2017年08月18日
加齢と共に体力が落ちるが、落ちるにまかせると、どんどん落ちる。だから負荷をかける。体力に限らず気持にも負荷をかけた方がいい。こんなツイートはフォロワーの方達にはほとんど関係ないんじゃないかな。

フォロワーの年令の内訳はぼくにはさっぱりわからない。いつも言っているように自分に対する戯言だから、そのつもりでね。

そーいえば、ぼくの絵だって戯言だ。人生だって似たようなものさ。

わが家のおでん(猫)はこの間から雨つづきのため、ぼくのベッドで2回も放尿。猫のオシッコは臭い。いくら言い聞かせても、通じない。どうもおでんまでが難聴になったらしい。

難聴は社会的障害者だ。テレビも映画も芝居もコンサートも実生活から離れてしまう。ところで難聴者の特技ってなんだろう。

雨続きで庭のメダカの水が増水して喜んでいたが、逆におでんの被害に遭ってしまった。今朝は薄陽が差しているので外がトイレのおでんのことを考えると、ヤレヤレかな?

天気がメダカや猫とも無関係でない日常生活って、まあ生きるって大変ですなあ。

昨日は渋谷で三段構えのうな重を食べて、胃がグロッキー。

日野原重明先生が亡くなられてから、先生の本ばかり読んでいる。先生の歳まで、あと24~5年もある。そう思うとまだ、自分は小僧っ子だ。

2017年08月17日
昨夜の中日対DeNAの逆転劇は面白かった。2対2で9回表、押さえの山崎が自らノーアウト満塁にしてしまったが、見事に押さえた。その9回裏、ランナーを一塁に置いて倉本が二塁打、勝負を決めた。DeNAファンは興奮して眠れなかったのでは。

味方が点を得った次のイニングで投手は必ずといっていいほど打たれて得点される、このパターンが実に多い。点を貰って安心した結果、気がゆるむのだろう。こーいう時、監督の一言が有効だと思うけれど、監督はちゃんとサゼッションしているのだろうか。

昨日のイチローはアウトコースの低い球を、塁に走るように打った。如何にもイチローらしいヒットだった。最近のイチローは代打起用が中心だけれど、少ないチャンスの中で、くさらないで何をすべきかに挑戦している。

フェリーニは政治とスポーツには全く関心がない。芸術家は政治に興味を持つと作品の巾を縮めてしまう。スポーツは熱狂する。作品に熱狂しなければならないことを忘れてしまう。

フェリーニは自分についてほとんど映画の中で語ってきた。果たして自分(ぼく)は?

一度フェリーニに会うチャンスがあった。ローマのある大学で美術の審査員に呼ばれたことがあった。その時の審査員のひとりにフェリーニもいた。恐れをなして断わってしまった。アメリカの友人のポール・デイビスも呼ばれていたけれど、彼は行ったのかな?

2017年08月16日
東京ステーションギャラリーの「不染鉄」展を観に行く。初めて聞く日本画の画家だ。大正と昭和を経て戦後は画壇から離れて奈良に住む。この間多様な様式を取り入れ、風景を主題にするが、芸術至上主義の画家ではない。幻想と現実とユーモア。過去、現在がひとつになった物語世界。

眼鏡の度が進行したので新しく作りかえる。肉体の一部の部品を取り代えるようなものだ。

老眼と乱視は眼鏡で解消するけれど飛蚊症は医学でも治らないというが、今日視力検査のあと、急に飛蚊症が少し改善したような気がする。

飛蚊症って知ってますか? 視界全域に小さいすすのような黒い斑点がまるで蚊が飛ぶように乱舞する症状です。特に白い紙、白い壁、白い空を見た時にその症状が発生する。

2017年08月15日
軽井沢の友人からのメールでは新幹線の中はスーツケースで買物の中国人グループが床にベタ座りとか……。軽井沢に行こうと思ったけれど9月以後に変更。

久し振りにラジオに出たけれど、慣れてないので、流れに乗りにくく、そろそろいけるかな、と思ったら、もうおわりだった。まあ、それでよかったのかも。

ラジオJ-WAVEのGOOD NEIGHBORSからたった今、帰ってきました。

青森の十和田市現代美術館の館長の小池一子さんから、間もなく2万人に迫るというメールが入りました。十和田に集結して下さい。

ラジオは素の声が聞きとりにくく、ヘッドホーンから聞こえる声を聞きながら、でも自分の声は何倍も変質されて、自分の声にもかかわらず、これが実に聞きとりにくかったです。



公演のベンチで樹木の間から空を眺めていると、妄想がたくましくなる。理屈とは全く反対の行為だ。頭のいい人って意外と妄想が不得意だと思うよ。

梅雨みたいな雨が降る。身体が気候になかなか上手く対応してくれない。以前、ハワイの空港を出た途端喘息が治って驚いたことがある。ハワイにいると日本のような変化の激しい気候に気づかないけれど、実際は身体は気候にかなり左右されているはずだ。

転地療養で治る病気は沢山あると思う。ぼくでいえば喘息と骨折痛みだ。他に神経痛でもある。難聴はどうなんだろう。老化はどうなんだろう。南方の人は太陽オゾンのだめに老化の進行が早いと聞いたことがある。

聖書時代の人は200〜300才なんてざらだったという。天空一面に雲が覆っていたから、皮膚が直接太陽光を受けないからだと。そう考えると南方の人は寿命が短いということになるのかなあ。以前バンアレン帯がボコボコに穴が空いていると聞いた。温暖化と長寿社会の関係は?

