1月31日
○本日の贈本
岩波書店より「歴代名画記」宇佐見文理著
例によって時間が過ぎるのが遅い。まだ一月が終わらない。この一ヶ月は3回も旅に出ることになり、芝居やトークショーなどで外出も多かった。時間だけが静止したかのようだ。それなりに絵や文もこなしており、当たり前なら忙しく時間は矢のように過ぎるのに、老境に至ると死が近いのに、なぜか時間は逆流する。新たに人生の計画を立て直すべきかも知れない。だけど生半可に計画など立てると急に時間が早廻りするかも知れない。やっぱり無計画がいい。
1月30日
書斎から見る満月がテーブルの上のメダカの水槽に写る。—なんて絵に描いたような現象は起きないが、思わず想像してしまう。東京帰還も束の間、再び旅ガラス。ぼくは「駅馬の人」旅から旅へが運命。肉体を移動しなくても心は常に「駅馬の人」だ。
1月29日
今までは成城に引っ越しをしてくる人が多かったが、最近は成城から出て行く人が多い。そんな引っ越し風景をよく目にする。と同時に新築を建てている風景に出会うこともある。かと思うとそんなに古くなっていない家を壊す所もある。夜、電気のついていない空家やマンションも目立つ。そーいうと一時に比べると住宅街の人の数も減ったように思う。だから夜は用心が悪い。
一週間留守にしていて、エサを与えていなかったメダカは健在だった。時々死んだマネをするのがいて、こちらを驚かせる。今では宇宙メダカと日本メダカも一緒に戯れている。わが家のメダカが先月の「芸術新潮」の日本遺産特集に初登場した。シシャモほどの大きさのメダカにびっくりした。それにしても変な顔をしている。
1月28日
3D映画の時代が来るという。その昔、ハリウッドで初の3D映画「肉の蝋人形」というのが制作された時観たが、もう50年ほど前だったような気がする。その後はディズニーランドで観たマイケル・ジャクソンの映画だった。その後、3Dの本が出て、目をロンパリにしたり、寄り目にして3D図形を楽しんでいた頃、チャイコフスキーの「白鳥の湖」を東京文化会館で観た時、白鳥が2人、または4人、さらにそれ以上が全く同じポーズで踊るので、それを3Dで観てやろうと思って目を寄り目にしたら、2人が1人に、4人が2人になって見事に3Dになってひとり大感動したことがあった。考えてみればこの現実がすでに3Dだ。それをどうして不思議に思えないのだろう。でもある日、ベッドで目が覚め2次元の平面になっていたら、現実が映画かテレビになったみたいで、これはきっと驚きそうだ。
1月27日
しばらく日常から離れて、旅から帰ってくると、「何か」考えが変わったような気がしないでもない。「考えが変わった」というより、考えを「変えよう」という意志が働くのに気づく。それが何なのかはわからないのだが。
本日の贈本
光文社より「日本思想という病」芹沢一也・荻上チキ編
八重樫克彦・由貴子さんより「天啓を受けた者ども」マルコス・アギニス著
温泉で治った手の指の痛み、一週間経っているが、まだ痛まないが、効能の賞味期限があるのだろうか。このまま治れば温泉効果は凄い。自覚症状がないが体の中で悪い部分があれば、それにもきっと影響を与えているはずだ。体調の良し悪しにかかわらず温泉は健康の友といえよう。
旅行中、読書時間がなく、車内で名作のマンガ本を読んでいた。そんな反動で、今日本屋で何冊か買う。たまに行くとまとめ買いしてしまう。だけどいつものことだが、すでに持っていて読んだ本まで買ってしまうことがある。そんな本の周囲をうろうろしているような気がする。
日本海にて |
1月26日
○贈本
マイケル・テイラーさんより「Philadelphia Museum of Art」/ 「MARCEL DUCHAMP ETANT DONNES」
国書刊行会より「切手帖とピンセット」加藤郁美著
中条省平さんより「中条省平の『決定版!フランス映画200選』」
高橋巖さんより「社会の未来」ルドルフ・シュタイナー/高橋巖訳
平凡社より「別冊太陽/長谷川等伯」
1週間振りで兵庫の旅から帰ってきた。連日車で走り続けていたというEP象。今日も鉄橋を走るラッピングカーを撮影。自作には常にテレがつきまとうが絵を描いた電車だけはなぜか、カッコイイーと思った。
1週間留守だったけれどタマが玄関まで駈けって迎えに来た.本当は迎えではなく、ただ単にお尻をマッサージしてくれる人が帰ってきたからだ。
