9月30日
○本日の寄贈本
五木寛之さんより「僕が出会った作家と作品」五木寛之著
安藤礼二さんより「たそがれの国」安藤礼二著
平凡社より「別冊太陽・東大寺」監修=西山厚
宇都宮美術館より「ロトチェンコ+ステパーノワ/ロシア構成主義のまなざし」
求龍堂より「高良眞木画集」高良眞木著
酒井忠康さんより「鞄に入れた本の話」酒井忠康著

和田誠君のたばこと塩の博物館で「和田誠の仕事」展を観た。彼とは同年で、ぼくのイラストレーター時代から50年来の友人だ。病弱のぼくには彼の健康な作品は良薬だ。

その会場でたまたま来ていた和田君と彼の全映画に出演している真田広之さんに会う。真田さんとは一度彼にモデルになってもらってポスターを2点作ったことがある。現在はロスが拠点で数少ない日本のハリウッドスターだ。別れ際に握手したが、ふともう会えないような気がした。

カエルは人気がないのかと思って今朝関連ツイートを見たら20本位の書き込みがあったけれどやっぱりタマの方が圧倒的人気だった。タマは僕(しもべ)のぼくを人間湯タンポと見立てて胸の上に乗っかってスフィンクス気取りだ。退院してからのタマはタマ姫に改名された。

ぼくも出演しているリンダ・ホーグランド監督の映画「ANPO」(渋谷アップリンクの劇場『X』で上映中)はまだ見ていませんが、見た人います

たった今、「ANPO」の監督のリンダ・ホーグランドから直接ツイートが入った。「リンダ、ごめんね、どーも映画館のスクリーンに映っている自分の顔は正視できないのよね。こっそり見たいんだけど、映画館貸し切りで見るかな」。

リンダへ。ツイッターで「ANPO」のこと先っき書いたよね。そーしたら「見たい、見たい」というツイートがいっぱい来たよ。N.Y.なう?

9月29日
ツイッターに猫(タマ)のことを書くと凄い反響(感謝)ですが、昨夜のカエルの話はほとんど反響なしでした。カエルは人気ないですね。子供の頃よくカエルの手術をしたけどやっぱり猫の手術には同情が集まります。

やっとキャンバスの前に座りましたが、しばらく描いてなかったので初心者同様、描き方を忘れているんですよね。忘れることで今までにない絵が描けたらと思うんですがね。

昨日は胃の中のピロリ菌がどの程度退治できたかの検査に病院へ。結果は末月。日本人はピロリ菌を持っている人が多いそうです。ピロリ菌がガンの原因になるといいます。胃カメラを飲むと知らない「自分」のことが解ります。


9月27日
○本日の寄贈本
青土社より「天才だもの」春日武彦著
よしもとばななさんより「もしもし下北沢」よしもとばなな著
瀬木慎一さんより「リルケと孤独の逆説」瀬木慎一著

元匿さん/toshiko sohさん/karenticalさん
お陰さまでタマ無事退院しました。9日からのハワイ行、ドタキャンしたために、助かりました。帰宅後のタマはとにかく外に出たく、事故現場の道路になぜか向かいたがり、どーもこの辺の心理はわかりませんね。ただ寒いのが弱いのでそんな時は家の中から一歩も出ないのでタイミングとしては助かります。それにしても人間だったらあんな大手術、生命にかかわったでしょうね。タマの場合も先生から危険状態といわれていたのに、よく手術が成功したもんです。二人の先生にお礼に「猫背の目線」を差し上げたらもう翌日読んでおられました。留守の間に来ている黒タマとは相性がよくないみたいです。黒タマは美形ですが。ご心配ありがとうございました。


9月26日
タマが退院した。しばらく物珍しそうに家の内外を物色している。以前よりスッキリして美人になっている。(親バカか?)それにしても何を夢想しているのだろう。いつもの定位置で瞑想をしている。

