2017年10月16日
今日、雑誌の対談をアトリエで行った。編集部から音声が拡大する装置を持ってきてもらったが、聞くことに集中しようとする努力に疲れ、また自分の発声音が機械的に変質してしまうために自分の話が時には理解できない。困ったものだ。

聞く次元と話す次元が同一次元で行われるのではなく、両者の間に段差のようなものがあって、水の中の人間と外の人間が会話しているような感覚だ。それがひとりの人間の中で起っているのである。

2017年10月12日
河口湖の近くの宿舎にいるが寒い。暖房の工事が遅れているとか。ピンポンで暖を取るとか。絵で気持は燃えるが、身体は冷える。そのせいか睡魔に襲われる。凍死しないようにがんばってピンポンをする。

夕方には糸井重里さん一行が到着した。糸井さんが来ると少しは暖まるような気がする。

絵を描き始めると腱鞘炎で手が痛い。絵は正直で痛いなりの絵になるものだ。痛い絵とは手抜きの絵のこと。

2017年10月11日
アトリエでの履物を健康サンダルから藁草履に変えた。体内を流れる電流が足の裏からアースに抜けるためだ。ゴム製品はアースに抜けないで、そのまま戻ってくる。その戻ってくる電流と下へ流れる電流がぶつかると、体内が汚染して病気を発生すると直感したので藁草履に変えた。ぼくの勝手な科学知です。

明日、河口湖へ。年に一度の合宿です。仕事する人、卓球する人、テニスする人、カラオケする人、落語する人、絵を描く人、人それぞれの仕方でアホになる修行です。

2017年10月10日
ぼくの家の中のテリトリーとおでん(猫)のテリトリーは同じなので、いつも場所の取り合いでケンカが耐えない。結局はおでんに負けてしまう。

ただおでんに感謝するのはお腹が痛い時などは、お腹の上に乗って、ベターっと吸いつくように横たわってくれる。彼女の生体エネルギーで不思議と治るのだ。

前にも書いたと思うけれど、ぼくはベッドの中に枕が6個入っている。7つ目の枕は小さくて、赤くてポニョ、ポニョしたマシュマロのような感覚だ。「崖の上のポニョ」の魚のポニョに似ているので、この枕をポニョと呼んでいる。

そーすると大きい枕の大群はフジモトの魔法で魚に化した大波ということになる。寝ているぼくはさしずめ、宗介ということになる。宗介がいつもポニョと一緒で、離さない。

画家に転向した45才まで、あまり本を読んでこなかった。でも年に7~8冊は読んでいた。でも画家になってからは美術書を読むようになった。美術書というか画集である。画集は読むというより見ることだ。見ながらあれこれ考えるのが楽しい。

本当は質問の答えは全部身体の中にあると思う。身体の中に図書館がある。必要な時、その答えが直感を通してやってくる。

世の中だって本だらけだ。色んな人に会ったり、見たり、旅したり、そーしたものはひとつの読書行為だと思う。人の言葉ではなく自分の身体を通して生まれる言葉だ。

絵を描こうとしてもなかなか腰が上がらない。ほんの3メートルも動けばキャンバスの前に行けるというのに。ぼくはいつもグズグズして、強迫観念が襲ってくるまで、ビクとも動かない。ところが、ある時、覚悟を決めてキャンバスの前に座って筆に絵具をつける。すると信じられないほど絵に没頭できる。どうして、こんな単純なことに気が重いのだろう。

どこかで不安があるのかも知れない。思い通りの絵がかけないんじゃないかという。ところで、思い通りって一体何んだろう。そんなものが最初からあるはずがない。やってみて初めて思い通りになるんじゃないのか。

年令のせいか思っていることがすぐ行動に移せない。というか、行動がしたくないのかも知れない。絵ができるまでの作業を考えると面倒臭くなるのだ。想念がそのままパッと絵にならないものかなあ。思念がすぐ物質化するのは死んでからの体験でしかないのかなあ。

生きている状態で死を体験できる方法がないものだろうか。もしあるとすればこの地球自体が四次元するしかないんだろうなあ。

2017年10月04日
画家は晩年になると画面から不必要な要素が廃除されて、えらいシンプルになる。そこからが面白い。これは老齢にならなきゃできない。だけど一般的な評価はやはり全盛期の芸術至上主義的な、いわゆる力作を好む。だけどここには晩年の作品のような自由さはない。画家が自由になって、無手勝流になる――そこを評価するべきだ。

むしろガンジガラメになった状態で苦悩しながら出来た絵を評価する風潮があるが、本当は、創造からも自由になった作品にこそ高い評価を与えるべきだと思う。最終的に人間は原郷に還るべきである。

読書することは一種の病気だと思う。読書しなければならないという教えも義務もそんなものはないのに、人はなぜか読書に対して一種の強迫観念を持っている。読むだけで安心する。ぼくにもそんなところがあるけれど、この時間を何もしない時間に当てた方が、はるかに有効だと思うことがある。何もしない、無為こそ有為である。

1970年だから47年間ズーッと日記を書き続けている。なんのためかは考えたことがないので、よくわからん。まあ一日の締めを短い言葉で残したいのだろう。だけど読み返すというようなことは全くない。

このツイッターの文は日記ではない。これはツイートである。日記はできれば事実だけを書いて、あれやこれやと心情を述べるできではないと夏目漱石は言うが、その漱石さんの日記はツベコベと心情を吐露したはる。

ピカソは作品がすでに日記であるという。そーいえば作品に日付を書き込んでいることがある。ピカソが作品が日記だといってもウソをついているとは思わない。だって1年365日以上の数の作品を1年間に描いている人なんだから。

