3月25日
ぼくは寒がりである。身体が内側にちちじょまって行動力がにぶってしまう。亡くなった針の先生が病にかかると手が幽霊のように内にだらっと力なく下がるとよく言っていたのを思い出す。寒い時はそんな幽霊の図になりかけない。寒いと創作意欲もにぶる。だから冬の時期は制作数も減少する。谷崎潤一郎氏も同じようなことを言っておられる。「冬は創作熱が起こらない」と。だけど春の到来とともに「頭の中で冬眠していた芸術的本能がぼつぼつと目覚めるのを感じる」そうだ。
うん、言えてる。絵はスポーツやダンスや楽器も同じだと思うが毎日練習しなきゃ身体が忘れるのである。まさか絵は技術だけじゃないので忘れるということはないでしょうと思われるかもしれないが本当に描き方を忘れてしまうのだ。忘れるような絵描きは本物じゃないよと言われればそれまでだが・・・。
だから絵描きはのん気に冬眠とばかりいって喜んでおれない。確かに我慢していたエネルギーを春の到来とともに一気に爆発といっても絵描きは小説家のような知的な作業だけではないからだ。勿論絵描きは頭を使わないというのではない。芸術に向かう心は哲学的であり、科学的であり、神学的でなければならないが、同時に非常に肉体的でもあるのだ。
身体は常に動かしていなければ頭の働きにも影響する。絵は頭と身体がひとつになって魂の協力を得ることができるのだが、これとてスポーツと同じではないかと思うのである。
そんなわけで寒くても筆は動かしていた方がいい。ぼくにとっては冬は野球選手のキャンプみたいなものと思えばいいのかもしれない。そして暖かくなればシーズンの開幕だ。松井秀喜は夏場に弱いという。身体がだんだん温まってきて、夏場の絶好調にかため打ちをする。ぼくもどちらかというと夏場にかため描きをするタイプだ。
やはり」創作は真夏に限る。ピカソやミロやダリのスペイン画家を見てもわかるように南国を舞台に作品の山を築いたではないか。どうも操作苦熱と太陽熱は無関係ではなさそうだ。ゴッホだって晩年は南フランスで大量の絵を描いた。ゴーギャンだって南洋のタヒチに住み傑作をものにした。
バリ島のウブドに絵描きが山のようにいて毎日描き続けている。晩年はバリにでも住んで、奄美大島で俗世界と縁を切った田中一村画伯みたいに日本のゴーギャンを気取るのも一つの生き方ではと半ば本気で考えてみたこともあるにはあったが、よく考えてみたらぼくは喘息持ちだった。バリは特に湿気が多く、喘息には鬼門の土地だ。
まあこんな夢のような空想に遊ぶのも寒い日が続いているせいかもしれない。ついでにじめじめした鬱陶しい梅雨も嫌いだ。雨を愛する風流な知識人もいることはいるが、観念の雨と生理の雨は違う。言っとくがぼくのアートは観念ではなく生理なんだからね。
3月22日
実は白状すると去年映画を一本作る準備をしていたんです。シナリオも出来て今年の夏頃クランクインするつもりだったが、その前に最近出した「コブナ少年」(文春文庫)を先に映画化したくなり、発想を切りかえた。そこで「コブナ少年」のシナリオ随筆に取りかかるつもりだ。映画だからかなりフィクションを加える必要がある。それにしてもここんところ、今後の個展が幾つか待期しているので、映画は二年後くらいになるかな。
3月21日
とにかくぼくは古いものが好きだ。これは昔から変わらない。小説だって明治物が好きだし、絵だって現代のものには全く興味がない。映画だって同じだ。だから映画館には行かなくなった。ここ七年くらい映画館には行ったことがなかったけど去年の暮れ京都の映画館で「ハルク」を見て音響の凄さに身体が対応できなかったという話は以前にここで書いたと思うが、あの音に慣れてしまっていたとするとやはり異常だと思うね。異常が正常に取って変わったとすればぼくは現代人でも未来人でもないただの過去の人かも知れない。未来に老境があるのではなく老境はやはり過去の記憶の中にあるものなのかなあ。
3月20日
最近は小説に限らず老人本をよく読む。早いとこ老境を味わってしまった方が生きるのが楽になるような気がするからだ。老人の心で人や世の中の眺める視点は大事じゃないかと思う。つまり死をうんと身近に引き寄せることで生を考え直すということですかね。もっと早く老境に入るべきだったと少し後悔をしているくらいだ。老人の時間は短いと思っていたら逆だということが判った。まあ皆さんはぼくの真偽をすることはないがね。
3月18日
時々不眠になることがある。12時頃まで起きていた時は大抵眠れない。朝まで一睡もできないことがある。そんな時はベッドの中でもんもんとしているか、台所の冷蔵庫から飲食のできるものを口にしたり、思い切って寝ることを止めて本を読むことにしている。如何に不眠を受け入れるかが問題で、あえて眠ろうとしないようにしている。朝が暖かい日は朝風呂で身体を温めて血液のまわりをよくする。ぼくたちの年齢になると不眠を訴える人が結構多い。10時過ぎに寝るとそのまま朝までぐっすり休めるのでそれほど心配していないが、本質的に眠るのがあまり好きじゃないので、つい10時を過ぎてしまう。なんでも12時過ぎるとぐんと白血球が減少すると聞いたがそのことと関係があるのかも知れない。その昔、長期不眠に悩まされた時があったが、ある日、本の広告に「眠らないと人間は死ぬ!」という広告文を見たその夜からウソのように眠れるようになったことがある。身体が心を支配しないで心が身体を支配した好例(悪例?)というべきか。それにしてもわが家の猫は一日中眠っている。猫に睡眠を奪われているのかも知れない。