兵庫県の朝来の美術館へ。審査の仕事。審査は自分を試されるので、真剣にならざるを得ない。時には影響を受けることもある。学習の場はどこにでもある。

9月24日
本日抜糸(凄い切り口!)して、一両日して退院します。タマのことです。病院内を散策しているので、ここが新しい住処と思っているらしく、帰宅してもすぐには思い出さないそうです。アホですね。脱走して病院に帰ったら困るので思い出すまで家の中に閉じ込めることになりそうです。猫は人につくより家につくといいますから、愛想のない動物です。

9月23日
ぼくの仕事には対戦相手がいないので、いくらでも怠けることができる。敵にも味方にもなる。つい怠け心を味方にしたくなるが、この味方と手を切る勇気と覚悟がない限り、いつまで経っても次の新しい仕事(作品)にかかれない。

今日、イチローがヒット1本打って200本まであと2本にした。日頃から尊敬するイチローと羽生善治さんの本を買って雨の街中の喫茶店で読んでいた。この2人の本がぼくの怠け心を追放してくれた。

9月22日
○本日の寄贈本
白水社より「プラハのシュタイナー学校」増田幸弘著

動物病院で見る猫はウチのタマと違って美男美女ばかりだ。タマは野良出身なのでやや見劣りがするが、出来の悪い子ほど可愛いいのだ。

入ってきて、タマでさえ開けられない猫専用のドアを上手に開閉する。頭のいい黒タマ(—と命名した)だ。

9月21日
唯識——マナ識から一歩も出ず。何もせず、何も考えず、何も浮かばず、何も起こらず、何も変らず。(この文は実は昨日の分)

ぼくは伝記や自伝を読むのが好きだ。これらを読んでいると自分がまだ駆け出し時代にいるような気になるからだ。そしてまだ多くのことを経験しなければならないと思う。実際にはそんな時間が自分には残されていないのに……。

トムソーヤやハックルベリィの年令はとっくに過去のものなのに、不思議と冒険心だけは今も残っていることに気づく。それをアートの中でやればいいと思う。

ジュール・ベルヌの時代に比べるとわれわれは未来社会に生きているのに、なぜか彼の世界が今よりも未来にあるように思える。それはわれわれの精神がちっとも進歩していないからに違いない。

「私」は誰か、「私」は何かなんて解っている人間なんて一人もいない。だから欲望が増大するのだ。だから増々「私」は手の届かないところに行ってしまう。

絵を描こうという気持も一時の迷い。すぐ描く気が消えた。全く描く気がしないまま何日も経っている。気持に反してアイデアはいくつもある。それが邪魔をしているのだ。アイデアなどない方がいい。アイデアは描き終れば出るものだ。気持ちがあるとよくない。

常に捨て身でなければならない。沢山アイデアがあると捨て身になれない。それが描く意欲を失くさせるのだ。

入院中のタマは愛想がよく、院内のアイドルだそうだ。退院が近いらしい。好物のマグロで退院祝いでもしてやろう。

ここしばらく腰が痛い。マッサージを続けて少しはよくなった。かと思うと次は親知らずがユラユラ揺れて抜けそうだ。歯医者に行くと簡単に取れるけれど、どんな状況で自然に抜けるのか確認するのも興味がある。

今日のタマは眠っていて、名を呼ばれて眠そうに「なんやまた来たんか」みたいに起き上がってきてスリスリ始めたが、外に出してもらえないことがわかり、しばらくしたら奥の方に
戻って丸くなって片目で見ていました。

内蔵も縫っているみたいで、そこが元に戻ればお腹の抜糸になって多分今週中に退院かなという感じ。

院長先生が谷内六郎さん家と親しくしておられ、しばし懐かしい話に及ぶ。

元宝塚のトップスター貴城けいさんのお母さんが子猫ちゃんを診てもらいにきておられ、このところ貴城さんの舞台案内頂きながらご無沙汰しているので、ちょい詫びる。

9月17日
●本日の寄贈本
佐伯靖子さんより「ねこ詩集」佐伯義郎著

今日病院に面会にいったところタマは立って近づいてスリスリするところまで快復しました。先生もびっくりの快復だそうです。皆様のお見舞いに感謝しています。ありがとうございました。

