2017年11月30日
今日はツイートすることが無いということをツイートします。
2017年11月28日
いつもアトリエのソファーで、読んだり書いたりしている。描く絵のキャンバスはソファーから5メートルの所の壁に立てかけてある。歩けば数歩で3秒もかからないが、気持は1キロ以上あって、なかなか腰が重い。絵はそれほど遠い存在である。
また恐ろしい存在で、そう簡単に近づけない。下手に近づくと攻撃される。そんな存在を仕事相手にしているんだから、因果の商売ですよ。
19年も前に書いた自伝が台湾で翻訳されて翻訳部門の文学大賞になったことを台湾の人から知ったけれど、嬉しい話なのか恥ずかしい話なのか笑っちゃう話なのかよくわからんけれど、あくまでも台湾での出来事なんですよね。
中国語で書かれた本をもう一度日本語に翻訳すると、オリジナルのぼくの日本語とどっちが面白いのか、一度見比べてみたいと思う。きっと中国語を日本語化した方が面白いのかも知れない。だからその結果が評価されたんじゃないかな。
翻訳は絵でいえば模写みたいなものだ。世界の絵を全部模写して翻訳画ってジャンルを作って、そこで良し悪しを評価するなんて、つまんない話ですよね。失礼。
ぼくは時々自分の絵を模写するが、これは贋作にならないらしい。他人の描くと贋作、本人が描くと模写。まあ、どうでもいいことだけれど。
糸井重里さん「思えば、孤独は美しい」かどうかわからないけれど、犬に混ざって人相がだんだん犬相になってきた——人犬を護ろう。
2017年11月27日
このところ色々の方から朝日新聞の書評の感想がネットだけでなく、メールや手紙などで寄せられ、「何んで?」ととまどっています。「芸術新潮」には諏訪敦さんが書評して下さっているページを「あゝ、アルチンボルドの絵だなあ」と自著のカバーと気づかず素通りする暢気さです。
朝日新聞の書評委員も8年になりました。2年の約束が延びたんですが、もし、この仕事をやっていなかったら書評をした133冊の1/10も読まないで終ったかと思います。そー思えば、まあ知らないことを知ったけど、絵の時間が失われたのかな? といって読んでいる間に絵を描いていたとは思えないし。
夕方近くなると頭痛がする。不眠気味のせいだと思うが、深夜にトイレにいったついでにテレビをつけて、通販の番組かなんか見てしまう。わざと疲れさせている。こういう性格は子供の頃からあったように思う。
2017年11月24日
まるでアニメーションを作っている(昔アニメ作品を制作した)ようで、描いては消し、消しては描きながら一枚の絵ができるまでのプロセスを撮っている。完成作は映画館で観て下さい。山田洋次監督の次回作のタイトルバックです。
昔、ソール・バスという人がいた。彼は「悲しみよこんにちは」や「80日間世界一周」「黄金の腕」「栄光への脱出」「危険な道」を初め、ヒッチコックの映画「めまい」「北北西に進路を取れ」「サイコ」などを観た人はタイトルバックの強烈な印象を記憶しているはずだ。
TBSの「水曜劇場」では随分沢山タイトルバックを作ったけれど映画では中島貞夫監督の「日本セックス地帯」、深作欣二監督「黒薔薇の館」、久世光彦監督の映画のタイトルは忘れたけれど、3本だったように思う。あと加藤泰監督の「鬼太鼓座」は美術を担当したけど、タイトルはどうだったかな?
