2018年04月19日
山田洋次さんのアイデア(発明?)でスマホで話すと、ぼくはイヤホーンだけで会話ができるのでは? と実験したところが、これが補聴器なみに聴こえるんですよね。しかも自分の声が増幅して聞き取りにくいということもなく、ウン10万円がたった2000円でOK。これで成功すれば補聴器は不必要?

2018年04月18日
絵は自分のスタイルで完成すると満足するのは当然だが、ぼくは自分の中の他人が全面的に出て来た時、満足というより、何か恐ろしいものを感じる。それはぼくにとって狂気のようなものかも知れない。

狂気は創造の核みたいなものだけれど、自分であろうとすればするほど、自分から離れて行く。それが創造への入口で、そのドアをこじ開けなきゃ狂気に出合わない。大抵はドアの前から引き下がってしまうのだ。

甘い物の集中攻撃を受けている。涙を飲んで食べません。サービスでほんの一口、怖々口に入れるが、これさえストレスになる。お土産はどうして甘い物にきまっているのだろうか。他の物だったら食べるものでなくても何んでもいただきます。まだペットボトルの水一本いただく方が嬉しい。

N.Y.のコレクターからオファーを受けている。N.Y.のY字路なんだけれど、ブルックリンの橋のワイヤーを描き忘れていたら、夢で指摘された。早速手を入れる。夢が何んでこんなこと知ってるんや。

2018年04月17日
中国の出版社から自伝が翻訳して出ることになった。やはり台湾からもすでに出版され、これは台湾の文学賞(翻訳部門大賞)を受賞している。後者は文春版で前者は筑摩書房版、タイトルは「ぼくなりの遊び方、行き方」だ。

わが家に1匹、事務所に2匹、3匹とも姉妹猫である。帰宅前に事務所に寄ると、すでに来るのを察知して、足音を立てないで、部屋に入るのに、すでにドアの所で待機している。音を感じるのではなく気配というか、気を感じるらしい。帰る時もわかるらしく、その時は後を向いたまま知らんぷりをする。

あゝでもない、こうでもないを執拗に繰り返す。すると次第に単純になっていく。

その繰り返しを努力というのかな?

画家転向以前はグラフィックが商売だった。画家転向と同時にグラフィック感覚を捨てた。グラフィックのキャリアは20年だったけれど、絵画のキャリアはすでに38年になった。そんな絵画に欠如しているものが、グラフィック感覚だということがわかった。絵画を続けるためにはグラフィック感覚が必要だってこともわかった。

たった一回の人生の中でも輪廻転生があるんだ。

年と共に絵の技術はだんだん下手になっていく。下手に描きたかったのが、何の努力もしないで勝手に下手に描ける。最高だと思わない? そういう意味では増々上達しそうだ。

今日は糸井重里さんが、近いうちに出る「アホになる修行」(イーストプレス)というあちこちで語った言葉を集めた本について、何か話して、それが「ほぼ日」で連載されるという仕事でアトリエに来訪。2時間半あれこれ垂れ流しのように話す。

糸井さんと話していると、こちらのバラバラの考えが、いつの間にか整理されて、スジが通ってくるから不思議だ。

アスリートにコーチがいるように、絵にもコーチがついてくれると助かると思うが、その第一候補は糸井重里さんだ。なんでもいいから横でひとりでしゃべってくれる、それだけでいい。

そーいえば一度、世田谷美術館で公開制作をしたことがあったが、その時、糸井さんが来てくれて、描いている横で、ひとり語りだったり、ふたり語りだったりしたことがあったが、この時は絵が勝手にどんどんひとり歩きしてくれて、普段描かないような絵が描けたことがあった。

今日は色んな話をしたが、目的や目標なしでやることの中に、自由と快楽があるよね、という話など。ほぼ日で連載が始まればお知らせします。

俳優の満島真之介さんアトリエに来訪。お姉さんの満島ひかりさんとぼくの個展を美術館に見にいって、作品を見て笑い過ぎて係りの人に追い出されたそーだ。それはよくないが、笑ってくれたのは嬉しい。これからも笑って、また追い出されて下さい。お姉さんによろしく。