ぼくは妄想するのが好きだ。妄想が空想になり、想像になり、直観になる。

公演のベンチで樹木の間から空を眺めていると、妄想がたくましくなる。理屈とは全く反対の行為だ。頭のいい人って意外と妄想が不得意だと思うよ。

子供って妄想が得意でしょう。そーいえば、ぼくはひとりっ子だったからいつも川の流れを見ながら妄想ばかりしていた。だから読書がニガ手になってしまったのかも知れない。

絵っていうのは妄想の産物だと思うよ。考えて、考えてではなく想って、想っての結果は文字ではなく、ぼくの場合はビジョンになったってわけさ。

考えは言葉にし易いけれど想いは恋愛みたいなものだから言葉にすると歯が浮いちゃうでしょう。

不眠症ってちょっとしたことでなる。大抵ストレスだ。ストレスレスの人はいないけれど仕事などでストレスパワーみたいなエネルギーに変ることがあるように思う。「エイ、めんどうだ、やっちまえ!」みたいにストレスを利用して、仕事をかたづけちゃうみたいなことはあるよね。

スコーンと行く絵もあるかと思うとドンコ列車みたいにノロノロした絵もある。どっちがいいともいえないが、各停のような絵が、長い時間かけて、気がついたら描けてたということがある。知らない間に出来てたのである。「やった!」という意識がない。こんな絵が時々描けるといい。

無意識といっても、シュルレアリスムのような様式化したものではない。ゆっくり呼吸をするように出来た絵である。

15時20分頃から、J-WAVEというラジオ番組に出る。ラジオってほとんど出たことがない。難聴になってからしゃべるのが億劫になっているので、どうなのかなあ。

2017年08月14日
このところわが家のおでん(猫)はわが家との縁を切ろうとしているのか、1日のうち18時間も外出で不在。他に秘密の花園があるらしい。

事務所のツートンとパソコは家から一歩も出ない。ここが安住の地と決めている。

おでん、ツートン、パソコの母猫「おかあさん」は野良にもどって事務所周辺をパトロールしている。

美術以外のものでぼくが一番影響を受けるのは何んだろう。映画かな、仏教かな、郷里かな、イタリアとニューヨークかな、音楽かな、能かな、猫かな、まあ色々あるさ。やっぱりダンテの「神曲」だろうなあ。

映画は総合芸術だというが、絵画だって同じだ。画家はひとりで、脚本家、演出家、俳優、カメラ、美術、衣裳、時には音楽家になる時もあるさ。だからぼくは絵画を見離さないのだ。

「崖の上のポニョ」を観た。落ちつかない画面の連続で、そのスピード感が整理できない頭をとんでもない彼方に持っていかれてしまった。

最近は不眠という問題を考えなくなるほど、よく眠っている。入院時には全く眠れなかった。「スタンフォード最高の睡眠」という本を買った。これで安心と思ったのか、買った日から読みもしないのによく眠れるようになった。

自分とかけ離れた極を探り当てながら、それを作品にしようとしているような気がする。

そう、いつも「気がする」のだ。断定はできないんですよね。

デュシャンが絵画を止めたことと、終生絵画しかやらなかったピカビア。この両極は強力な友情で結ばれていた。

観客が時々、ぼくが予期していなかったものを作品の中に発見したり、考えもしなかった考えをぼくに語ることがある。一体作品はどちらの人間が作るのかと思うことがある。

自分の全身が見えないけれど、人はぼくの知らない身体の隅々まで見ている。それと同じように見る人の方がぼくの作品の隅々まで見て、語れるのだ。

作家は自分のやっていることがわからないはずだ。わかったようなことを言っていても本当はわかってないはずだ。

だとすれば作家の言葉なんて信用できないはずだ。だってわかってないんだから。わかったつもりでしゃべっているに過ぎない。

ぼくのツイートだって怪しいものだ。明日からきっとフォロワーの数がぐーんと下るにきまっている。

フェリーニは、自分はウソをつくと言う。でも誠実だとも言う。ウソでいい。彼の映画が面白いのはウソっぱちだから。

3.11以来、特に言葉の重要性が語られている。老子は言葉のない教え「無為の有益さに匹敵しうるものは天下にない」と言葉以上に重要な無為について語る。

そーいう意味では芸術は無為の行為である。ぼくの絵画を描く行為は言葉を手放すことである。だから考えではなく思い通りに描くしかない。

老子は空気を読む人間はつまらない人間だという。空気を読むつまらない人間を世間は肯定するところがある。

雨がよく続く。湿度が高くなると古傷が痛み出す。身体にも潜在意識があるんだ。

アニミズムっていうものはもしかして自然界の潜在意識だろうか。

幽霊は生者の潜在意識が見るのか、それとも死者の潜在意識のビジョン化したものか、どっちだ。知性の人は前者といい、感性または霊性の人は後者だというだろう。

山田風太郎さんは作家が老化した兆候として、自作を解説したがると。自作の解説ほど面倒臭いというか、これほどヤなことはない。そんなヤなことをやり始めるのか? と感心するが、現代美術家は結構それが好きな人が多い。若年老化かな?

それから生存中に文学碑と称するものを建てる人が多いらしい。誰が建てたか知らないが、へえー、そーなんだ。

生前、作家の半村良さんから聞いた話で、作家が一人前になった証拠は先ず、ゴルフ場の会員になること。次に銀座のママに店を持たせること、次に馬を持つことと聞いたことがある。半村さんはゴルフも馬もやっていたけど、銀座のママは知らん。

芸術ってのは音調をはずすことだ。ぼくの耳は芸術だ。だって音調がはずれっぱなしなんだから。

世の中にはどうでもいいことが沢山ある。ぼくの耳と同じで聞こえても聞こえなくてもどーでもいいような。

老けた人と老けない人の違いは美意識があるか、ないか、だと思うね。

知性だけじゃ老けるね。感性で生きれば老けないよ。

わがやの猫(おでん)はこの間から家出をするようになった。人間の生活と縁を切りたくなったのかも知れない。われわれも時々猫になる必要がある。

2017年08月10日
風呂から上がって寝るまでの1、2時間は至福の時でもある。一日の日記を書いたり、短時間読書をしたり、テレビはあまり見ないかな。考えているようで考えないボヤーとした時間だ。


この間から、山田風太郎さんのエッセイを寝る前に少しずつ読んでいる。一度、山田さんの家に伺ってご馳走になったことがある。その時「横尾さんは名古屋にお住まいですか」と聞かれた。


