2018年07月12日
芸術は今アートになったよーだ。何がどー違うのだ。芸術は重くアートは軽く感じるから? 軽い分芸術から魂が失われたように思う。人間も死ぬと軽くなるという。それは魂が抜けたからだという。今は魂のないアートの時代らしい。

脳とか心臓は見えるけれど、魂は見えない。見えないものは存在しないという科学の時代にわれわれは生きている。すると芸術は科学と対極にあることになるんじゃないか。

科学がどんどん進化すると科学こそ芸術だと言いかねない。すでにそう言っている者もいる。そーして魂という言葉が死語になる時代がもう、そこに来ている。魂のない肉体はサイボーグである。サイボーグになるのも「マッ、エエカ」。

要するに、絵は無茶苦茶に描こうとするしか、絵は乗り越えられない。用心深く、丁寧に、失敗しないよーに描こうとするから、絵が絵を乗り越えられないのだ。苦労しています。

世間の眼に無頓着になれば、大抵面白い絵が描けるはずだ。絵でなくても面白いことができるはずだ。

アホになるということは反知性と対峙しません。知性はアホを支持します。本当の知性こそアホです。だからアホになるのは秀才ではないのです。ひと握りの天才です。

日本国内の各地でインドカレーを食べることがあるが、そのほとんどの店のオーナーや店員はポカラ出身者だというのが不思議だというか面白い。最初、誰かが日本でカレー店を開いて成功したために、後に続いたのだろう。

ポカラはカトマンズから飛行機でヒマラヤの麓にある小さい村だ。いつも目の前にヒマラヤがドカンと迫ってくるようにそこにある。その裾野にある小さな村から、日本へ出稼ぎに沢山来ているというわけ。

飛行機が滑走路目がけて、垂直に降りる感じ。山に囲まれた小さい盆地の地道が滑走路で、着地すると砂煙が立って辺り、真白。飛行機を見に来ている子供達も砂をかぶって石地蔵みたい。

昔の話である。今は滑走路はアスファルトで舗装されていると思うけれど、当時は、谷間の空き地に降りる感じで怖かった。

風光明媚なポカラから、人口の多い日本に出稼ぎに来ているよーだが、ぼくなんかはポカラに1年くらい住んでのんきにヒマラヤに囲まれた村の絵でも描いていたいと思う。

画家になる前は郵便局員になって、日曜画家として旅行しながら、各地の風景を描くのが夢だった。夢はなかなか実現されないものだ。

会社に入ると競争しなければならないので、郵便配達夫なら、競争しないで一生働けるし、休みに旅行して絵が描ける。日曜画家だから誰かと競うこともないので理想の仕事だと思っていた。

高校の頃、絵は描いていたけれどデザインや絵を職業にしたいとは思ってなかった。切手を蒐集しながら郵便屋になるのが最高だと思っていたのに、人生はどこかで狂うものだ。望みもしないものになるなんて……。

自分が望まなくても運命が望むものに従わざるを得ないというのが人生らしい。

絵は好きだったけど、デザインという職業になると必ずしも「好き」とはいえない。その点、絵は誰にも頼まれないで描いているのでシンドイことはない。誰かに頼まれて生きているわけじゃないからね。

2018年07月10日
夕食後、30分ほど散歩する。以前、足骨折以来、足裏の肉玉が歩く時、圧迫があって気持悪い。病院でもよーわからんと言う。病名さえない。一体何んなのか、その治療は? 経験者いらっしゃいますか?

老齢と共に原因不明、病名不明の「何か」が起こります。まあ新しい体験には違いないけれど、新しい不快感など未知との遭遇があります。

この間、長谷川利行展を観た。身体的な衝動、そのプロセスを見せられている鑑賞者は何かを見失った感じで、目的地に向う途中の駅で降ろされて、その場でボー然と立っている。よりどころのない気持ち悪さが好きだという人にはいいんじゃないかな。

長谷川利行はあんな絵しか描かないのか、描けないのか知らないけれど、それが彼の強味だろうなあ。

そー考えると自分のやっていることは全部弱みばかりに見えてきた。

認知症じゃないけれど、自分が何者かわからなくなることで目覚めた状態で最初に描いた絵こそ本当の自分の絵ではないのか。アホになり切れていない間は頑張れば頑張るほどアホから遠ざかってしまう。

取材を受けながら、何を知りたいのか、何を解りたいのか、それがわかったら、何なのか、その先き、何があって、何をしたいのか、水飲んで小便してそれで終りじゃないの。

2018年07月09日
絵は本当に好きで描いているのか、どーかわかりません。思うように、は最初からないんだけれど、その思うようにが何を思っているのかわからないんです。