以前、やはり美術館のぼくの個展を観に来て、「この絵は、けしからん」と言って学芸員に文句を言った人がいたけれど、この学芸員はよく追い出されなくてよかった、よかった。

ある時、ある美術館の個展で若い女性がある作品を穴の開くほど眺めていたら、その絵が突然口をきいて「いつまで見ている、早く帰って自分の絵を描け!」と言われて、こんな経験、生まれて初めてと瀬戸内さんの所に行ったら、瀬戸内さんが絵具を買ってくれたそうだ。

また別の美術館での個展。ある作品の前に立った途端、腰が抜けて動けなくなって、とうとう救急車で病院に連れていかれたという。

亡くなった天野祐吉さんの所の社員の女性が、やはりぼくの作品を見ている最中、片手がピンと真すぐに上がったまま、美術館を出るまで、手を上げたまま元に戻らなくなったと、天野さんが真剣に話してくれたけれど、わしゃ知らん。

これもある美術館で個展を開いた時の出来事。バイトの監視員が、突然、幽体離脱して会場から天井を破って上空まで上昇して、美術館の上空から街を眺めて、しばらくして、元の場所の椅子に戻って来たと、ぼくに直接話してくれた。

こんな個展にまつわる不思議な話はまだあるけれど次の機会に!

2018年04月13日
2、3日前のツイッターで保坂和志さんの小説に妹さんの誕生日が6月27日というのはぼくと同じ誕生日というのは事実で、しかも、しかもですよ、僕と同じネズミ年なんです。当然年令は違うんですが、一年の運勢や性格なんかも、どこかで似ているのかも知れません。

2018年04月12日
今日のツイッターは終(つい)った。

2018年04月11日
ヘルマン・ヘッセがインドで「これぞ老人!」という見事な老人に会って感動したことがあったらしい。そんな老人なら、1日も早い方がいい。結局は外面だけではなく、内面を伴った外面でなきゃ見事な老人にはなれないだろう。

老人のヘッセは実に格好いい。野良仕事でもスーツにソフト帽でスイスの山中に住んでいる。年を取るに従って若くなり、わがままで生きている。真のわがままを通せば年は取らないってことだろうね。

自我を超えた先きにあるわがままこそ、個人が個になり、普遍性を獲得できるそんな境地は憧れの対象だ。ヘッセの表情からそんな心情が読み取れる。

今日は雲っている。風景全体が灰色に見える。実際どの色にも小サジ一杯ぐらいの灰色が混ざっているように思う。いや大サジ一杯かな?

風が出てきたのか、樹の枝が揺れている。動くものがあるというのは生命を感じる。樹に囲まれているアトリエの外はとにかく動きまくっている。自然のモビールってとこかな。都心は人や車が動いているが、これもモビール? 意志を持って動いているからモビールじゃないよね。

とにかく毎日物が増える。断捨離なんてできない。物があっても意識の中で断捨離ができればいいが、これって悟りの境地になることでしょう。ムリ、無理。

ここ数年、引っ込み思案的になっているので、少し動かなきゃという気分になっている。人のいる所や集まる所は難聴なので人の声が聞こえないってわけ。補聴器は脳が声や音を選別してくれないので、環境音が全部入ってくる。1回やってごらん。シュールですよ。

ぼくはもともと耳鳴りが激しいんだけれど、その耳鳴りまで黙らせるほどの難聴で、聴こえないことより、自分の声の方がストレスになる。これって、人に絶対伝えられない主観だ。この感覚は絵にならないかなあ。

自分の中に、自分が知っている自分じゃない、他人の自分がいるんですよね。これ、どーやって人に説明できる? 難聴って、人を哲学者にしますよ。

美術の世界でしばしば戦略という言葉がよく使われる。戦略って意味は敵に勝つための方法とか計画のことでしょう。美術の敵って誰のこと? 一体誰と戦うというのだろう。他の美術や作家に勝つこと?