元匿さん/Karenticalさん
皆様の激励の波動が敏感な動物なので届いたんでしょうね。先生も「何故?」と驚いておられます。もう怖くて手術の跡などぼくは見れません。今日などは立ち上がってガラスケースから外に出ようとするくらい体力がついたようです。今日初めてキャットフードを口にしたようで、あとは便が出れば…と先生はおっしゃっています。お尻を叩くと尾っぽを上げて「グルグル」言っています。ただ帰る時はガラスに顔をピッタリすりつけてこちらが消えるまで見送ってくれています。

お陰様で猫のタマは物凄い回復力です。皆様のご心配感謝しています。

仕事を仕事ではなく趣味にしたく思っていますが、この言葉矛盾があります。仕事は時には地獄を味わいます。趣味は逃げではないか?と。その地獄を趣味のように味わうのです。苦痛が快楽を伴うように。

さあそろそろ、絵が描きたくなってきた。昨日は描く気がしなかったけど。ボヤケばその気になるもんですね。絵を描く喜びとは別に不安を伴うものです。極度の孤独を体験するわけですから。

アスリートにコーチがいるように画家にもコーチがいればどんなに楽かと思いますが、自分のコーチは自分ですからねえ。絵は誰にも相談できません。

自分で問うて、自分で答えを出すのがアートです。一度アーティストになって見たらどうですか。止められまへんでェ。

アートは観念でも知識でもない。実践です。戦です。戦火をくぐり抜けて初めてアーティストになれるのです。ぼくなんかまだまだ戦歴が浅いです。

*作品を出品しています。
Self Portrait - 私という他人
2010年9月4日(土)~2010年11月28日(日)
高橋コレクション日比谷
ウフィツィ美術館自画像コレクション -巨匠たちの「秘めた素顔」1664-2010-
2010年9月11日(土)~2010年11月14日(日)
損保ジャパン東郷青児美術館

9月16日
本日の寄贈本
鎌田東二さんより「霊性の文学霊的人間」鎌田東二著

瀬戸内寂聴さんはこの間ドイツにたった4日間の旅なのに行ってきたが、機内でも眠れたし、時差も関係ないらしい。86才ですよ。どうしたらこんなに図々しい肉体が持てるんだろう。

図々しい肉体に帰属するその精神はそれ以上に図々しいはずだ。悟るとは図々しくなることらしい。

ぼくは猫のタマを教育できなかったが、タマはぼくを教育した。

「画家宣言」と同時にぼくの絵画はデザインから離れて行ったが、今再びぼくの絵画はデザインに接近してきた。

絵を描くのは気が重いものだ。ヨッコラショと腰を上げるよりも腰が重い。描かなきゃと思うのだが、体がなかなかその気になってくれない。こういう状態の時の時間の経ち方は早い。アッという間に一日が経って、気がついたらベッドの中だ。

雨の一日、美空ひばりを聴く。今日はひばりの哀愁歌が心情にぴったりだ。「津軽のふるさと」、「哀愁波止場」、「ひばりの佐渡情話」、「哀愁出船」、「お島千太郎」、「悲しい酒」以上六曲。

ひばりの唄を聴きながら描いているのはシモーヌ・ド・ボーヴォワールの肖像画だ。

TWITTERは愚痴の吐け口みたいなものだ。酒を飲まないぼくの酒はTWITTERかも知れない。言ったからとてどうにかなるものでもない。

こんな気持をひばりは「人恋酒」でしみじみ愚痴る。



9月15日
元匿さん/Karenticalさん/toshiko sohさん/Miroさん/村井保彦さん
今日タマの面会に行ったらえらいシンドソーでしたが、こちらを確認して声にならない口を開きました。また何とか応えようと自力で立とうとするのですが、無理のようです。心配していただきありがとう。