山田さんの家にぼくが装幀した時代劇の全集がダンボールいっぱいに送られてきて、その差し出し人がぼくの名前になっていた。住所は名古屋だった。


つまり古書店だと思うが、ぼくの名を名乗って、作者山田風太郎が装幀者横尾忠則に署名した本を贈った。その本を高値で販売しようと企んだのだろう。


悪いことはできない。昨日送ってきたところへ、ぼくが訪ねたためにバレてしまったということだ。相手にとってはとんだシンクロニシティである。

ぼくの最大の欠点は出不精だ。若い頃はどこでも出掛けたが、ここ、20年は本当に閉じ篭り状態に近い。都内でさえ億劫だ。地方に行くだけでも大変だ。どうしてこーなってしまったのだろう。外国は韓国が最後で10年近く(8年?)すっかり行かなくなった。去年、ロシアとスイスでの個展もパス。

2〜3年前、ギリシャ、スペイン、ノルウェー、モロッコ、などの旅行も片っ端から決まりながらキャンセルしてしまった。多分体調に自信がなかったからだろう。

それと好奇心も薄れている。特に外国旅行は楽しいはずだが、逆に鬱陶しく思ってしまうのだ。困ったものだ。耳鳴りと突発性難聴になってから飛行機に自信がなくなった。

2〜3年前、ドナルド・キーンさんが93歳でアメリカとヨーロッパに長期出掛けると聞いた時、「命知らず」と思ったが、無事帰国。現在95歳。その後もバリバリ仕事をして元気だ。キーンさんの強みはこの「命知らず」だ。この精神がキーンさんの全てだ。

ぼくの年令以上の友人、知人は多いが、みんな、どことなく「命知らず」のところがある。このことは生きることで一番大事なことかも知れない。

「命知らず」の気持が、長寿を約束し、芸術を生んでいる。やっとわかった。ぼくの最大の欠点はこの「命知らず」の欠如だ。それは外国恐怖症から来ているようだ。

外国の仕事は結構多い。いつも2〜3本かかえている。まあ、それはいい。相手が来てくれたり、中に入ってくれる人がいるからだ。でも肉体の移動をしないことが、逆にストレスになっているのかも知れない。

さあ、困ったものだ。フェデリコ・フェリーニも旅行嫌いで、いつも仕事があってもなくてもチネチッタ撮影所にタクシーで行く毎日がほぼすべてだという。そんなフェリーニにぼくは私淑しているから、タチが悪い。さて、どうするか。

今朝の朝日新聞の瀬戸内寂聴さんのエッセイ「残された日々」は本当におかしい。ひと言ひと言がおかしい。特に秘書とのやりとりは傑作だ。ぼくは、このやりとりをライブで何度も見ている。まあ読んで下さい。

瀬戸内さんも難聴で、難聴同志の電話は、お互いに無視していいたいことをしゃべるだけで、相手のことは聴いていない。

だから聴き違いが多い。どこかに書いたことがあるが、ある時、ぼくは草津温泉に行った話をした。「へえー、怖くなかった?」「よく拉致されないで無事だったわね」、「へえー、冬なのにそんなに暑いの?」ぼくには何のことかわからない。

瀬戸内さんは「草津温泉」のことを「北朝鮮」と聞いていたらしい。「クサツオンセン」と「キタチョーセン」まあ似てるかな? 瀬戸内さんは北朝鮮だから、怖くなかった、拉致されなかった、温泉が熱いと言っているのに北朝鮮は暑いの? と意味が全部変る。

こんなカンチガイの電話はしょっちゅう、もういちいち訂正しないことにしている。でなきゃ、ことことでまた話がややこしくなってしまう。

この前など、共通の友人の平野啓一郎さんの名前がでてこない。ぼくはすぐわかったけれど、わからないふりをして聞いていた。「横尾さんも知っている若い小説家で、芥川賞をもらった、2人子供のいる。それそれ美人の奥さんの、わからない?」自分がわかっていないだけだ。

「ヘエー、誰かなあ、ぼくの知っている若い小説家で、子供2人ねえ、ヘエー、そんな人いましたかねえ」と、とぼけているといつまでも話が進まないので、適当なところで、「わかった」と言うと「わかった? 誰?」もうマンガだ。

あゝ思い出した。平野さん少しずつ体調もどってきたので来週でも来ませんか。徳永に連絡させます。

2017年08月10日
風呂から上がって寝るまでの1、2時間は至福の時でもある。一日の日記を書いたり、短時間読書をしたり、テレビはあまり見ないかな。考えているようで考えないボヤーとした時間だ。


この間から、山田風太郎さんのエッセイを寝る前に少しずつ読んでいる。一度、山田さんの家に伺ってご馳走になったことがある。その時「横尾さんは名古屋にお住まいですか」と聞かれた。


山田さんの家にぼくが装幀した時代劇の全集がダンボールいっぱいに送られてきて、その差し出し人がぼくの名前になっていた。住所は名古屋だった。


つまり古書店だと思うが、ぼくの名を名乗って、作者山田風太郎が装幀者横尾忠則に署名した本を贈った。その本を高値で販売しようと企んだのだろう。


悪いことはできない。昨日送ってきたところへ、ぼくが訪ねたためにバレてしまったということだ。相手にとってはとんだシンクロニシティである。

ぼくの最大の欠点は出不精だ。若い頃はどこでも出掛けたが、ここ、20年は本当に閉じ篭り状態に近い。都内でさえ億劫だ。地方に行くだけでも大変だ。どうしてこーなってしまったのだろう。外国は韓国が最後で10年近く(8年?)すっかり行かなくなった。去年、ロシアとスイスでの個展もパス。

