1月31日
先週は郷里の西脇市岡之山美術館が主催するサムホール大賞展の審査に写真家の荒木経惟さんと兵庫県立美術館の学芸員の山崎さんと行った。西脇に帰ると必ず食べるのがお好み焼きで、荒木さんも山崎さんも大喜び。先ずぼくが焼き方の見本を見せる。神戸にいた頃お好み焼き屋に下宿していたので、焼くのも作るのも自慢の腕前。他に料理はできないがお好み焼きだけは自信がある。お好み焼き屋には秘密の材料があるが、意外とお店でもこれを知らない。教えたいが秘密だから内緒である。
1月21日
この間東京国際フォーラムでなかにし礼さんに招かれて映画「赤い月」を観に行った。映画は原作のイメージをそのまま映像化したもので、文章から得たイメージにあまり酷似していたので驚いた。それは文章力によるものか映像力によるものか、多分文章力ではないかと思った。
ところで、どうしてあんなに劇場の音響が大きいのだろう。7〜8年映画館に行ったことがなく、去年末京都で「ハルク」を観た時、その音響の大きさに恐怖したことがあり、きっと映画のテーマのせいだと思っていたが、「赤い月」もやはり音響が物凄く大きい。家で小津安二郎の映画ばかり観ているぼくにとっては最近の映画はただただ暴力的で恐怖の対象でしかない。今の気持ちじゃニ度と映画館には行きたくないというのが正直な気持ちである。肉体の進化(?)した若者にはこれ位の音響でないと満足できないのですかね。
1月19日
世の中には食い道楽で通っている人が多い。特に有名人の食べ物について書いた本もたくさんある。そんな食い道楽の人たちに比べるとぼくは食べ物音痴に属する人種のようだ。
うまいものが食えるとなると飛行機で北海道や九州に飛ぶ人がいると聞く。ぼくにはとっても信じられない話である。むしろこういう人は不気味にさえ思えるくらいだ。
自分のことを食べ物音痴と評したが、といって味覚音痴ではない。味の良し悪しぐらいはわかるつもりだ。だから、不感症とも違う。食べ物についての知識がないだけだ。まあ知識がないと言うことは食べ物に対して関心がないということかもしれない。そういえば食べ物の絵はほとんど描いたことがない。
関心がないということは当然食べ物に対して挑戦的ではないということにもなるかな。以前黒澤明監督から「芸術家で食べ物に関心がない者は、好奇心がないということでもある」と言われたことがある。この時はぼくに対する言葉ではなかったが、内心ぼくのことを言われている思いがした。
全く関心がゼロというわけじゃないが、満腹すれば特別美味しいものでなくとも平気だ。そりゃ美味しいものに越したことはないが、わざわざ遠くまで車に乗って高い料金を払ってまで食べに行く気は毛頭ないのである。といって好みはないのかといえばそうじゃない。
懐石料理やフランス料理は好みではない。酒を飲まないせいかもしれない。ぼくの好物といえばカレーライス。うどん、豆ご飯、それと焼き肉と中華ぐらいだ。これらだったら毎日でもいい。またどこの店でなければならないというほど厳密ではない。
食べ物でうるさいのはおはぎやタイヤキやドラ焼きやぜんざいの方だ。食卓に並ぶ食べ物というよりデザートに近いかもしれないが、和風甘味についてはかなりうるさい方だ。タイヤキならどんなタイヤキでもいいわけではない。特に尻尾まであんが入った代物はぼくの性に合わない。
ぼくにとって食べ物といえばどうしてもこのての甘いものがテーマになる。これらについてぼくが熱弁を振るえば振るうほど大抵の人は遠ざかっていく。それはきっと世間の大部分の人間が辛党だからだろう。懐石料理にしてもフランス料理にしても酒やワインを飲む人の料理で、ぼくのような甘党からすれば、デザートを別にすればそれほど美味しいとは思えないのである。