2017年11月22日
サングラスが失くなったので新しいのを買った。昨日の話だ。今日はうんと寒いので、冬物のジャケットを着たらポケットから失くなったと思っていたサングラスが出て来た。昨日買わずに待てばよかった。
長野に行った時、ウィンドーの中にあるサングラスを買った。今かけていたサングラスが突然消えた。眼鏡店の人も不思議がって、皆んなで探してもらったが出てこなかった。小さな店で他に誰もいなかった。
新しいサングラスを買った途端、さっきまで掛けていたサングラスが壊れた。
新しいサングラスを買うといつも今持っているサングラスが失くなったり、壊れたりするのはサングラスが新しいサングラスに嫉妬したのだろうか。物にも意志があるような気がする。
2017年11月21日
冬至まで1ヶ月。どんどん短い時間の底に墜ちていくようだ。この期間は僕にとっては楽しみでもある。一番希望の持てる時間でもあるからだ。長い夜をどう過ごす? 夜中に絵を描くわけにもいかない。眠るにこしたことがない——と僕は思う。
今日から、しばらく、東宝スタジオに山田洋次監督の最新作のタイトルバックの絵を描きに行く。
2017年11月20日
神戸の横尾忠則現代美術館が再オープンして「大野慶人パフォーマンス&レクチャー」には立見が出る盛況となり、大野さんの踊りに涙ぐむお客もいて再オープンを待ってくれていたお客さまで感動的なステージになったそーです。
すでに町田での版画展を観た人も複数おられ、随分印象が違うことに神戸の方が作品数が多いと思われたそーです。
とにかく館の修理のために長い間閉館していましたが、今後も新たな企画が準備されています。また以前同様、来館をお待ちしています。――学芸員一同。美術館のネットにアクセスして見て下さい。http://www.ytmoca.jp/
久し振りに美術館での公開制作も考えています。気分が向いた時に行いますので、美術館のネットや、このツイッターをチェックしていて下さい。
2017年11月15日
『横尾忠則 版画展』《聖シャンバラ》カスヤの森現代美術館にて2017年11月16日(木)〜12月24日(日)まで。http://www.museum-haus-kasuya.com/index000.htm
パンドラの函の底が抜けたらしくて、函の隅をツッツイテもツイートは底ツイータと悲鳴を上げている。
明日は晴天なり。
ただ今17時46分。
2017年11月13日
こっちはなかなか睡魔が襲ってくれないでイライラしているのに猫はコロン・ニャオーで寝てしまう。猫の方が悟っている。見習っても生まれながらに悟っている者には負ける。
昔、参禅(禅寺に座禅に行くこと)していた頃、ある老齢の老師が言いました。「何しに来られた?」メンドーなので「悟りに来ました」と言うと、「人間は生まれながらに皆んな悟っています。この上にさらに悟りたいのですか?」
ウーン!? なんのこっちゃわからない。と突然僕の顔の前でパチンと両手を叩く。びっくりしますね。さらに「これは何んですか?」と質問される。なんですか、と言ってもパチンでしょう? あなたはこのパチンを聞こうと思って聞いたのですか?
いいえ、勝手に聞こえました。「そーでしょ、それでいいんです。聞こうと思わなくても聞こえた。悟ろうと思わなくても人は生まれながらに悟っている! あとは理屈と分別で悟れなくなっている」
僕の禅はここから入ったのだ。いきなり結論から入ったのであります。
わけのわからないまま入った。これが禅です。理屈抜きで、ただ座る。座る意味は? なんて考えちゃだめってわけです。理屈抜きで描きたいから描く。絵を描く意味などあってないよーなものです。
神戸にある僕の美術館(元兵庫県立近代美術館西館)は僕が神戸で新婚生活を送った近くにある。僕の美術館ができるということにも驚いたが、まさか72年前に住んでいた場所だと知ってもっと驚いた。生まれた場所に戻るというサケの気分だ。僕はサケだったんだ。
サケは川で成長したあと親のいた海に戻る。そのあと広大な大洋を周遊して、3〜4年後生まれ故郷の川の場所がわかるのだろう。沢山ある川なのに、どうして生まれた川がわかるのかわからない。
赤塚不二夫の前妻が渋滞のことを「シブタイ」と読んでいたそうだ。僕も東京に来て間もなく「ニッポリ」という地名のあることを知ってはいたが、それと「ヒグレサト」とは別の場所だと、その後何十年も思っていた。「日暮里」を「ニッポリ」と読むのには無理がある。
