書き込んでいることがある。ピカソが作品が日記だといってもウソをついているとは思わない。だって1年365日以上の数の作品を1年間に描いている人なんだから。

ぼくの日記も事実に近く、このツイッターみたいに、あれこれ、ツベコベしゃべっていない。時にはスケジュール表と変らないような日記もある。

僕は昔から日常と夢の区別をしないタイプの人間だから、毎日の日記の中に夢も書き込んでいる。いちいち夢だと断わらなきゃ区別ができない日もある。

日常が夢より変っていたりすることがあるので、江戸川乱歩のように日常を夢と言ってもいい。創造というのは昼と夜を混ぜこぜにしたものだから、それでいいのである。

夢の面白いところはお金を使わないで、色んなところに行けることだ。また、時には死んだ知り合いに会うこともある。シュールレアリストが夢を重視したことがよくわかる。

では人間は死んだら夢を見るのだろうか。まあ、それはないと思うよ。だって死そのものが夢の世界なんだから。

現実は異界とつながりにくいけれど夢では簡単につながる。というか夢それ自体が異界なんだか

耳が聞こえないので相手の人は同じことを何度も繰り返す。気の毒だと思うけれどこっちはもっと気の毒なんだ。

いつも聞き違いが多い。よくにたイントネーションの言葉に間違えることが多い。これを記録するとかなり面白い言葉の対比ができる。

なぜか小便のことをオシッコとかショヨーと呼ぶのだろう。大便だってなんでウンコとかクソと呼ぶのだろう。こんなつまんないことをいつも絵を描きながら思っている。絵を描く時は妙な観念を廃除しなければならないからだ。

昨夜テレビの「開運なんでも鑑定団」で内田裕也さんが彼のために描いた40年以上前のポスターを持って登場。まあオフセットだから高くても20~30万円かなと思っていたら、「ロックンロールで69万円」と言った。アチャ、高いよと思ったら50万円だった。こーいう時は低めで、5万円ぐらいと言ってくれて50万円になる方がいいよな。

2017年10月03日
老齢になると新聞がめくりにくくなる。指先きをツバで濡らすそんな動作を見たことがあるでしょう。なぜだと思います? それは指の指紋が次第につぶれてしまって凸凹がなくなって、ツルツルになるからです。

ぼくなんか、ほとんど指紋は消えてしまっている。ルーペで拡大しても指紋がない。指紋が消えるのに身体のシワは増える一方です。人間もメタモルフォーゼするんだ。

今夜(10/3)「開運なんでも鑑定団」(テレビ東京)に内田裕也さんが、ぼくの描いた「ニューイヤーズワールドロックフェスティバル」のポスターを紹介します。

2017年10月02日
糸井重里さんのほぼ日に糸井さんとの雑談対談がこの間からズーッと連載しています。いつこんな話をしたのかと思うような話ばかりで、あまり記憶がない話ばかりだ。記憶のないような話がこんな風に活字になってお仕事になってしまうと、これはこれでいいのかなと思う。ほぼ日にアクセスしてみて下さい。

雑談といえば「文藝」というコチコチの文学専門の雑誌でも保坂和志さんと磯崎憲一郎さんと雑談をしています。大昔、一柳慧さんと雑談対談をした時、小松左京さんが「21世紀の文学だ」と言われた。アレ、このこと前にもツイートしたかな。老齢になると同じことを何度もしゃべるんですよね。

そーいえばぼくの絵は雑談アートみたいなものだ。特に言いたいことも主張したいこともない。人のため、世のために描いているわけでもない。まして思想などない。そんなものを持てば自由に生きていけない。持ってなくても自由に生きるのは難しいというのに。

絵を描くのはシンドイ。なぜシンドイかというと、自分の絵を描こうとするからだ。自分の絵など最初からないのに。じゃ他人になり切って他人の絵を描けばいい。ぼくの絵の出発は他人の絵を模倣することだった。だからシンドクなかった。

自分を絵の中で自分を演じようとすると、それはシンドイ。俳優が自分を演じようとするようなものだ。これはシンドイでっせ。

空前の猫ブームらしい。そんなわけでわが家のおでん、そして死んだタマまで雑誌で紹介される。事務所にパソコとツートンの2匹がいるが、どの猫も取材嫌いで絶対写真を撮らせない。猫はぼくにとって生活(人生)必需品である。

猫のマイペース振りが、こちらをイラつかせる。それがたまらないのだ。

こちらの思い通りにならないので、つい猫のペースにはまってしまう。猫はそうしてまんまと飼主を下僕にしてしまう。

ぼくは口ぐせのように言うが猫はアーティストの見本だ。猫を見習えば立派なアーティストになれる。

先ず他人にも自分にも妥協しない。自己の思いに忠実である。もっといえば内なる声と魂に従う。

どんな状況に置かれても遊びを忘れない。

目的、結果を無視し、大義名分に従わない。そして自然体で、衝動と本能に従い、常に自由であろうとする。

常に自己中心的で、相手の身になって考えたりしない。

家の近所に10年ほど前に広大な庭つきの豪邸が建った。外国人の表札があるけれど、人が住んでいる気配があまりない。車があったり、夜には小さい室の灯がつくけれど、いつもシーンとしている。その家が今日見たら取り壊されようとしていた。何のために建てて何のために壊すのだろう。

成城の街はいつも何軒か家が建築中で何軒も壊されようとしている。創造と破壊が毎日繰り返され続けている。何が起こっているのだろうか。

それと、建てたものの人が住まない家が何軒もある。事務所の隣にはヨーロッパスタイルの、かなり変った趣味的な家が建って1年も経つが、誰も住んでいない。わけわからん。

新築のまま放置されている家が相当数あるけれど、アトリエに貸してくれないかなあ。

ぼくはアトリエを沢山持ちたい。アトリエごとに違った絵を描いていきたい。小旅行の時もキャンバスを持って行って旅先で描く習慣がある。アトリエが10個あれば10種類のスタイルの絵が描けるからだ。100個あれば100個のスタイルの絵ができる。



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