2〜3年前、ギリシャ、スペイン、ノルウェー、モロッコ、などの旅行も片っ端から決まりながらキャンセルしてしまった。多分体調に自信がなかったからだろう。

それと好奇心も薄れている。特に外国旅行は楽しいはずだが、逆に鬱陶しく思ってしまうのだ。困ったものだ。耳鳴りと突発性難聴になってから飛行機に自信がなくなった。

2〜3年前、ドナルド・キーンさんが93歳でアメリカとヨーロッパに長期出掛けると聞いた時、「命知らず」と思ったが、無事帰国。現在95歳。その後もバリバリ仕事をして元気だ。キーンさんの強みはこの「命知らず」だ。この精神がキーンさんの全てだ。

ぼくの年令以上の友人、知人は多いが、みんな、どことなく「命知らず」のところがある。このことは生きることで一番大事なことかも知れない。

「命知らず」の気持が、長寿を約束し、芸術を生んでいる。やっとわかった。ぼくの最大の欠点はこの「命知らず」の欠如だ。それは外国恐怖症から来ているようだ。

外国の仕事は結構多い。いつも2〜3本かかえている。まあ、それはいい。相手が来てくれたり、中に入ってくれる人がいるからだ。でも肉体の移動をしないことが、逆にストレスになっているのかも知れない。

さあ、困ったものだ。フェデリコ・フェリーニも旅行嫌いで、いつも仕事があってもなくてもチネチッタ撮影所にタクシーで行く毎日がほぼすべてだという。そんなフェリーニにぼくは私淑しているから、タチが悪い。さて、どうするか。

今朝の朝日新聞の瀬戸内寂聴さんのエッセイ「残された日々」は本当におかしい。ひと言ひと言がおかしい。特に秘書とのやりとりは傑作だ。ぼくは、このやりとりをライブで何度も見ている。まあ読んで下さい。

瀬戸内さんも難聴で、難聴同志の電話は、お互いに無視していいたいことをしゃべるだけで、相手のことは聴いていない。

だから聴き違いが多い。どこかに書いたことがあるが、ある時、ぼくは草津温泉に行った話をした。「へえー、怖くなかった?」「よく拉致されないで無事だったわね」、「へえー、冬なのにそんなに暑いの?」ぼくには何のことかわからない。

瀬戸内さんは「草津温泉」のことを「北朝鮮」と聞いていたらしい。「クサツオンセン」と「キタチョーセン」まあ似てるかな? 瀬戸内さんは北朝鮮だから、怖くなかった、拉致されなかった、温泉が熱いと言っているのに北朝鮮は暑いの? と意味が全部変る。

こんなカンチガイの電話はしょっちゅう、もういちいち訂正しないことにしている。でなきゃ、ことことでまた話がややこしくなってしまう。

この前など、共通の友人の平野啓一郎さんの名前がでてこない。ぼくはすぐわかったけれど、わからないふりをして聞いていた。「横尾さんも知っている若い小説家で、芥川賞をもらった、2人子供のいる。それそれ美人の奥さんの、わからない?」自分がわかっていないだけだ。

「ヘエー、誰かなあ、ぼくの知っている若い小説家で、子供2人ねえ、ヘエー、そんな人いましたかねえ」と、とぼけているといつまでも話が進まないので、適当なところで、「わかった」と言うと「わかった? 誰?」もうマンガだ。

あゝ思い出した。平野さん少しずつ体調もどってきたので来週でも来ませんか。徳永に連絡させます。

2017年08月09日
「コラム歳時記」(月刊)が送られてきた。地方紙の朝刊1面コラム(朝日の「天声人語」のような)を集めた本です。関心のある方は(http://www.nihon-mic.co.jp

時代にピッタリのものは、どうも抵抗があるというのか、ぼくには難しく感じる。だからどっちかというと時代遅れのものが好きだ。時代遅れの中には見落としているものがある。それを発見した時は、時代の先きを行っているような気持になる。

芸術はないものねだりをするものだ。すでにそこにあるのに誰もその存在に気づいていないもの、それがないものねだりってことじゃないかな。

誰かが必要ないといって捨てたもの。それを拾う。発見っていうのはそーいうものだ。

皆んなが見ているにもかかわらず、見えてないもの、それを見ることのできる人だけが創造者になれるってわけ。

全く誰も知らない、見たことのないものなんて作る必要がない。第一できないよ。知っているもの、見ているものにちょっと手を加えるだけでいい。その手かげんが問題だけれどね。

自由に描くということはどーいうことだろう。「自由」から離れた時に初めて「それ」になるんだと思う。自由ほど不自由なことはない。

ぼくにとって絵を描くということは、自分をガンジガラメにすることかも知れない。

それにしても物忘れがひど過ぎる。物がすぐ消える。つまり時間が喪失しているということだ。その物は喪失した時間の中に存在しているはずだ。

まるで推理小説の世界の中で生きているような気がすることがある。

わが家をペインティングしてみた。神社? 龍宮城? それともレストラン? 洋服を替えるような気分転換! それにしては大袈裟だったなあ。




神戸、横尾忠則現代美術館「ヨコオ・ワールド・ツアー展」会場写真


東京ステーション・ギャラリーで行った「高倉健」展の会場の一角を滝のポストカードのインスタレーション。360度ぐるっと囲まれている。壁、天井、床ゼーンブ滝のポストカード。滝のポストカードの所々にわかるようなわからないように健さんのポートレートが混ざっている。

僕は高校野球ってあんまり好きじゃない。ホームラン打たれたピッチャーがくやしがらないでニコニコしている。また監督も笑顔で迎える。明らかにアウトなのに一塁に頭から滑り込んでユニフォームを真黒に汚してアピールする。わかったわかっ

絵というのは描きながら、変な方へ、変な方へと傾いていく。アクセルとブレーキを間違っているんじゃないかと思うことがある。
仕事って実際の作業に入るとうんざりすることがある。仕事で一番楽しい時は仕事の依頼の受合わせ段階だ。こういうのを「話食い」と呼んでいた。他の人はどうなんだろう。