画家は絵だけ描いていればいい。かも知れないけれどこれじゃ絵描き馬鹿になってしまう。絵は職人的な要素もあるけれど、それが前面に出てしまうと生活臭が強くなる。といって生活と無関係になると芸術至上主義的になりかねない。画家と職人、中庸がいいのでは。
というとぼくは子供の頃から中庸を通していた。「どっちでもええ」という態度を。意見がないということ。こんな性格は今にも残っている。作品にも表われていると思う。
このことが気持いいのである。学校教育とは正反対だったと思う。どちらかに決めてしまうと、動きがとれない。自由じゃなくなると思っていたんだと思う。
こういう性格だから、白か黒か、右か左かのような思想はない。どっちかだといっても、明日状況が変ってしまう。終戦時に今日まで使っていた教科書が黒く塗りつぶされて、今日から考えが変る、という経験をしているので思想なんか持てるはずがない。
だから芸術がプロパガンダを代用するのは反対だ。芸術は見る人が自由勝手気ままに見ればいい。こう見るべきだと押しつける芸術もあるけれどね。
若冲の展覧会には40万人が入った。中味より入場者が話題になるのが昨今の展覧会だ。カタログが14万部も売れた。これも話題になった。もうひとつ話題は、長い行列の入場者の老人がバタバタ倒れて救急車が4台でて、看護婦も動員されてペットボトルが配られたそーだ。老人相手の展覧会には人が入る。
老人社会が文化を変える。若者が変えた時代は終り? ぼくが若者だった頃のロックやサイケの時代は、これからの老人文化として再登場するかも知れないけれど体力を作っておかなきゃ、その文化で倒れたり死んだりするかも知れない。
知らないところで人が沢山死んでるらしい。今年になって陸海の自衛隊が25人。今までにも1000人以上が事故や過労で亡くなっているらしい。
マレーシアで猫を可愛がったマットという90才の老人が亡くなって、彼の葬式が行われたけれど、その猫はやってきて葬式が終った後も数日間、墓から離れない。その内消えていなくなったけれど墓地から5キロのモスクにいると知ったマットさんの係がその猫を自宅に連れて帰って今では一緒に住んでいる。こういう話はいいね。
一家で富山に車で旅した時、猫が車から脱出してどこかに行ってしまった。だけど日本アルプスを越えて大きい川も渡って、町を歩いて1年後に横浜の実家のお勝手口からミャーといって帰ってきた。感動しますね。旅の道中を考えてみるとね。
わが家には何十匹もいた時期があったが、引越しで連れてきた猫、逃げた猫、その内交通事故になった猫、大勢の猫と別れることになったけど、その中の何匹は姿をかえているんだよね。ぼくにはよくわかるんだ。
2017年11月10日
ぼくは、子供の頃から能動的ではなく受動的な人間だったような気がする。他人の主体性よって行動していた。その方がメンドークサクなかった。そんな優柔不断さが性格になってしまったようだ。たまに能動的になると非常に疲れる。特に老齢になるとね。
受け身といっても与えられたものに対しては能動的になる。この場合の能動はそれほどメンドークサクもなく、疲れも少ない。
ツイッターは誰かに「書け!」と言われて書いているのではない。その意味では能動的だよね。日記は47年間書いているので、ツイッターも、その一種かな? 習慣はメンドークサクもなく、疲れない。
2017年11月09日
この年になると、2年後の仕事の依頼があると、2年間寿命が延びた気がする。仕事の約束を果たすためには2年間は生きなければならないからだ。5年後の仕事は、ちょっと考えてしまうけれど、天が与えてくれた時間だと思うと前向きになる。
昨日、N.Y.のオノ・ヨーコさんと電話で話していて、N.Y.も遠いけど耳も遠いのでぼくの話はトンチンカンでしょ、というと、トンチンカンがイイノヨと。ヨーコさんはアメリカ人みたいに早口なので耳がついていかない。だからイマジン(想像)するしかないのよね。
耳が遠いくせに環境音だけは大きく聴こえる。焼き芋のスピーカーや飛行機のエンジンの音は苦痛なので飛行機を止めてからもう何年にもなる。焼き芋は止めてないけど。
コーヒーを飲むといつも焼き芋のこげた味がするのでコーヒーは飲まない。
ピロリ菌があると胸焼がする。高齢者は子供の頃井戸水を飲んでいたので大抵の人は持っている。以前ピロリ菌を取ったけれど、胸焼がする。取ると逆に胸焼がするという。何んだか変だよね。それで検査したら、マイナスだった。でも胸焼はする。してもしなくてもいいんだったら取らない方がいいと思う。
猫が足の裏をなめたり噛んだりするのはそこに全身のツボが集中していることを本能的に知っているそーだ。足裏医術師に聞いた話。