本日の寄贈本
藤原書店より「身体の歴史Ⅲ」A・コルバン/J-J・クルティーヌ/G・ヴィガレロ監修/峰村傑監訳

9月14日
モリモトユミさん
ポスター展覧会会場でウフィツィ美術館のカタログをいただいた方でしょうか?こんどウフィツィ美術館に自画像が草間弥生さん、杉本博司さん、ぼくの三人がコレクションされたというニュースを知って、このカタログをいただいたのでしょうか。

本日の寄贈本
山田登世子さんより「誰も知らない印象派」山田登世子著
SUREより「技術からみた人類の歴史」山田慶兒著

わが家の猫タマが大ケガをしてたった今手術が終ったところ。胃が肺にまで食い込んでいて危険状態。

タマの手術が終りました。容体はまだわかりません。今から病院に行きます。沢山の方からお見舞いをいただきました。ありがとうございました。また明日報告します。

9月13日
ポスター展閉館のあと車で西脇へ。テレビのドキュメント番組の制作のため。展覧会場のあと作品の原点になっている郷里へ。

何をするわけでもないがディレクターとカメラマンに肌でわが郷里を感じてもらう。町を見てもらい、お好み焼きを食べてもらってから、ゆっくり考えてもらえばいい。

ディレクターの森脇さん。ヒントは墓石に書かれた「温故知新」です。

旅行の携帯品—原稿用紙、ペン、マーカー、本(画集・文庫本)葛根湯、セルベス、セサミンE、のどアメ、目薬、経皮複合炎症剤、保険証、スポーツドリンク、ティッシュ、リップクリーム、サングラス、乱視鏡、キャップ、カメラ、メモ、スケッチブック。

旅から帰ったと思ったらまた旅に出、さらにこのあとも、そのあとも、あのあとも旅度々なり。

体の旅と頭の旅は別々の場所を目指している。アトリエももうひとつの旅だ。

9月12日
画家は画家でもぼくはヨーロッパの民衆画家に今も憧れている。かつて前世で民衆画家であったのではないかと思われるほどその憧れは強い。民衆画家の職人の技に憧れるのだ。

10代のポスターはデザイン以前のまだ図案の時代のものだ。まだぼくが職業を決め兼ねている頃に描いたものだ。この頃は郵便局員になるのが夢だった。まさか趣味のお絵描きが職業になろうとはねえ、、、、、、。

全ポスター展の最後の部屋に10代の作品が展示されている。この演出は評判がいい。ぼくはちょっと恥ずかしいが、逆に「初心に戻るべし」と言われているようで、ドキッとする。

猛暑と共に開催され、猛暑の終りと共に閉催される。

閉館のあと、来館者の残留想念の漂う祭のあとを独りじっくり会場を巡りながら我が作品と語りながら別れよう。

代表作は?と聞かれることが多いが、そんなもんはない。あるのは全て遺作であるということだ。

全ポスター展」本日最終日。

作品はそのまま我が人生の山と谷を語っている。やり直しのきかない人生だが後悔はいっさいない。全て肯定する。

全作(900点近い)を見るのは自分の人生で今日一日しかない。60年間に制作したとは思えない。まるで一夜の出来事だ。現は夢、幻だ。人の人生はこうも短いものか。

駅場の星を持つ者は運命的によく旅をする。駅場の星を持つ者は移動することで運を呼び寄せる。ぼくは放浪の画家を自認している。ドラクロアやゴーギャンやわが山下清には及ばないが、、、、、。

9月11日
駅場の星を持つ者は運命的によく旅をする。星を持つ者は移動することで運を呼び寄せる。ぼくは放浪の画家を自認している。ドラクロやゴーギャンやわが山下清には及ばないが、、、、、、。