仕事が実現することにはあまり興味がない。実現するだろうと想像している段階が最も楽しく生々している。他の人はどうなんだろう。

本を読む時は、それほど楽しくない。読もうと思って本を買う時が楽しいのだ。他の人はどうなんだろう。

絵というのは描きながら、変な方へ、変な方へと傾いていく。アクセルとブレーキを間違っているんじゃないかと思うことがある。

ぼくはいつも思う。自分の絵っていうのは最初からないので、誰の絵なんだろうと思うような、まるで他人が描いたような絵ができると嬉しい。

如何にも自分の絵っていうのは(まあ最初からないとしても)実につまらない。

いつも自分でありながら他人のように振る舞えると、どんなに楽しいことだろう。じゃ役者になればいいのかも知れないけれど、お芝居をしないで他人になりたいんだよね。このことはアンディ・ウォーホルに似ているかも。

ウォーホルは自分から離れるためにシルクスクリーンという写真作品にしたのかも知れない。自分は最少限に参与するわけだから。

ウォーホルは会った時でも自分じゃない自分を見せようとした。ぼくの前で、相手のいないウソ電話をしてみたりして。でもぼくにはバレバレだったけどね。

シルクスクリーン作品は自分がしなくて済む。他人にやらせて、自分の作品に見せかける。そこが彼の作品なんだけどね。

ウォーホルはもの凄いシンプルでそれほど努力する必要のないことをして成功したアーティストだ。デュシャンの鬼っ子だった。

山田洋次監督「家族はつらいよ2」を見ましたか。この映画のタイトルバックを担当しました。昔、ソール・バスというデザイナーがヒッチ・コックの映画などのタイトルバックを描きました。ぼくのタイトルバックには監督の顔を出しました。「恥ずかしいなあ」と言って「横尾さんも出るなら」と。

ぼくが出るという条件で山田さんもOKしてくれました。ぼくはタイトルバックのデザインのクレジットの個所に出ました。気がつきましたか?

まもなく「家族はつらいよ3」のクランクインです。このpart3のタイトルバックも多分作ることになると思いますが、今度はタイトルの上映時間をもっと沢山もらって、面白いものを作ります。

日本映画では2本作っています。テレビのドラマでは10本以上作っています。1967年ニューヨークで個展をした時、イギリスの「007」シリーズのプロデューサーが来て、「007」のタイトルをやってくれないかと頼まれたことがありました。

ロンドンに2週間来れないかと。残念ながらニューヨークに用があって断りました。無理しても作っておいた方がいい記念になったと今、そう思います。

断わざるを得ない仕事は他にもいくつかあります。例えばボブ・ディランのLPアルバムです。ノーベル賞を貰うんだったら、やっとけばよかったですよね。

タイトルを忘れたけれどアメリカのミュージカル映画でロックをテーマにしたタイトル・バックも、理由は忘れたけれど断わっちゃったんですよね。

今、やっている映画の仕事は、ロマン・コッポラ(フランシスの息子)の映画の中に出てくるシーンに映るバナーをデザインすることになっています。写真:R.コッポラとテレビ電話で打合せ中。

断わった、とかできなかったとエラそうに聞こえるかもしれないけれど、出来なかったことで、逆にいい想い出になることがあることを知りました。

時々、絵など描かないで、雑用的な一日を過ごす。そんな毎日も結構愉しいような気がする。本質的にぼくは怠け者ですからね。

絵を描く愉しみというのは、普通の愉しみと違って、苦しみを伴う愉しみです。本当の愉しみは苦しみを伴うものです。

映画を見て愉しかったとか、美味しいものを食べて愉しかったなどは苦しみと無関係ですよね。美味しいものが咽につまって苦しかった。これはどうでしょう。

2017年08月08日
新しいわが家のクーラーの操作がわからない。事務所スタッフはリモコンで一発(たったひと押)で作動させる。同じことをやってもどうしてできないのか、わからない。だんだん「わからない」新しい領域に突入し始めたのかも知れない。これからの人生は複雑怪奇になるぞ。

絵もわけわからない領域の絵になるといい。

「わかる」って実につまらないことだ。「わかる」ことより「わからない」ことの領域の方がうんと広い。

一番わからないことは自分と自分の絵だけどね。これは永遠にわかるものではないでしょう。

わかることばかりやっていると、すぐ限界にぶつかる。わからないことは限界がないのでぶつかることはない。

評価されるということはわかる範囲内。わからない領域に突入する以上評価を求めないこと。あゝヒョーカ? ソーカ?

9月1日から山田洋次監督の「家族はつらいよ=3」が東宝スタジオでクランクインする。と同時にぼくの出張アトリエが監督ルームの一角にできる。セットを行ったり来たりしながら絵が描ける。場所変ると絵も変る。

ぼくの作品の激しい変化は場所の変化と比例している。

意図的に変えるのもいいけれど、勝手に変ってくれるのなら、しなくてもいい努力は必要ない。

ヤル気のない時は逆にうんと大きい、失敗が目立つほどの絵を描くといい。下手すると予想通りの失敗。上手くいくと大成功もあり。

絵は時には破れかぶれな想念が必要だ。はっきり言うと、真面目な性格の人には最初から想像的な作品は諦めた方がいい。

だって道徳的な芸術って存在しないでしょ。

頭のいい人は学者になればいい。芸術にはアホな資質がなければ無理だ。

江戸時代の宗教家、黒住宗忠さんは一生通じて「アホ」になる修行をされてきた。アホになることは一生の修行で、誰にでもできることではない。

チベットの僧院にはアホの人がいた。修行者のサンプルである。あそこ(アホ)までいかなきゃ悟ったとは言えない。

現代は頭のいい人が多過ぎる。だから悩ましい問題に振り廻される。アホに問題などない。

問題のないアートを作るべきだが、問題ばかりをテーマにするアートが多い。問題がなきゃ評価されないからだ。

「何? これ?」。そんな作品でいいのだ。わかる作品は底が浅い。

さあ、気分転換にシャンプーをしてもらいに行こう。脳ミソもついでにシャンプーだ。

今日は天気予報がはずれたのか、午後の空のちぎれ雲がきれい。子供の頃の夏休みを想い出す。「少年」や「少年クラブ」や「漫画少年」の表紙画(斉藤五百枝/松野一夫)をね。
わが家のおでんが最近ほとんど姿を見せない。夜中にチラッと帰ってきて、また姿を消す。猫はわがままなので、こちらもわがままにならなきゃつきあい切れない。