1月25日
ホテルの窓から西脇の町を眺めていると、前方に八日山が見える。あの山の裾に小学校があって、昭和20年だったけど、運動場で朝食をしている時、いきなり八日山の背後から米軍のグラマン戦闘機が三機、うんと低空で(パイロットの顔が見えた)襲ってきた。ぼくは校庭の溝に飛び込んで目と耳を手でふさいだ。グラマンは校舎の屋根ぎりぎりに飛び込んだ。校舎のガラスが激しく響いた。きっとパイロットも山を越えた所に子供が1000人以上いたことに驚いて、機銃掃射をすることも忘れたのか、相手が子供だったから、パイロットのヒューマニズムがやり過ごしてくれたのだったろうか。そんな昔の光景が頭をよぎるのだった。
1月24日
自画自賛なんだけれど自作の絵のラッピング・カーが警笛を鳴らして音を立てながら山合いの田んぼの中のレールを突進してくる様は胸が轟くものだ。その光景は来月発売の「芸術新潮」(3月号)でぜひ見て下さい。
午後は墓参りといっても自分の墓石なので拝むのも変な気分だ。近くの墓から賛美歌が聞こえてきた。クリスチャンなんだろう。わが家の墓の霊歴には娘ひとりがクリスチャンだから、墓石に十字を描いている。ついでにぼくは神道だけど、娘を除く家族の宗派はなんだろう。神道を選ぶか仏教を選ぶかは個人が決めればいいんだろう
。
1月23日
豊岡の近くで初めてコウノトリを見る。ゆっくり歩いている者、上空を飛んでいる者、身動きしないで立ちっぱなしの者、様々。思ったより大きいのに驚く。この大きさじゃ、赤ん坊を首にぶら下げて飛べそうだ。
一日120キロ以上車で走って兵庫県北部のY字路を追う。地方にはY字路が多いと思ったが、意外に少なかった。農道が発達して出きたY字路だけど、土地がたっぷりある田舎では最も使い勝手の悪いY字路の先端に家を建てる人もいないんだろう。先ず駐車場が取れない上に二本の道路に挟まれた家じゃ常に車の往来に悩まされて落ち落ち生活もできないし、第一睡眠を邪魔される。中には住む人もいず、廃屋になっているY字路もある。
1月22日
京都駅から城崎号で和田山下車、待機していた車で生野にあるY字路を撮影していく。そのあと生野銀山へ。1キロもあるという洞窟に入る。洞窟内にもY字路がいくつもある。奥に入ると温度が高く、その上空気が希薄になるため、気分が悪くなる。城崎温泉に入る途中にもひとつY字路あり。以前泊まった西村旅館の新館招月庭にチェックイン。久し振りの温泉に満喫。手の指が冷たくなって痛んでいた(かなり長期間)がたった一回の入浴でウソのように痛みが消えた。以前にも帯状疱疹がたった一回の入浴で痛みが取れたが、どうもぼくの場合は原因不明の病気と温泉は相性がいいようだ。
1月21日
本日の贈本
岩波新書より「活字たんけん隊」椎根誠著/「清水次郎長」高橋敏著
講談社より「あなたの哲学」村瀬学著/「明治維新」坂野潤治+大野健一著/「性的なことば」共著/「22歳からの国語力」川辺秀美著/「新編日本語誤・慣用小辞典」国広哲弥/「決算書はここだけ読め」前川修満著
1月20日
明日から雪の城崎に雪のY字路を取材に行く。兵庫県下のY字路シリーズの制作のためだ。何しろ気温は零下だと聞く。城崎のあと、郷里の加古川線を走るラッピング・カーの取材。現在四種八台の電車が走っている。まだ全車輌を見ていないので、愉しみだ。それぞれの題名は「眼のある電車」、「銀河の旅」、「滝の音、電車の音」、「走れY字路」である。
1月19日
また絵を描く季節がやってきたという感じです。今年は公開制作も企画されているのですが、旅行と観劇以外はアトリエの制作が中心になりそうです。アトリエ→旅行→アトリエ→旅行→アトリエの生活で、その間に舞台鑑賞が入ります。映画は全く興味なしです。絵は新シリーズを開始したので波に乗るまではとにかく描く、描く—しかありません。
1月18日
本日の贈本
酒井忠康さんより「日本の近代美術」土方定一著
様々な舞台を見ているが実は新派は初めてだった。今日は午前中から日本橋三越劇場で小津安二郎の「麥秋」を山田洋次演出で舞台化されたものだ。どうしても小津映画の配役の印象が強いために、原節子や笠智衆のイメージをダブらせて観る。演劇と映画を同時に観ているようでこれはこれで面白かった。
1月17日
本日の贈本