ぼくにとって旅は読書以上の師だ。

旅は多くのものを吸収するが、ぼくにとってはむしろ吐き出す行為だ。

つまり空っぽになれるのだ。荷物いっぱいの日常を抱えて出掛けるが、その全部を捨てて帰ってくる。

仕事を仕事だと思うからシンドイ。趣味だと思えば楽しい。老齢の生き方はこれしかない。これが延命を約束する。

あとは怠ける技術だ。怠け上手は効率を上げる。働き下手はその反対。

アンリ・ルソーの人物は常に草の中に立っている。靴を描くのが面倒だから、草で靴を隠す。この横着振りが効果を上げている。

デ・クーニンングは手の指を描くのが下手だ。だから上手にゴマカス。または描かない。その結果傑作「ウーマン」を生んだ。

元タカラヅカのトップ大浦みずきさんはタカラヅカ随一の名ダンサーだった。「私はダンスが下手。だけど上手に見えるように踊る」。

「下手も絵のうち」熊谷守一。

ぼくのTwitterは他者とコミュニケーションを取るためではない。強いて言えば内なる他者とのコミュニケーションだ。内なる他者イコール雑念。

雑念が解らなければ座禅すればその正体が一発で解る。

国立国際美術館の「横尾忠則全ポスター展」。いよいよ明日最終日。大阪なう。

9月10日
ちづさん
大阪でのポスター展の規模は「大規模」、これと同等の展覧会は今後不可能です。とにかく普通のポスター展とは異なった空間構成により作品一点一点が際立っています。

元・元匿さん
わが家のタマ(本名・玉子)は門の手前の草むらが定位置で、ぼくが帰ってくるとぼくと並走して玄関までついて来ますが、家の中には中々入ってくれません。お尻を叩く真似をすると急いで入ります。そして水道の蛇口から水を飲んでまた外出です。以上ご報告まで。TWITTERも見ているんですか?

イナリさん
ぼくは古いタイプのアーティストなのでメディアアートはよくわかりません。といって否定はしません。色んな表現があっていいと思います。クロス由美さんによろしく。

西田さん
糖尿病専門医の先生ですか。近くだったらお伺いしたいところです。ぼくも多分糖尿病症候群だと思いますが、気をつかっているのか、つかっていないのか自分でもわかりません。ぼくは胸焼けタイプなので油物、肉、糖分はなるべくひかえていますが、どれも好物です。そうですね、「猫背の目線」が病気シリーズ第二弾だとすれば第三弾は老い方がテーマになりますかね。

今、新しいシリーズに取り組んでいる。まるでTWITTERのように雑念さながら次から次へとバタバタとアイデアが浮かんでくる。こーいう時は要注意。アイデアだけで仕事はしてはいけない。浅いものになってしまうからだ。自戒を込めて。

「直感よさようなら」だ。直感に従がうことは間違いない。でもニセの直感もある。本当の直感はその中に理性が内在されている。だからニセか本物かは自らの本性と交渉するしかない。だけどどっちが正しいとは言えない。

作品のアイデアはボヤーッと待っていても得られるものではない。求めて、求めて、挙句に得られるものだ。でも求めるだけでは得られない。それを手離さなければならない。手離すことで得られるが、その結果は求めの質量の大きさによって決定される。

横尾忠則全ポスター」国立国際美術館 7月13日〜9月12日
猫背の目線」日本経済新聞出版社 新書版 

それとも輪廻のサイクルを断ち切って不退の土(ど)に留まりますか。知っているのは自分の魂だけ。

未完成のままで生まれて未完のままで旅立つことになるのが人間の一生ですかね。

大阪のあとは再び郷里へ。人生の終りが近づくと人生の初めに帰りたくなるものです。

とりあえず国立国際美術館の楽日なので、土、日は取材を兼ねてちょい顔を出します。閉館後にひとりじっくり60年の足跡をたどるつもりです。

また明日から来週にかけて関西です。旅先きではいつも頭をカラッポにして見ることに務めます。ぼくにとっては見ることが考えです。

9月9日
昨日はTWITTERのことすっかり忘れていた。忘れるくらいだから、吐き出す雑念がなかったのだろう。

それにしても忘れるということはいいことだ。常に新しくいたいなら忘れることだ。

羽生善治さんも年令と共に物忘れをするようになられたそうだ。だからとんでもない手を打つ。すると相手はコンヒューズを起こす。だから勝てる。創作も加齢と共に老化する肉体に従う。すると今までとは全く異なる作風が生まれる。何も考えることはない。肉体におまかせ。