毎月、宝塚歌劇団から雑誌「歌劇」が届けられるが、顔も名前も覚えられない。轟悠さんだけはわかる。組を離れて専科であるが、何年経っても、ちっとも変らない美貌には驚嘆する。

新しく設置したクーラーはものを言う。難聴で聞こえないけれど、家人に聞くと「今日の電気代は150円です」なんてしゃべっているらしい。電気代に気がかりの人が多いのかも知れない。

夕べはカレーだった。カレーは好物の上に夏場を乗り切るエネルギーがある。熱中症防止にもなるそーだ。認知症は?

この間から、何かすると膝が痛む。こんなことは初めてだ。これからは初めてのことが増えるんだろうなあ。

今月の中頃からしばらく郷里で仕事をする予定。何をするか未定だけど、絵は描くだろう。人に見せる絵というより、自分が見るだけの絵を。

以前にも紹介したことがあるけれど群馬の釈迦の霊泉のこと。ここの水はただの水ではなくカラダに良い水として評判を呼んでいます。ぼくはここに何度も行って、何日も投泊したことがあります。

釈迦の霊泉 TEL 0278-72-3173(FAX 0278-72-5041)行かなくても水は送ってくれます。横尾に聞いたといって問い合せてみたらどーですか。深い山の中ですが、ハイキングのつもりで行くのもよし。利根郡みなかみ町上牧3768

不眠症気味だったけれど、今は平気。不眠症の原因は「考える」ことだった。「考える」ことを止めた途端、解消した。「考えない」ことって素晴しい。他のことにも通じると思う。

頭の中がゴチャゴチャしていて、整理できない時はシャンプーしてもらうと解消する。またはマッサージだ。精神の問題は肉体が解消する。ナンチャッテ!

ストレスの解消は週刊誌が早いね。スキャンダル記事の主人公達は大変なストレスだと思うけど。誰かのストレスが、誰かのストレスを癒してくれるってわけさ。

土日は街が静かだった。皆んな消えてしまったらしい。消え方がわからなくって困っている僕は、やはり同じ境遇の友をみつけるしかない。山田洋次さんとおはぎなど食べてフェリーニの話をする。

夏はカレーがいい。以上。

ステーキもいいし、うなぎもいい。

2017年08月07日
府中のコヤマさん
神戸の美術館行ってくれたんですね。こんなに色々展覧会の感想書いてくれた人、まあ珍しい!

シニア専用の空気清浄器とクーラーをベッドルームに設置したら、一番喜んだのはおでん(猫)だった。それにしてもクーラーが言葉をしゃべるのには驚いた。

難聴だから何を言っているのかよく聴き取れないが、ひとりごとだと思う。

ふと気がつくと郷里の風景を想っていることが多くなってきたように想う。今の郷里ではなく、子供の頃の郷里の風景だ。それもなんでもない場所の風景が多い。それが過去の時間の風景なのか、もしかしたら未来の時間のような気もする。生の時間なのか死の時間なのかよくわからない。

はっきりしない、あいまいなことばかりが浮かぶ。身体がそんな状態だからかな?

あいまいでいることが一番やすらぐような気がする。

絵も最後までキチンと仕上げたい、そんなことには抵抗がある。絵も煙みたいにファーッと消えていくのがいい。

ぼくはこの年まで、あんまり歯医者のお世話になっていない。去年、奥歯が一本抜けたくらいだ。でも子供の頃から、いつも歯がジクジク痛む。なぜかさっぱりわからない。

ぼくは自著を読むことはほとんどない。本ができたら「ハイ、サイナラ」であるが、先般出した「本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた」(光文社新書)を読み始めたら、面白くてやめられなくなった。書評が面白いんじゃなく、取り上げた本が面白い。改めてそれらの本を、今読んでいる。

どの本も無駄ではなかった。書評のために読む時は、面倒だったが、今、もう一度読むと、スラスラ読めて面白い。執着から離れて読むから面白いんだと思う。

「この本の中に僕の考えてきたことがすべて入っています」という帯文は本当だ。他人の本を借りて、自分の考えを述べたような気がする。何かを通すことによって、考えというものは明瞭になるものだ。

「ぼくが取り上げた133冊全部読んで下さい」とは言わないけれど、自画自賛というか、いい本を取り上げさせてもらったように思う。

書評集を出したところで、書評は終りかな? と思ったけれど、逆に本を読む欲求が面白くなってきたようだ。これからは興味のない本も読んでみたいと思っている。

だけど僕は本を読むのが物凄く遅いので、人が5冊~10冊読むところ、やっと1冊だから、紹介する本の数は少ない。

と、ところで本ばかり読んでいるわけにはいかない。僕の本職は絵だから読書に時間を奪われちゃ主客転倒。

街に出てみる。目の前を磯崎憲一郎さんが自転車で横切った。成城石井の角から成城学園大学の方に向った。彼の家と反対の方へ。一体どこへ行こうとしているのだろう。余計なお世話だけど気になる。彼はよくぼくの自転車とすれ違って、アッという間に消えてしまうと言う。今日の彼みたいにだろうか。

何か本を読んでみたい。家には本屋ができるほど本があるけれど、何を読んでいいのかわからない。そんな時は本屋で一冊買えば、それが切っ掛けを作ってくれる。「乱歩と正史」と山田風太郎の「半身棺桶」を買う。枯れたポンプの呼び水になるかも知れない。

レジの前に自著「本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた」(光文社新書)が何段にも山積みされて、まるでベストセラー状態だ。これはびっくりするほど売れているのか、びっくりするほど売れていないのかの、どっちかだ。