平凡社より「アラビアン・ナイトの世界」まえ嶋信次著/「ロクス・ソルス」・「アフリカの印象」レーモン・ルーセル著
国書刊行会より「妖艶粋美」松本品子編/「小林かいちの世界」山田俊幸編/「プロジェクト宮殿」イリヤ・エリミア・カバコフ著
東方出版より「アラビアンナイト博物館」
久し振りの大阪で個展(於Six)。オープニングパーティーは知らない若い人でいっぱい。だからか居心地悪し。そんな中で知人を見つけると砂漠の中でオアシスを見つけた感じ。高村薫さんがぼくの大々好物のツブアンのおはぎと鯛焼きを持って来て下さって、寝る前におはぎと鯛焼きひとつづつ、翌朝、この展覧会のキュウレイター飯田高誉夫妻と、コムデギャルソンの芝生さんとわれわれ夫婦で朝食後のデザートにまたひとつ。オープニングの後、みんなでお好み焼、たこ焼、どて焼、などなどいかにも大阪のコテコテ食べ物。大阪中捜して一番うまい店とかに連れていかれる。だけど味は三流。もっとうまい店は他にある。大阪の本当の食い倒れの味を知らない東京人が見つけた店に違いない。
1月14日
1月16日、大阪心斎橋のコムデギャルソン
のギャラリーSixで1966年〜2010年までのピンク・ガールシリーズ24点を発表します。今回の作品は全作個人蔵(最近作1点はアーティスト蔵)で、美術館所蔵作品は不出品です。ギャラリー空間は川久保玲さんのデザインです。(色彩は2人で共作)。同一テーマの反復は忍耐と技術の試行でもあります。
1月13日
「アラビアン・ナイト」の中に”アジブ王の物語”というのがある。この国王は旅の途中で、様々な苦難に遭うが、ある時、夢の中で「どんなことがあっても神の名を呼ぶな」と告げられる。だが、簡単に神の名を口にする。もしそうしなければ「国王の未来は約束された素晴らしい人生を送ることになる」とまで夢のお告げがあったのに、、、、、。Y字路じゃないがこの王はこの通りの人生があったが、約束を守らなかったがために、不幸の道を辿るが、もう一方の道こそ彼の約束された道(運命)だった。運命の分かれ道は誰にもあると思うが、約束されている道に気づく者と気づかない者がいる。この王は気づかなかったために、どんどん不幸の道を選んでしまった。運命に流される人間と運命を切り開いていく人間の二通りの人間が自分の中にいるというわけだ。
本日の贈本
高橋克彦さんより「高橋克彦自選短編集/時代小説編」
NHK出版より「ワープする宇宙」リサ・ランドール著
1月12日
藤巻一也さん
絵の完成図は50%位予想して描き始めますが、そのプロセスで方向転換する場合もあります。また50%が次第に40%、30%、20%と最初の完成予想図から遠のいていくこともあります。着地点はどこでもいいのです。
水口和幸さん
スピーカーに絵を描いたことはありません。時々画廊なんかに贋作が出ることがあります。写真を送っていただければ鑑定できます。
昨日、京都へ行く、瀬戸内寂聴さんと「群像」の<まんだら対談>をする。ぜんざいと好物のイチゴを用意してもらっていた。夜は瀬戸内さんの好物ステーキ店へ。数え89才とは思えない健啖家。マフラー忘れて帰る。
1月10日
大江健三郎さんは文章を書くように話すべきだとおっしゃっていた。伊丹十三さんは話すように文章を書くと。谷崎潤一郎さんは話すように文章を書くと。芥川龍之介さんはその反対。ぼくは小学校6年生の時、担任の先生から幼児語が全く抜けないと言われた。その幼児語はぼくの作品の根底にまだ残っている。
1月8日
選ばれた人として新型インフルエンザの予防注射を打ってくる。条件は65才以上で医師の認めた喘息の人で立派に認められた。嬉しいんだか嬉しくないんだかよくわからないけど、、、、、。
1月7日
昨日は初春花形歌舞伎「伊達の十役」を新橋演舞場に観に行く。海老蔵が主役だけれど、以前猿之助さんのを見ているのでかなり違ってみえた。今回は猿之助さんが演出なので、いたるところに猿之助色がでている。古典を現代がミックスされたような「伊達の十役」になっていた。
○贈本
春秋社より「越境する天使、パウル・クレー」宮下誠著
1月6日