昨日イタリア大使館でフィレンツェのウフィツィ美術館への自画像寄贈式典に出席。ラファエロからジェフ・クーンズまでの自画像をコレクションしており、今回日本から草間弥生さんと杉本博司さんとぼくの三人の自画像がコレクションされた。

この発表展は損保ジャパン東郷青児美術館で11月14日まで。展覧会タイトル「ウフィツィ美術館自画像コレクション」。

ぼくの作品は新シリーズになるだろうその㐧一作で、タイトルは「眠る私」。自画像はデスマスク。まあ生きているのでライフマスクだ。死は忌まわしいものでも悪でもない。だから祝祭としての死を表現している。国内展が終るとイタリアに帰る。今回の発表が最初で最後になる。

当り前だったら今日ハワイに行く予定だったが、熱中症で倒れたので出発を中止したが、今日の天候とここ数日の体調なら行けたかも。でも憬れは憬れとして取っておくのがいい。

今朝の日経新聞に平野啓一郎さんが大阪・国立国際美術館のポスター展の批評を書いてくれています。読んでみて下さい。美術関係者ではない視点が新鮮です。

9月8日
ポール・デイビスとはぼくのニューヨークでの個展以来だから3年振りかな? もう会えないかも知れないので、お互いの子供の頃の話題になる。ポールのお父さんは牧師でもあり、牛や馬を沢山飼っていたカーボーイでもあった。ワシントン大統領とは遠い遠い縁者で、またフリーメイソンの会員だった。

お互いに最後の別れ(というのはぼくはもうN.Y.には行かないと思うので)を暗示してか、帰りのタクシーで小さくなるまで二人共手を振っていた。http://bit.ly/1Xgurj

今日また持っている本を買ってしまった。こんなことを何度も繰り返している。というのは本を探す時間が惜しいので、買った方が時間のロスにならないからだ。http://bit.ly/1Xgurj

待望のユングの「赤の書」が発刊された。ユングがこの書の中で「あなたが行っていることは科学ではなく芸術だ」という女性の声を耳にして、ユングが「これは自然だ」と言い返したとの話が気になっていたが、ぼくはその「女性の声」に共感する。

ユングの描いたヴィジョンが原始的な美術からプリミティブやアウトサイダーをかすめて今日の現代美術まで串刺しながら、あらゆる民族の意識の創造形態をマンダラ的に現出させていることを考えれば、ユングのいう「自然」こそ「芸術」と同意語ではなかったか。

とにかく「赤の書」は一見の価値はある。全篇手書きのタイポグラフィには圧倒されるが、それ以上にユングのマンダラ絵画の深淵さこそ人間の本能が導き出したビジョンである。http://bit.ly/1Xgurj

今朝6時に起きて公園に出掛けたが、ポツポツと小さい雨が降りだしたので引き上げることになった。久し振りの雨で少しは気温が下がるだろう。こういう季節の変り目には持病の喘息がでる。身体も変化の対応に忙しい。

平野啓一郎さんに聞いた話。この猛暑で犬が足の裏をやけどして病院にかつぎ込まれているそうだ。焼けたアスファルトの上を蟻が歩いていたが、大丈夫なのだろうか。地面との接触ポイントの面積が少なくても、蟻の体からすれば犬の足の裏の大きさとそう変らないはずだ。

平野さんから蟻の絵は描かないんですかと聞かれた。蟻を描くとダリの真似だと言われ、大きい蟻を描くと熊谷守一だと言われる。水玉を描くと草間弥生と言われる。繰り返せば何んでも私物化できる。「君のものはぼくのもの」だ。

9月6日
今日は1967年以来の40年以上の古い友人のアメリカのイラストレイター、ポール・デイビス夫妻とわが家でランチをすることになっている。ぼくはもう遠方の海外旅行はなるべく中止したいので、彼等と会うのがもしかしたら最後かも知れない。ゆっくり色んな話をして置きたいと思っている。