アーティストの敵は外部にいるんですか? だとすればぼくは間違っているのかなあ? アーティストの敵は自分の中に存在しているのではないのかねえ。その内なる敵にどんな戦略で戦うってわけだろう。戦略のないところに芸術がある、と思うんですよね、ぼくは。

2018年04月10日
昨日はよく仕事をした。今日は無為。気分に従うとこうなる。真面目な人は気分に従わない方が安全ですよ。

あゝしよう、こうしようと思っても思い通りにならない。その結果こそ芸術である。

芸術を目標にしたら、ストレスとノイローゼになりまっせ。

今日はある小説家とある新聞のある編集者とあることをする打合せをある場所ではない、この場所(アトリエ)でする。どんな仕事でもほとんど内緒で進められる。それが発表と同時に大宣伝に変るんだから、おかしいもんだ。

今、日経新聞夕刊で山田詠美さんの「つみびと」という小説の挿絵を連載している。こんなに絵にならない小説は見たことがない。その見たことのない小説を、見てきたような顔をして描いている。一体この小説の結末はどーなるんでしょう。

河野多恵子が「山田詠美は凄い」と凄く買っていただけに凄く凄い!!

難聴だというのにトークや対談の仕事の依頼が多いけれど、本当に難しいのよね。相手の声だけでなく自分の声も聞き取れないって、こんなこと解ります? しゃべっていて自信がないわけ。半分は想像で理解する。本当にシュルレアリストになったみたい。

とにかく、人に会うのが困るんですよね。何言ってんのかさっぱりだからね。ハァハァ、エェエェ、フンフンと生返事をするだけ。そんなことおかまいなく人はベラベラしゃべるんですよね。きっと生返事をするので通じていると思われているのかな。

作品を見てくれという人がいるけれど、ぼくは見ない。人の評価に依存するようになると、自信を失うからだ。自分の作品は自分で評価すればいい。だって、これがいいと思ってやったんでしょう?

2018年04月09日
巨大な自画像(3メートル弱)を描いた。自画像というよりは自我像だ。逆にここまで大きいと自画(自我)も無我になる。

仏陀はなぜ巨大なのだろう。巨大なものには霊性が宿るからだ。でも巨大な自画像には霊性どころか礼性が失さ過ぎる。

この巨大自画像には叙情が欠如している。だから背景に首つり縄を描いた。これは叙情の表現だ。

最近はある所から、ある仕事を頼まれることが続いている。けれどまだOFFにしてもらいたいといわれているので、それまではあることをないことにしなければならない。

いっちゃいけないといわれるといいたくなるものだ。瀬戸内さんはよく賞を貰う人だけれど、「いっちゃいけないと口止めされているのよ」とすぐぼくにはバラしてくれる。よほどぼくは口がカタイ人として信用されているらしい。

「じゃいわなきゃいいじゃないですか」と言うと言わないと「息がつまりそーになるのよ」だそーだ。秘密をかかえ込むとストレスになるのでバラした方が健康のためにはいいでしょうね。

ツイッターというのは秘密をバラす場かも知れない。パンドラの函なんだ。健康のためにはツイッターか!

とにかく、次から次へとスキャンダルがあるものだ。もしスキャンダルのない世の中になると、逆にストレスになるかも。そのためにはスキャンダルはストレスを解消して社会を汚染と同時に浄化もしてくれているのかも知れない。するとスキャンダルは生活必需品ってこと? よーわかりまへん。

1年前にオファーを受けたN.Y.の仕事、2日間で完成。2日のためには、やっぱり1年という時間が必要なのである。依頼されて2日後に描くのとは、何が違うのだろう?

濃縮ジュースを知らずに飲んでしまったので、胃の中で薄めるために10杯の水を飲む。胃の中で中和してくれたかな?