絵を8割か9割仕上げた時、この先き何をしていいかいつもわからない。だから止めてしまう。だから僕の作品はほとんどが未完のままである。
とにかく絵に限らず、仕事においてもわからないことが多い。無理にわかろうとしない方がいい。わからないことはわからないでいいと思っている。無理してわかろうとすると、間違った答えを出してしまう。そうして出た間違った答えが世の中にウロウロしているような気がする。
絵は原画を見なければいけない。図版では絵を見たことにならない。絵は絵具や筆さばきを見なければいけない。主題はどーでもいい。様式もどうでもいい。如何に描かれているかを見なければいけない。もっといえば、それだって、どうでもいい。いかに生きるかを見なければならない。
シャガールは一般的に人気があるけれど、ピカソやデュシャンのように芸術の革命家ではない。だけど秘密が沢山隠されている。そんな秘密の中に革命的な謎ある。それを見つけるのが実に楽しい。
お知らせ
修繕のため休館している神戸の横尾忠則現代美術館が11月18日(土)に再開します。11月18、19日は「関西文化の日」として入場無料とするほか、学芸員の解説会や舞踏家(大野慶人氏)のパフォーマンスとレクチャーを開催します。
休館中の期日を延期して、平成30年2月4日(日)まで延期します。
僕は社会的(外部)感心が薄い人間です。世の中に起ることより自分の内部で起ることに感心が強いのです。自分の内部そのものが僕にとっては社会なのかも知れません。
社会的スキャンダルや事件に対しても、それを取り巻く社会や環境よりも、それに関わった人間の心や性格に興味があります。僕のアートも同じです。アートの中で起こす事件(変革)に興味があるのです。
ピカソが女ばかりを探究して、セザンヌがリンゴやビクトワール山ばかり描きながら芸術に大革命を起こしたことに共感します。社会に対して何か特別に発言したり行動を起こしたりしたわけではないけれど社会を変革しました。アートには政治以上の力があると信じてます。だからアートをやっているのです。
2017年11月08日
府中のコヤマ様
補聴器のことご親切にありがとうございます。お母様と同じ商品を持っていますが、自分にはもうひとつです。また考えます。ありがとうございました。
年末が近づくと忙しいのは、外部からの要求というより内部からの要求で忙しくしてしまうように思う。しなくてもいいことをしてしまうからだ。今からでも遅くない。うんと暇な年末と年始を迎えよう。
と、いうより、することになったことを全部忙しいと思ってしまうらしい。例えばごはんを食べることやトイレに行くことや風呂に入ることや、寝ることまで、忙しい部類に組み込んでしまうからだ。せっかちな性格がそうさせるんだと思うけれど。
床に入る寸前に保坂和志さんの「読書実録」という小説を読んでみようと思ったら、文章の中に僕の言葉が2、3出てきて逆に不眠ぽくなった。この小説は「スラム篇」で、他の篇のひとつかも知れない。3ツ揃えのスーツでスラムに迷い込んだよーな小説で、座りの悪い気分にさせられたが、これが保坂さんの持ち味だと思えば、それでいい。
「文藝」で保坂さんと磯崎憲一郎さんと僕の三人で森羅万象を語り合っているが、保坂さんの小説の原郷は意外とあの3人寄ればナントカの知恵、そうそう「文殊の知恵」にありそーで、あの雑談会議だって、遠い将来、「今日の文学」として評価する人間が出てこないとも限らない。
磯崎さんは成城の住人で、よく道で会う(会い過ぎ)友であるが、成城の住人は彼以外にも沢山いるのに、どうして沢山いる人の中から彼ばかりに会うのか、不思議でならない。大江さんや、小澤さんや、山田さんやらともタマに出会うが、磯崎さんのレベルでは会わない。
あんまり会うと、実は磯崎さんは複数人間ではないかと思うことがある。あるいは僕も複数人間かなと思うが、そんなことはない。偶然は存在しないと考える僕は、やはり彼とは必然に会っているということになる意味のない必然である。
必然には意味がなければならないが、意味のない必然が元に成城の区画された路上で発生しているのである。
彼はいつも意味を持って行動(歩行)しているが、僕はほとんど意味がなく自転車だったり歩行だったりする。意味のある人間と、それがない人間だからこそよく会うのかも知れない。
芸術はわからないとよく言われる。わかってどーするのだろう。芸術はわかろうとするものではないと思う。感じるものじゃなかったのでは?