駅前の桂花という中華料理店で、いつもスポーツ紙をまとめ読みする。スポーツ面より、社会面が面白い。芸能欄は知らないタレントの記事ばかりで、それが誰だかわからないのでさっぱり面白くない。

わが家の隣がクリニックだけれど、今日などは車8台、待ち合い室も人で溢れている。病人はどこにもいるんだ。病気になったからって珍しいことではない。皆んなが病人だと思って安心するしかない。

創作意欲の意志決定を自らの言葉でいくら鼓舞しても駄目だ。こーいう時、ぼくは古書店に飛び込んで気に入った画集をまとめ買いする。これで充分だ。肉体的行為を起こして、初めて創作に入れる。

ぼくの場合は思うだけでは駄目。行為を伴って初めて思いが結実するのだ。意欲をお金で買ったってわけさ。

昨夜、おでん(わが家の猫)が10時に不在。こんなことは一度もなかった。事故? それが心配だった。ふと動物の神様馬頭観音を思い出した。困った時の神頼みだ。「帰るように!」を祈ってみた。そしたら5分後の10時5分に帰ってきた。

土、日にしゃべったことをメモ(ツイート)しておいた。それを流しましょう。

2017年08月04日
なんかこの間始まったばかりだと思っていた十和田市現代美術館の個展に1万人越えたという記念イベントがあったそーです。十和田は涼しいと思っていたのに熱いニュースで、美術館の人達も興奮している様子の情報が入ってきました。目下カタログ印刷中。早いとこ急いで頂戴!

「週刊読書人」紙に日記を連載しているが、このところ喘息の話ばかりでまるで闘病日記だ。他人のこんな私小説的生活など面白いはずがない。と言って日記を面白くするために、日常をパフォーマンスすることもあるまいし。

今日、新作版画(シルクスクリーン)5点が完成した。一作の版画が30~50版。盛ったインキで重い。(近日中に写真掲載)

年を取ると(老年になると)どーでもいいことが多くなるというか、本当に「ねばならない」ということがなくなっていくんですよね。目的とか結果に興味がなくなるんですよね。なんとかのためという大義名分もなくなる。面倒臭いのかなあ? まあ楽だといえば楽だよねえ。

ボーとしているので白黒はっきりつけることもないし。アートだって「何んでもあり」が自分のスタイルだし。それをコンセプトにするなんて興味ないし。なんだか理性的認知症かな?

とことん下手くそな絵が描けたら最高だけれど、本当に自然にそーなれれば、そこからが本当の芸術が始まるんだろうなあ。

この間、神戸で食べた鉄板焼ステーキは本当に美味かった。老齢者は肉を食べるべきだね。ベジャールとヨーロッパで仕事をしていると、50過ぎると菜食にしなきゃ、と言っていたけど、彼はぼくの年令より若く死んじゃったんじゃないかな。

三島(由紀夫)さんは週に一回はステーキを食わなきゃ、創作できないぞ! と言って、大きい肉を食ってたよなあ。黒沢明さんも肉が大好きだった。食事に淡白じゃ、芸術家は駄目だよともよく言われたなあ。肉が強い作品を産む!

この間亡くなられた医師の日野原重明先生の手の指が曲がらず、仰々しい検査が始まったそーだが、指を軽くマッサージしただけで治った。ぼくも、この間声が出なくなって「病院へ!」となったが、フト「マッサージ!」と直感。声が出ました。「内なる声」に従って「外なる声」が出たんです。

直感は何んでも知っているんですね。あれこれ脳をひねくり廻す前に「内なる声」を聴く耳です。難聴のぼくでも内なる声だけは、よー聴こえるんです。

早寝のぼくは、6時前後に覚醒します。早朝の時間も上手く利用すれば一日のスタートが上手く切れます。何もしないでボヤーっとしていると一日中、ボヤーです。

でも考えてみれば生涯の半分はボヤーとした時間でつぶしてきたように思います。それでよかったとも、悪かったとも、これが自分の人生です。

ぼくはマルチ人間だと、よく言われてきましたが、そーではないと思います。来る仕事をより好みしないで引き受けていたら、そー言われるようになっただけの話です。

依頼がなければ何もしない人間かも知れません。絵は依頼がないので、いつも怠けています。画家は自分が自分の依頼人になるしかないんです。切腹するよーなもんです。

ツイッターは誰に向かって話しているのかな。相手の顔はひとりも見えないし、想像もしない、できない。結局自分へのひとりごとです。徘徊老人の始まりです。

人生そのものが徘徊じゃないかな。それでいいんじゃないかな。

二階堂ふみが「存在感出したい」と言う。存在感は出そうと思ってでるものではない。「出てしまう」ものだ。同じように「ぎこちなさを出したい」と思うが出せるものではない。勝手に出てしまうものだ。

群馬の知人が亡くなった。ぼくよりひと廻り下だった。最近、年下の人が先きに逝っちゃう。先きに逝って待つことないよ。

人に限らず生物は死ぬために生まれる。生老病死に勝てるものはない。

書評(朝日新聞)をしているけれど、本を読む作業は大変だ。だんだん記憶力が加齢と共に落ちてきているので、文章にする時、何も覚えていないことがある。著者の責任じゃなく、こっちの責任なんだけど。

ぼくの書評は書評というより、半分はエッセイなので、著者からは「ちょっと違うんじゃない?」と言われていそう。でも宣伝しているわけじゃないんだから。ぼくにはこれしかできないんだ。

日替り声替りが続いている。出る日と出ない日が極端だ。医師は気候の影響大と言われる。そうだろうなあ、人間も自然の一部だからね。自然のストレスがもろ人体のストレスになるってことだ。