150号の大きい絵を描いたら、小さい絵はすぐ描けちゃう。大きい絵を描く自分と小さい絵を描く自分は別人のようだ。だからか絵も別人の絵になる。「別人150号」だ。

「群像」の保坂和志さんの小説を読んでいたら、妹という子が出てきて、ぼくと同じ6月27日生まれだ。それがどーした、ということになるけれど、もしぼくがこの小説を読むかも知れないと思って、誕生日が記述されているとしたら、ぼくへのメッセージかな? と思う自分は自意識の強い人間だね。

というのも、この前も「すばる」の保坂さんの小説にぼくが出てきたことがあったから、また、そー思っただけのことだ。

今月の「群像」に磯崎憲一郎さんとロング対談している。話がどこへ行くかわからない対談はお互いの作品そっくりだ。もっと訳わからないのは、保坂さん、磯崎さんと自分の3人での「文藝」の鼎談だ。

真面目になればなるほど不真面目になり、不真面目になればなるほど真面目になる。真面目なモチーフを不真面目に、不真面目な絵を真面目に描くのはぼくの専売特許。

絵を描くことは、あゝでもない、こうでもないと、思案を積み上げたり、積み上げたものをばらしたりしながら、神の出現を待つようなところがある。

賽の河原の童子であると同時に積み上げた石の塔を壊す鬼の二役でもある。

絵を描くことは操縦技術を知らないパイロットが必死になって墜落する機を立て直そうとあがき苦しんでいる姿を体感させられているように思われる。

といって何事も無事に事が運んだら、逆に不満でもある。

自力だけでも無理。他力だけでも不安。この両方が上手く噛み合って初めて、第3の力を得ることができる。あゝでもない、こうでもない、というのはそーいうことに出合うプロセスであろうか。

知識という自力内で絵を描いている時は他力は協力してくれない。知識を捨てた瞬間に他力がそれに代ってやってくる。

脳の支配にある時は、小さいことしかできないが、肉体を脳化した瞬間に、何か、つまり創造の神がやってくる。

絵を描くことで我執を強化することも、我執を弱化することも可能だ。真の創造は自分を捨てるところから始まる。

自分が失くなれば、生きながら死ぬことで、この世には何の問題もなくなるに違いない。

2018年04月05日
作品のスタイルを変えようなんて一度も考えたことがない。描くモチーフによって、勝手に表現が変るだけだ。また環境を変えるだけで、作品も変る。自分が主導権を持たなくても、モチーフや環境が勝手にやってくれる。常に受動的でいればね。

何もかも脳まかせはよくない。肉体を脳化させればいい。

生老病死と仏陀がいったけれど、ヘェー? あらまあ、そう? とノーテンキでいた方が楽だ。

若い頃からテーマなど、どーでもいいと思っていた。美術界やメディアはテーマや戦略が好きなんだ。世間に合わせると評価を得るけれど、その反動で自由のキャパは狭まる。

10年ほど前は、まだ如何に生きるかなんて考えていたが、実にアホ臭いことを考えていたもんだ。

ついこの間まで、肉体年令、精神年令を考えていたが、そんなものはあるよーに見えて、実はないことがわかった。でも考えている人にはあるんだよね。

マ、ええか! の生き方が一番、マ、ええかだと思う。

シャーナイやんけ、の生き方をするしかシャーナイやんけだ。

絵を描きながら、絵なんか描いていないだ、手を動かしているだけだ。これでいい。ところが絵を描いているという意志が芸術主義を作るんだよね。

芸術らしいことをやるふりしながら芸術をやらないのがいい。

2018年04月04日
昨日はカルティエから依頼されているアーティストのポートレート3点仕上げる。1日に3点は40代のペース。まだいけそーな気がする。150号も思ったより大義じゃなかった。自分が絵を育むのではなく、絵が自分を育むのだ。それが解った1日だった。

今日は自分の年令の半分の若いミュージシャンが来て、エネルギーを充電してくれた。ヴィジュアル系ロック「LMC」のmayaとAijiの2人とのコラボに期待を!