ぼくの日記も事実に近く、このツイッターみたいに、あれこれ、ツベコベしゃべっていない。時にはスケジュール表と変らないような日記もある。

僕は昔から日常と夢の区別をしないタイプの人間だから、毎日の日記の中に夢も書き込んでいる。いちいち夢だと断わらなきゃ区別ができない日もある。

日常が夢より変っていたりすることがあるので、江戸川乱歩のように日常を夢と言ってもいい。創造というのは昼と夜を混ぜこぜにしたものだから、それでいいのである。

夢の面白いところはお金を使わないで、色んなところに行けることだ。また、時には死んだ知り合いに会うこともある。シュールレアリストが夢を重視したことがよくわかる。

では人間は死んだら夢を見るのだろうか。まあ、それはないと思うよ。だって死そのものが夢の世界なんだから。

現実は異界とつながりにくいけれど夢では簡単につながる。というか夢それ自体が異界なんだか

耳が聞こえないので相手の人は同じことを何度も繰り返す。気の毒だと思うけれどこっちはもっと気の毒なんだ。

いつも聞き違いが多い。よくにたイントネーションの言葉に間違えることが多い。これを記録するとかなり面白い言葉の対比ができる。

なぜか小便のことをオシッコとかショヨーと呼ぶのだろう。大便だってなんでウンコとかクソと呼ぶのだろう。こんなつまんないことをいつも絵を描きながら思っている。絵を描く時は妙な観念を廃除しなければならないからだ。

昨夜テレビの「開運なんでも鑑定団」で内田裕也さんが彼のために描いた40年以上前のポスターを持って登場。まあオフセットだから高くても20~30万円かなと思っていたら、「ロックンロールで69万円」と言った。アチャ、高いよと思ったら50万円だった。こーいう時は低めで、5万円ぐらいと言ってくれて50万円になる方がいいよな。

2017年10月03日
老齢になると新聞がめくりにくくなる。指先きをツバで濡らすそんな動作を見たことがあるでしょう。なぜだと思います? それは指の指紋が次第につぶれてしまって凸凹がなくなって、ツルツルになるからです。

ぼくなんか、ほとんど指紋は消えてしまっている。ルーペで拡大しても指紋がない。指紋が消えるのに身体のシワは増える一方です。人間もメタモルフォーゼするんだ。

今夜(10/3)「開運なんでも鑑定団」(テレビ東京)に内田裕也さんが、ぼくの描いた「ニューイヤーズワールドロックフェスティバル」のポスターを紹介します。

2017年10月02日
糸井重里さんのほぼ日に糸井さんとの雑談対談がこの間からズーッと連載しています。いつこんな話をしたのかと思うような話ばかりで、あまり記憶がない話ばかりだ。記憶のないような話がこんな風に活字になってお仕事になってしまうと、これはこれでいいのかなと思う。ほぼ日にアクセスしてみて下さい。

雑談といえば「文藝」というコチコチの文学専門の雑誌でも保坂和志さんと磯崎憲一郎さんと雑談をしています。大昔、一柳慧さんと雑談対談をした時、小松左京さんが「21世紀の文学だ」と言われた。アレ、このこと前にもツイートしたかな。老齢になると同じことを何度もしゃべるんですよね。

そーいえばぼくの絵は雑談アートみたいなものだ。特に言いたいことも主張したいこともない。人のため、世のために描いているわけでもない。まして思想などない。そんなものを持てば自由に生きていけない。持ってなくても自由に生きるのは難しいというのに。

絵を描くのはシンドイ。なぜシンドイかというと、自分の絵を描こうとするからだ。自分の絵など最初からないのに。じゃ他人になり切って他人の絵を描けばいい。ぼくの絵の出発は他人の絵を模倣することだった。だからシンドクなかった。

自分を絵の中で自分を演じようとすると、それはシンドイ。俳優が自分を演じようとするようなものだ。これはシンドイでっせ。

空前の猫ブームらしい。そんなわけでわが家のおでん、そして死んだタマまで雑誌で紹介される。事務所にパソコとツートンの2匹がいるが、どの猫も取材嫌いで絶対写真を撮らせない。猫はぼくにとって生活(人生)必需品である。

猫のマイペース振りが、こちらをイラつかせる。それがたまらないのだ。

こちらの思い通りにならないので、つい猫のペースにはまってしまう。猫はそうしてまんまと飼主を下僕にしてしまう。

ぼくは口ぐせのように言うが猫はアーティストの見本だ。猫を見習えば立派なアーティストになれる。

先ず他人にも自分にも妥協しない。自己の思いに忠実である。もっといえば内なる声と魂に従う。

どんな状況に置かれても遊びを忘れない。

目的、結果を無視し、大義名分に従わない。そして自然体で、衝動と本能に従い、常に自由であろうとする。

常に自己中心的で、相手の身になって考えたりしない。

家の近所に10年ほど前に広大な庭つきの豪邸が建った。外国人の表札があるけれど、人が住んでいる気配があまりない。車があったり、夜には小さい室の灯がつくけれど、いつもシーンとしている。その家が今日見たら取り壊されようとしていた。何のために建てて何のために壊すのだろう。

成城の街はいつも何軒か家が建築中で何軒も壊されようとしている。創造と破壊が毎日繰り返され続けている。何が起こっているのだろうか。

それと、建てたものの人が住まない家が何軒もある。事務所の隣にはヨーロッパスタイルの、かなり変った趣味的な家が建って1年も経つが、誰も住んでいない。わけわからん。

新築のまま放置されている家が相当数あるけれど、アトリエに貸してくれないかなあ。

ぼくはアトリエを沢山持ちたい。アトリエごとに違った絵を描いていきたい。小旅行の時もキャンバスを持って行って旅先で描く習慣がある。アトリエが10個あれば10種類のスタイルの絵が描けるからだ。100個あれば100個のスタイルの絵ができる。



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