常に寄り添って遊泳していた金魚も水底で身動きしないで固まっている。メダカも藻の茂みの中で肩を寄せ合って冬眠生活に入ったようだ。エサを与えても水面に上がってくる者はいない。たた目は開いたままだ。目に映る光景がうるさくないのだろうかと思ってしまう。意識の活動を止めていると網膜には何も映らないのだろうか。メダカに意識ってあったっけ。感覚だけじゃないのかね。喘息持ちのぼくも金魚やメダカのようにあまり動かない方だが、今年は絵筆を持つ手を動かすことが多くなりそうだ。口を閉じて、目を開こう。耳は四六時中セミが鳴き続けている。
最近物がよくなくなる。動作の確認の不備と記憶の忘却が原因のようだ。
実は「ぶるうらんど」の続編を書いてみようかなとも思っています。また同じテーマの別バージョンも。でも今年は絵の制作に専念です。3月頃に出る小説集の2作目「ポルトリガトの舘」(文藝春秋社)はまたガラッと変わります。
三浦良一さん
N.Y.のタイムズスクエアから新年の挨拶(写真)ありがとうございます。後ろの建物が白く煙っていて寒そうです。「週刊NY生活」で「東京Y字路」取り上げていただきありがとうございました。現物はNYの紀ノ国屋書店で見てください。また原稿を送ります。お元気で。
はこだゆうじさん
いつも送ってくれる絵、なかなか力強くて面白いです。やはりマンガのキャリアが描かせる世界なんでしょうね。
アトリエから富士山を望む |
通りから富士山を望む |
1月5日
森本由美さん
早過ぎる隠居なんてありません。60代でやるべきだったと思っているくらいです。何度もこのブログで言っていますが、相手の要求にではなく、自分の要求に応じての仕事なんです。だからやることが沢山あるのです。隠居はコタツに足を突っ込んで膝に猫、テーブルにミカン、そしてテレビを観るという生活じゃないんです。
月館和江さん
東京から以北での個展はグラフィック時代には何度もありましたが、絵画ではまだ一度もありません。ぼくの場合個展は美術館や画廊の要請に応じて対応していますので、要請がない限り実現することはありません。
1月4日
今年初めて家族以外の人と会った。細野晴臣さんがアトリエに長崎屋の美味しいカステラを持って遊びに来てくれて、中華の弁当を食べながら5時間話した。三日間のホームレス・ライフの後だったからよくしゃべった。
1月3日
正月3ヶ日は公園のベンチと芝生でのホームレス・ライフを満喫しました。一日中芝生の上に寝転がっての青空書斎での読書三昧は明日からの英気になります。
1月2日
よく絵画の「読み方」とか「読み解く」という言い方をした本がありますがこれ、ちょっとおかしいと思いませんか。絵画は読むものではなく見るものでしょう。そんなこと判っとるといわれそうだけれど、見ることを放棄して言葉に頼ろうとするから、こんな言い方をされちゃうんじゃないですかね。見るということはあくまでも感覚です。感覚が先行して初めて認識するものでしょう。なのに見る前から先に認識しちゃおうという人だから無茶ですよ。絵画を分析して言葉で解明して、それで判ったと思うのは絵画に対する侮蔑じゃないですかね。感覚を放棄して、何に頼ろうとするのですか。知性?目じゃなかったんですか。よく見ることが感覚を呼び醒し、そして絵画の匂いを感じればいいのではないのか。この匂いが体の中に溶けて染み込めば判ったことになり、次なる行動に向かうんじゃないでしょうか。
2010年元旦
新年明けましておめでとうございます。
去年の一年振りかえれば、長い一年に感じました。
今年もしたいことだけをする。でないと短い一年だけでなく、短い一生になります。
老令でなきゃ考えられないこと、思えないことが可能の年にしたいものです。
時代の潮流に背を向けて「我れは我れ」、「我が道を行く」しかないです。
元旦恒例のニューイヤー・駅伝を見ないで、晴天の正月を感じたいために先ず外に出る。足は自然に近くの喜多見不動に向かう。初詣。公園に行って見る。どこに人が消えたのか静かだ。時々人影が現れたり消えたりする。ベンチにドラ焼き三個、市田柿三個、ミカン一個、オロナミンC、ペットボトルのレモンティを並べる。佐藤春夫の「永井荷風伝」を開く。微風もなく、頬を刺す無数の陽光。元旦早々ベンチで食する我の姿はホームレスか。そう思われることをどこかで望んでいる孤独を愛する自分。「自然」が自然に思索を招く。自然は瞑想の場であり、アトリエであり、書斎であり、仮眠室である。近くに荷風を感じる。
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