若い世代のアーティストが、後期高齢者を必要としてくれるなんて尊敬しちゃうよなあ

ヴィジュアル系は音楽を絵画化させることで自らの音楽を破壊させる。美は破壊からしか生まれないことを本能が直覚しているのだろう。

破壊の集積が美を創造させる。美を創造する、なんて余計なことだ。

もし、朝日新聞の書評を頼まれていなかったら、一年間で2〜3冊しか本を読まなかったかも知れないと思う。今はお仕事(書評)で最低2冊は読むけどね。

このところお仕事以外で読む2人の本がある。1人は日野原重明先生、もう1人は鈴木大拙さん。この2人の本は毎晩寝る前に、それぞれの10冊位の本を繰り返し読む。サプリメントみたいなものだ。

さすが大きい絵は画面の隅まで気持がいかない。というか、この段階で絵が出来ているように思うのだ。これ以上描くとツーマッチって感じだ。気力がそうさせるのか体力なのか、その辺はわからないが、もしかしたら年令かも知れない。若い頃は隅々まで描かないと気がすまなかったが、今はそーすると、気がすまないのだ。

絵っていうのは気持や体力ではなくそれぞれの年令が描かせるのかも知れない。

気持は体力に対してウソをつく。できもしないのにできると思う。やっぱり年令が結果を出すのかも知れない。

ぼくは完成させることが不得意らしい。子供の頃から、中途半端でいるのが好きだった。なぜだろう。

食事でも全部ケロッと食べることはまずなかった。猫のように必ず残していた。最近は腹8分か7分だから、この習癖が結構いかされている。

本を読む時だって全部読まない。途中から勝手に想像して、「ワカッタ」と思う。

絵に関しては大方が未完だけれど鑑賞者は、これで「出来ている」と思われているのかも知れない。もし、そーだったら省エネ・アートで努力も半分ですむ。

だいたい努力が嫌いなんだ。だけど人は「努力している」と思うらしい。そーいう人にはそー思ってもらえばいい。努力は自我と比例して、自我によって悩み、苦しむことになる。

それほど大成を望まなければ、気が向いたことだけをやるのもいい。大成を望む人は気の向かないことまでやることになる。どっちも人生だ。

受け身でいるのがいい、と昔から思っていた。禅は受動的である。だからか、禅には興味がある。でも禅寺の雲水たちは、能動的に見える。なぜかな? ストイックだからかな?

2018年04月02日
エート、しばらくツイートしていなかったような気がするけれど、どーなのかな? よくわからないね。最近は30分歩くことにしている。距離にするとわからないけれど、かなり歩いているんじゃないかな。そのせいか腰が痛い。歩かないでも痛い。同じ痛いなら歩いた方がまええか。

本当はどっちだっていいんだけれど、身体のことを考えれば、ね。

久し振りに150号の絵を描いている。箱根・彫刻の森美術館の個展以来だから2年振りかな? 150号に巨大の自画像を描いている。仏陀のように大きい顔を。こーいう行為は反芸術か、それとも非芸術か、どっちだっていい。

神戸での自画像展のためだけれど、大き過ぎてオープニングには間に合いそうにない。未完のまま出品することになりそう。

現代美術っていうのは評価を対象にするから、戦略的な作品制作になる。芸術ってのは戦略じゃない。描きたいから描く。アートは戦略なんだなあ。戦略という目的のためには芸術はやらんのじゃないかな?

描くこと自体を目的とする者がどんどん減って、目的のために描く画家ばかりが増えているように思う。

絵を描こうと思うと眠くなります。すでにゾーンに入っているからでしょう。頭から言葉と概念を放出して思考が停止状態になるから眠いのです。また、この状態にならないと描けないんです。睡描画です。

昔、参禅していた時代が今、再び蘇ってきました。鈴木大拙の禅や仏教の本がとにかく面白くて、参禅していた頃に戻ってしまいます。やっぱり座禅体験があるので大拙が面白いんだと思います。

一般的に大拙は難しいと思います。それは知性と感性で理解しようとしているからです。知性や感性や五感の外へ出ないと難しいのです。

老齢になると眠いのは死の練習です。でも死んだら眠ることはないけれど、地上にいた時の習慣で眠る人はいるようです。



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