第一芸術家自身もわかって作っているわけではない。わからないから作っているんじゃないのかね。わかったものなど、わざわざ作ることないと思うよ。
芸術を理解すること自体間違っていると思う。ではどうする? 感じることだろうなあ。芸術を教養とか知性とか、そんな風に難しく考えると、わかるとか、わからないとかにぶつかる。まあ感性でとらえればOKだ! と僕はそー思う。だって感性で描いているんだから。
こんなこと以前にも書いたように思う。進歩ないよなあ。同じことを何度も繰り返すことは頭の問題というより肉体の問題かも知れない。
2017年11月07日
猫と暮らす時間は自分の一生の半分以上だ。そこで認識したのは人間が五感で知覚する能力を遥かに超えた存在であることだ。人間的に猫を見ると、人間と同じ五感動物ということになる。猫の不思議を人間と同様の五感で解釈すると、その範囲でしか猫を認識できない。臭覚や聴覚や視覚が凄いという風にだ。
飼い主が家に近づくと、猫はそれを察知して、玄関に走ってくる。聴覚が優れているかではなく、知覚によって猫はそれを察知する。もっと不思議なことが猫と生活していると、いくらでもある。
猫の死にまつわる不思議な事象を僕は何度も体験している。こういう時、物質的背後に見えない「何か」が存在していることを知る。その時、この物質的現実の領域がグーンと拡大する。芸術はそれを伝えようとするのだ。
眠れなくなった。よくあることだけれど、気がついたら眠っている。今夜は眠れないぞと半ば決めつけている時もある。ふと「菜根譚」を開いてみると、開いたところに「考えることを忘れる、肉体の存在も忘れる」とあった。では「考えることを忘れる」ということを考える。そんなことをしているうちに眠ったらしい。
朝になって、そのページを探した。どこにもそんなことが書いてない。では、あれは一体なんだったのだろう。気になるのでまた徹底的に一ページ一ページ探した。やっぱりどこにもそんなことは書いていない。
寝入りばなにフト思いついた言葉だったのだろうか。眠れない時はこの言葉を思い出して眠ろう。「肉体の存在を忘れる」とは物凄い言葉だよね。
読書は時間ばかり食っていて、食った味覚はその場限りなのかねえ。
2017年11月06日
セネカの「人生の短さについて」を読む度に、ああ、なんと無駄に時間を浪費していることかと後悔するばかりだ。人にとって時間は有限なのに世界にとっては時間はあたかも無限であるかのように思いその世界の時間に生きていると勘違いまたは、うまいこと誤魔化して時間を無駄食いしている。
一体どうすればいいのか。とりあえず自分の場合は時間を絵に与えればなんとか、自分を納得させたように思うが、これだって誤魔化しに過ぎない。
人間は何に生きているのかと問う時、やっぱり時間に生きているとしかいいようがない、有用、無用関係なく時間に生きている。
セネカは「よく生きれば人生は長い」という。さて自分の人生は?そーだなあ、長くもあり短くもあったが、残された物理的時間はそー長くないけれど、これを如何に長くするかといえば「よく生きるしかない」。あれもしたい、これもしたい生き方はきっと短い人生であろう。
読みたいと思う本が本棚にあって、それを取り出すと、なんと読んだ形跡があちこちにマーカーで線が引かれている。そこを拾って読んでみるが、「うーん、なるほど」とは思うが読んだ記憶も、理解した記憶もない。こんな本が本棚に何冊もある。
何も覚えていない。身についていない。愕然とする。失われた時間は一体どこへ行ったのだろう。そー考えると人生で失われた時間ばかりだ。読書の代わりに絵で描いていれば、そこに時間が形になってあるというのに。
読書は時間ばかり食っていて、食った味覚はその場限りなのかねえ。
2017年11月01日
絵の制作に入ると頭から言葉が消滅してしまう。
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