ポールは2才下だが、お互いに70代だ。2人でコラボレーションの本を出版したいとニューヨークで1967年に約束したが、お互いに忙しく実現せず、結局東京の西村画廊で二人展を4年ほど前に彼の提案で実現した。

「猫背の目線」日本経済新聞出版社/新書版
http://www.tadanoriyokoo.com/shop/g2/yb033.html
「横尾忠則全ポスター」国立国際美術館 7月13日~9月12日
http://www.nmao.go.jp/japanese/home.html

9月5日
熱中症にならない!と決めたらならなくなった。マーフィーの法則では過去完了系で考えればいいという。つまり「熱中症にならなかった!」という風に。

すでに過去に終わってしまった状態を想像すれば、現実に実現するという。

今朝は6時半に家を出て公園へ。だけど6時半は遅い。6時前に出た方がいい。今朝は曇っていたが、すぐ暑くなる。帽子を忘れたのが失敗。

芥川賞作家の磯崎憲一郎さんとはよく偶然にバッタリ道や店で会う。同じ町内の住人なんだけれどこんなに頻繁に会う人はいない。同じ時間、同じ場所で交差するのは確率的には低いはずだ。彼はぼくに会う前から、色んな所でぼくに会っていたそうだ。

それとも二人共いつも町内をぶらついているのだろうか。ウン、それはいえる。今日も滅多に入らないコンビニでコピーを取りに来た磯崎さんに会う。」

9月4日
いつもなら日が短くなると嫌だけど、この猛暑なら日が短くなってくれる方が嬉しい。長い夜が待ち遠しくなるなんてちょっとセンチメンタルだなあ。ノスタルジーとかセンチメンタルなんて甘っちょろくて、芸術の敵だから嫌なんだけれど、まあ、ええか。

大阪・国立国際美術館にフォロアーの人達が大勢行ってくれているみたいで、ありがとう。最終日の12日にはちょこっと顔を出すつもりです。テレビの取材なので、会場の観客にはなるべく迷惑のかからないようにしますから。

今日は久し振りにマッサージをしよう。オイルマッサージと普通のマッサージを交互に、その時の体の要求で変化をつけています。猛暑で歩いていなかったので、マッサージで代行だ。

ぼくはノスタルジーでセンチメンタルな音楽をよく聴くけれど、内なるノスタルジーやセンチメンタルを吐き出すためだ。ぼくは取り入れて吐き出すタイプだ。

ぼくはジャズのトランペットが駄目だ。するとモーツアルトもトランペットの音が嫌で耳を手で覆ってテーブルの下に隠れたそうだ。まあぼくとモーツアルトとは比較にならないけれどね。

国立国際美術館のポスター展にニューヨークから来ているぼくの友人のイラストレーターのポール・ディビスが2〜3時頃に観に行くそうです。ポールのファンの方は是非!

9月3日
○本日の寄贈本
白水社より「ゴンドラの文化史」アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ著
辺見じゅんさん(幻戯書房)より「20世紀断層」野坂昭如著
宇野亜喜良さんより「Cine Aquirax」宇野亜喜良著
西川隆模さんより「シュタイナー哲学講義」
ルドルフ・シュタイナー/西川隆模訳

大前直子さん
お母様にもよろしく。「猫背の目線」は年令、性別、国籍関係なく読んでもらえればと思って、体のこと、心のことなどを書いてみました。「病の神様」の続編のつもりが、この本を出してから病気をしなくなったので、続編というより姉妹編ってとこです。

公園のベンチで足と上半身の導引術をする。そんなぼくの姿を犬が近づいて不思議がってジッと眺めているのがおかしい。

5時半起床。2〜3ヶ月振りに早朝散歩に出る。驚いたことにジョッカーやウォーカーの多いこと。ぼくだけが休んでいたのか。公園の木影は快適だ。体にいいことをしている人を見るとこちらも元気になりそう。天空の白銀色の月が笑っているように見える。