3月16日
高橋尚子選手がオリンピック代表選手に選ばれなかった。最も金メダルが期待できる選手といえば恐らく彼女であろうと思う。でも結果は彼女のためにはよかったのかも知れない。小出監督がマラソンひとつの高橋では可愛想だみたいなことを言っていたが(以前)それはそうだと思う。芸術だって芸術至上主義のアーティストは自分の人生を犠牲にするだけだ。高橋選手だって一人の人間である以上実生活や人生が大事だ。マラソンが人生を犠牲にしたとしたら何のためのまらそん、何のための人生だったかわからない。今度の落選で、彼女は人間的にうんと成長するに違いない。昨夜の会見では教えられることが多かった。
3月12日
最近私の書き込みがないのでもしや倒れたのでは?と心配してくれる人からのメールがありますが、そんなことないです。ただ怠けているだけです。書き込みが義務になるとHPに働かされているだけだからね。書きたい時には書く、でない時は書かない。書かない時は無言のメッセージ位に思ってもらいましょうかね。今日も昨日も、もしや明日も何も書かれていないのでは、というのもひとつの「行為」に違いないと思いますよ。気長にアクセスしてみて下さい。忘れた頃に顔を出したり、うるさいと思われるほどおしゃべりしたり、まあそんなイレギュラーな気分って結構自分の存在価値ではないのかしら。期待しないことも時にはいいんじゃないでしょうか。
イヤー、もうびっくりした。一昨日のHPのアクセスの数の凄さ!一体こりゃ何が起こったのか?最近サボってHPに書き込みをしていないというのに、そこでさては?もしや?と思って糸井さんの「ほぼ日」をのぞいてみたら、そこに私めのことが書いてあったのではないか、犯人はこれだ!と思った。たった三行の糸井センセイのお言葉がわがHPのカウンターがパンク(故障)してしまうほどの数のアクセスだったんです。その文章の内容とは―
「18歳のころ、横尾忠則さんのポスターを見たときには、あんまり嫌な感じで、吐きそうになりました。なのに夜中にまた見に行った、なんて出会いでした。」このたった三行のご利益がわがHPのカウンターをパンクさせてしまったというわけ。一体どんな嫌なポスターだったんだろうと思って怖いもの見たさの人達がアクセスしたに違いない。糸井さんのこの三行の文章の前に「『嫌いかも』」と思うときって、怪しいんです。自分の心が。人にはいろんなつきあいがありますが、最初から好きだと思ってつきあいがはじまるなんてことばかりじゃないんですよね。」とある。
なるほど、なるほどと思ってしまいました。でも最初嫌いでそのまま最後まで嫌いということもありますよね。それをどれほどのキャパシティで見ているかが問題だと思うね。キャパの小さい人間は嫌なことが多いにきまっている。キャパが大きければ嫌いも好きもないはず。そんな主観で物を見るのが人間だと思うけど、主観と客観が統合された時、その本質が見えてくると思うんですよね。その昔、三島由紀夫と安部公房が対談して、三島さんは「俺には潜在意識なんてないよ」といったら安部さんは「そんな馬鹿な」といったけれど、三島さんは本当に潜在意識と顕在意識が一つになっていたんですよ。これって凄い重要なことだと思いますよね。二つの相反するものが一つになるとかするとかは大事なことだと思うね。それをするためにわれわれは結局生きている(生きなければ)んじゃないですかね。
3月11日
この間すでに絶版になったある画集を手に入れたいと思ってわがホームページに書き込みをしようと思って、その原稿をFAXで長男の家に送ったら、長男の所ともうひとつ別の知人Sさんの所に送られてしまった。Sさんはどこから送られてきたFAXだろうと思って用紙の上の差出人を見たらそこにYOKOOと記録されていたので、ぼくから送られて来たものだとわかったものの、自分宛に来たものではないことがわかった。だけど。その文面に探している本の題名が書いてあったので、この本なら自分が持っている、ということで事務所に電話があり、その本を手に入れることができ、大喜びしたものです。だけどこの本が手に入ったのはぼくにとっては奇蹟だったのです。ここ一ヶ月余りあらゆる手をつくして出版元や書店、古本屋を中心に探していたのですが、どうしても見つからなかった。だけど不思議にも、絶対に手に入るという確信だけはありました。なぜ一枚のFAXが二ケ所に分かれて届いたのか、またそれがよりによってその本を持っていたSさんの会社に届いたのか、どう考えても理解できないので、FAX会社に問い合わせた結果、こういうことは普通では起きないそうで、やはり奇蹟に近い確立でたまにあるかも知れないということでありました。そのメカニズムはISDN回線を使用している場合に起こることがあるそうだが、電話回線についている装置が誤作動し、FAX番号を入力した相手意外に、誤って以前送ったことのある他の番号も一緒に読み込んでしまい、二ケ所に同時に送信してしまう。ということです。
3月8日
3月12日(金)〜3月15日(月)までPiers 90 and 92 On The Hudson River 12th Avenue At 50th and
52nd Street, New York City.で開催されている現代美術の国際アートショーにロンドンのエントウィッスル・ギャラリーより作品が出品されていますので、もしこの間ニューヨークに行かれる人がおられたら、ちょっと覗いて見て下さい。