2017年08月03日
荒俣宏さんから「お化けの愛し方」(ポプラ新書)というとんでもない怖くて、恐ろしい、愛に満ちた本が送られてきました。

東京ステーションギャラリーで「不染鉄」という幻の画家展開催中。こちらも神秘的で怖いほど美しい。

イッセイミヤケによる横尾のビジュアルを使用したテキスタイルの新作が発表されました。

ニューヨークのフリードマン・ベンダ・ギャラリーにて開催中。

四谷シモンから「人形作家」(中公文庫)を送ってくれた。自伝的、交遊録的エッセイ集ってとこかな。











描く絵もないのにキャンバスを注文する。自らにプレッシャーをかけるためです。ストレスとプレッシャーはかけない方がいいけれど、時にはかけた方がいい。自分を強化させるためにね。

さて、今日は何をしよう? と考えるのは芸術家。昨日も今日も明日もすることが決まっているのは職人。ぼくはどうも二足のワラジ派である。

ワラジで思い出した。今度アトリエではワラジを履こう。靴底がゴムはよくない。身体の中の電流がゴム靴じゃアース(地面)へ抜けないではね返って、降りる電流と上がる電流がぶつかって、身体を汚染するような気がする。ワラジはそのまま電流がアースへ抜ける。

退院後、初めて、病院に伺い、身体の見直しをしてもらってくる。まあ、いい感じで、いい方向に向かっているそうだ。

病院の中庭のテラスで、コンビニ弁当のランチを食べる。カルビ弁当じゃなくって、オニギリにすればよかった、と後悔ではなく、反省する。どうでもいい話だけど。

病院には時々、物凄い場違いなハデにおしゃれをした人が来るが、これは悪いことではない。病院を病院と思ってないところがいい。
中庭で氷アズキを食べたが、暑くても夏は冷たいものは避けるべきだった。戻ってから喘息のストレス発作が起こる。

1ヶ月振り? に整体院でマッサージの施術。出なかった声が出始めた。薬を飲んでも治らなかったのがマッサージで治る。意外とこんなもんかも知れない。

寝室に空気清浄器がやってきた。なんだか森林浴をしているみたい。

「身体性」なんてよく言われるけど病気になると、肉体(身体)の脳化によって、身体そのものを直截実感させられる。実に早道だ。

私を知りたきゃ病気を経験すればいい。私は頭ではなく肉体だから。

人はみな病気だ。自分だけが健康だと思わない方がいい。また病院は特殊な場所とも思わない方がいい。教会や監獄ともそう変らない。

現代美術はアイデアを競っているけれど、まだまだ絵画がやれてないことは無限にある。アイデアや主題や様式ではないものだ。それは絵画を通して「如何に生きるか?」だと思う。

「如何に生きるか?」は「何を描くか?」でもなく「如何に描くか?」でもない。

2017年08月02日
1泊2日の小旅行だったけれど、日常の外に出ると時間の流れに異変が起きる。

この異変が化学反応を起こして想像力を生む。

生きることを真剣に考えると、死ぬことから目が離せない。

言葉が出なくなることしばしばだ。別に言葉でなくてもいいのに、言葉でなきゃいけないと思うから言葉が出ないんじゃないかな。

言葉より立派なもの、ぼくの場合はビジョンだ。ビジュアル・ランゲージでもないんだ。

部屋に空気清浄器が入った。昔はこんなもん必要なかったのに。

居住空間がだんだん人工化して、肉体はだんだんサイボーグ化する。

ぼくは物を創るサイボーグなんだ。

お店に入ると、病気を気づかって下さる方が多く、「もう大丈夫です、ありがとうございます」とお礼を述べる。ぼくだけでなく、体調を崩している方が多いようだ。お大事に。今日の湿気は身に来ますね。

声がまだまだガラガラ蛇状態だ。

尿が濃いのは水分不足だそーです。透明になるよう、水分補給を。

アトリエの樹木の中からジーッ、ジーッと聞こえる虫の音の虫の名は何虫?

ジッ、ジッ、ジッという声は? 蝉かな?

十和田市現代美術館の来客が凄く多い! と報告を受けている。トークのオファーを受けているけれど、このガラガラ蛇声じゃ、無理だろうなあ。

神戸にいる間にタマ(猫)の絵を描いたが未完成。ロビーに展示したいというが、絵になり切っていない、ごく普通の絵です。

2017年08月01日
これはパイナップルではありません。
This is not a pineapple.


若者であった頃の精神の一角を形成したジャンヌ・モローさんが亡くなった。ヌーベルバーグの時代に方向づけてくれた女優さん。男は女(女優)の中に文化のいのちを燃やした。男にとって女は全て母であり、愛人であり妻でなきゃいけなかった。芸術の核も女でなきゃ——。

ホテルのベッドに枕が6個。わが家はそれを上廻る8個。イルカの大群に抱きかかえられながらベッドの海を渡っているのだ。

ホテルの朝食は目が皿になる。目を皿ではなく目を茶碗にすればどうなるんだろう。

午前中から美術館内で撮影したり、インタビューなど。このテレビ番組は追ってお知らせしますが、今は内緒にして、と言われている。面白い番組になるんじゃないかな?

ぼくにはベストセラー本は一冊もないけれど「インドへ」(文春文庫)が19万部になったと通知があった。

兵庫県立美術館で「怖い絵」展開催。凄い作品が並んでいる。西洋の怖い伝統になじみの少ない日本人だが、怖い伝統のDNAを持つ日本人なら共感する。

往復共に富士山望めず。富士は吉祥の予感を与えてくれる。見えないが存在しているだけで、それでいい。喘息の経過よしの兆しあり。

日本人は私小説がお好き。小説家は因果な商売だ。日本の政治も私小説だ。私小説ぎりぎりで描くスリリングもあるが、これを越えなきゃ私小説は肉体を貪る。

新聞が生活に食い込んできた。新聞にあまり興味がなかったけれど新聞に掻き廻されていることに気づく。新聞がなくてもいい生活がいちばん幸せかも知れない。

芸術はあまり外部に関わらない方が、芸術が全うできるはずだ。芸術の不幸な時代に今の芸術家は生きようとしているようだ。

窓の外は黒い雲が地面まで飲み込もうとしている。風景から色彩が消えかかっている。間もなく新横浜に近いという。



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