9月2日
素人、セミプロ、プロの境域が失くなった。美術の拡張と同時に、美術の解体である。

美術の主題、様式の多様性そのままが反映している。何でもありの時代で従来の審査方法が通じなくなってきている。まるでこちらがためされているようだ。

今日は午前中から世田谷美術館長 酒井忠康さん、西脇市岡之山美術館長 来住しげ樹さんらと第8回サムホール・ビエンナーレの審査を行う。1900点の応募作を床に並べての審査だが腰と首が痛くなる。こんな「痛い」審査は滅多にない。次回から車椅子に乗ろう。

千代ノ山関が大関だった時に親方の元北の海関が千代ノ山関に化粧回しのプレゼントをされた時もデザインした。二人でわが家に来られた時、千代ノ山関は犬を恐がってなかなか家の中に入られなかった。間もなく横綱に昇進。海外公演には必ずぼくの化粧回しをつけられた。

若乃花関が夫妻で化粧回しのお礼にといって米一俵をかかえてこられたのには驚いた。二子山部屋では若島津関の化粧回しもデザインした。

その後二子山親方から隆ノ里関の化粧回しも頼まれたが、その時春画を描いてしまった。これはまずかったが、「女性は土俵に上がれませんからね」と訂正を求められたが、春画の原画が気に入られ欲しいといわれたので差し上げた。

若乃花関が亡くなった。当時大関の若乃花関の化粧回しをデザインした時、二子山部屋で逢ったことがある。「土俵の鬼」といわれていたが、優しかった。「ハングリー精神」のことを「ハングル精神」と間違えられたことに親しみがあった。

9月1日
兵庫県西脇市なう

絵画論で知識を得ようとしても他人の借り物だ。それよりもジックリ絵を時間をかけて眺めるべきだ。そして自分の絵画論を持てばいいのだ。

目は色んなものを見る。それは無意識に記憶されていると思う。目は考えないが、見る行為は思考に比敵する。見ることは他人の考えを活用する以上に、自分の考えを生むことになる。

この猛暑の中、屋根の上で瓦を並べる作業をしている人が7人ほどいる。夕方じゃ間に合わないのだろうか。

小さい入道雲がいっぱい浮かんでいる。こんな風景はアマゾンで見た雲とそっくりだ。日本はついに熱帯気候になったのか

今月は新幹線ばかり乗っているようだ。どんな小さい旅でも日常から離れるのはいい。離れないでどこにでもついて来るのは「自分」だが、こーいう時の自分は意外と本来の自分に近い。本来の自分って何にでも反応する自分だ。

ぼくにとってツイッターは排泄物だ。出しっぱなしってわけだ。どうせぼくのツイートなんか水洗便所の水なんだから。

何もしない時間は眠らないで、起きていて何も考えないのが一番いい。そーいう時、雑念が浮かぶ。その雑念がぼくのツイッターだ。

乗り物に乗るとすぐ眠る人がいるが、貝原益軒もレオナルド・ダビンチも昼間のうたたねは気を滞らせるのでよくないという。ぼくの経験からいうと目覚めた時、気分が悪いことが多い。

新幹線の車内の時間は好きだ。他に人はいるが孤独になれる。ただし隣に人が来られると嫌だ。そんな時は二席共空席の所に移動する。それでまた人が来るとまた移動する。これも変化だ。

無駄な時間が有益であると気づくのは多忙を手放した時だ。

普段、思考のすき間を作らないように、まるで点描画のようにビッシリすき間を埋めてはいまいか。新幹線の窓外の流れる風景を見ていると思考まで流れて消えてしまう。こういう無駄な時間を日常はなかなか与えてくれない。

ハワイアンを聴きながら絵を描いている。ますますハワイへの憧れは強くなる。だが行けない。いや行かない。これこそ道教の房中術だ。この教えは ヨーガにもある。生体エネルギーをとことん内臓させる。これは創造の秘儀 である。

70年代の真夏にスペインやインドに行った時は40度近かったように思う。 そしてその体験したことのない暑さに身心共に大歓びしたものだ。そしてホテルのプールサイドやビーチで真黒に肌を焼いたのが、今や熱中症を恐れて逃げ廻っている。

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