絵は好きだから描く、なんてウソじゃないかな。ぼくはあんまり好きになれません。嫌だ嫌だと思いながら描くことも結構多いです。ただ仕事で描いていないのでいつでも止めますけどね。

2018年07月06日
アホになるということはどーいうことかというと、賢くならないということです。頭が鋭く働くとか抜目がないとかエライ人に多いですよね。アホは関西で使う馬鹿のことかな。常識的判断ができないで常識を超えてるってことだろうね。

アートは常識的ではダメでしょう。やはり常識を超えた発想、考え方、生き方がアートを作るんです。世間一般の人にスンナリ理解されるようなアートはもうひとつです。

だからアーティストは通例、慣例、常識がわかっちゃアカンのです。賢い人はなんでも知っていなきゃ賢いといわれないけれど、アホはその点、知らんことは知らんと平気でいえるだけ、自由です。

拙著「アホになるための修行」はアホのすすめの本ではありません。編者が、長い文の中から、ヒョイと抜き出してくれた言葉を集めて、こんなタイトルをつけてくれたのです。この本ができてから、ぼくも毎日この本を読んで、アーソーカと思っています。アホでしょう。

この本を賢い人が読むと全否定するでしょうね。「悪書」と呼ばれる本はそれなりに立派なんですが、この本はタダの悪書です。人と競争するのが好きな人はこの本は害になります。

「アホになる修行」と言ったのは江戸時代の黒住宗忠という神道の教祖です。人間は何のために生きるか、つまりアホになるためでは、という哲学です。

もし書評の仕事(朝日新聞)がなければ、本を読む機会がうんと少ない生活になっていたと思う。もし書評の本を読まなければ極端な話、年に1、2冊、時には1冊も読まない年があったかも知れない。本は好きだけど読書はそれほど好きじゃない。

本を読み出すと同時に本とは別のことを考えてしまうからだ。映画や芝居を観に行っても同じようなことだ。だけどこの別のことを考えるというのは必要だし大変重要なことだと思う。

そー思えば読書はいいことかも知れない。読んでいる本の内容からヒントを得るのではなく、全く関係のない想像がヒントを与えてくれるのである。そー思うと、あんまり面白い本よりは面白くない本の方が役に立つかも知れない。

活字の本より、ぼくは画集などをよく見る。解説はメンドークサイからなるべく読まない。その代り絵は隅々まで凝視する。そして自分の感性と言葉で理解する。

本当に画集は100回でも200回でも見る。何が描いているか、なんてどーでもいい。作者の名前など忘れてもいい。そんなこと知ってわかったように思うのは頭のいい証拠だ。絵は頭ではなく目で見るものでしょう。

2018年07月05日
糸井重里さんの「ほぼ日」(http://www.1101.com/ahoninaru_yokoo/2018-07-05.html)で糸井さんとアホ修行についてアレコレ毎日連載で9日間語り合っています。ぜひアクセスしてみて下さい。

2018年07月03日
えまおゆうさん
誕生日メッセージありがとうございます。本物のおじいちゃんになる前にお会いしましょう。

AERAの創刊号から16号まで送っていただいた金政浩さま、ご住所書いていなかったので、お礼ができないままです。創刊11号の表紙です。1988年です。


7月7日、イーストプレス「アホになる修行」発売。(本体1300円+税)この本は未完。完成させるのは読者です。
http://www.tadanoriyokoo.jp/product/1471


82才の誕生日から1週間が過ぎた。肉体が82才になったのか? それとも精神が? どっちも82才になってないよ。世の中が年を取っただけじゃないの?

皆んなが同んなじように年を取るんなら、皆んなが同じ年に死ななきゃおかしいよ。

セミとかカゲローは、一緒に生まれて一緒に死ぬ。これなら話はわかるけれど。

死ぬ人の年令がバラバラだから、死を恐れるのかも知れない。定年退職みたいに何才になったら肉体退職をするみたいな自然の摂理に従うようになってないから、ワーワー思ったり言ったりするんだろうね。

哲学者は変化しないことを問題にしているよーに思うけれど、芸術家は変化することを問題にしているよーに思うけれど。

絵を変化させようとしなくても日々環境が変るんだからほっとけば勝手に変化する。

だけど芸術家でも全く変化したくない人もいる。変化しないと苦痛だという芸術家もいる。さてドチラニシヨウカナ?



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