酒が飲めないなんて人生の楽しみの半分を捨てたも同然で不幸だなんて言う人がいるが、ぼくから言わせてもらえば、おはぎやぜんざいのあのとろけるような官能的な味わいがわからないなんて、セクシュアルでないなあと哀れみさえ覚えるのである。もしぼくの人生から甘いものが奪われたらきっとぼくの作品のエロティシズムは無くなってしまうことだろう。
懐石料理やフランス料理じゃ山水画かアール・ヌーボーみたいな作品になってしまいそうだ。ああコワイ、コワイ。
1月17日
前回、早朝散歩を始めたということを書いた。今は散歩する人のことをウォーカーと呼ぶそうだ。この欄の担当編集者から教わった。散歩という言葉から連想するのは、気分転換に外をぶらつくというイメージだ。昔は年寄りは早朝ぶらついていた。今は年寄りだってぶらついている人はいない。ちゃんとウォーカー・スタイルのコスチュームでスタスタと両腕を振りながら早足で歩いている。
その表情はかなり真剣だ。何かにかけているという覚悟さえ感じる。いうまでもなく健康にかけているのだ。病気はしたくない、できれば長生きしたいという願望の表れである。人間は残り時間が少なくなるとやたらと健康に神経を使い始めるようだ。
散歩を始めて一週間もしないうちにぼくの頭の中から「健康」という二文字が薄れてしまって、ただの習慣になってしまった。散歩コースも決まらないまま足の向くままの遊びのスタイルに変わってしまった。好奇心が優先してとんでもない方向に行ってしまって、迷い子になることしょっ中である。
散歩していると五感が敏感になる。次々と変化する風景、耳に入る鳥の声や川のせせらぎ、樹木や花の香り、口の渇き、汗ばむ身体。その分思考の働きはにぶくなるが、時には考えないというのも精神衛生上必要なのではないだろうか。精神に効くのは散歩の副産物だが、肉体の効用としては便秘ぎみだったのが二日で完全解消され、もっぱら快眠、快食、快便である。
生活も変わった。朝早起きは習慣化されたが、今まで何もしないまま終わっていた午前中の時間が有効に使えるようになった。朝八時からアトリエで制作も出来るし、午前中読書にも使える。その代わり夕食が終わるともう身体は睡眠を要求し始める。こういう生活を老人タイムとでもいうのだろうか。でも昔は誰でも日が沈むと床に入り、日が昇ると同時に起床していたわけだから、僕は昔の生活を始めたに過ぎないのだ。
そういうと何でも昔のものが好きになってきた。昔の絵、昔の小説、昔の映画、昔の風景、昔の人物、昔の食べ物という具合に昔が趣味になってきた。これを年を取った証拠だといわれてしまえばそれまでだが、時代の潮流を追っかけるよりも時代に逆行する方が発見も多い。だからぼくにとって新しいものは未来にあるのではなく、むしろ過去にあるように思う。だからぼくの未来は過去なのである。
今や散歩が生活の中心になろうとしている。とはいうものの散歩自体が目的で、健康管理を目的するウォーカー派ではない。あくまでもぼくは散歩派である。芸術が遊びであるように散歩も遊びだ。散歩三昧である。芸術と生活は一致するものだから、どこかで芸術と散歩は一致しているはずだ。Y字路ばかり描いているのも散歩と無関係ではなさそうだ。
1月14日
小津安二郎さんがよく行かれた東銀座の天麩羅や「おかめ」に行った。二間しかないお店だが、中々しゃれた店だ。この店に小津さんは原節子さんら、特に佐田啓二さんとはよく来られたそうだ。年末からずーっと小津映画に浸りきりだったので、この店に来れたのは夢のようだった。ひとしきりこの店で小津さんの話を聞いたり、小津映画を語り合えたのは非常に幸せだった。ここには小津さんが生きた時間が今もそのまま止まったままでいるような気がした。人生に於ける幸せってきっとこんな瞬間が味わえるような瞬間をいうのではないだろうか。
永井一正さんの個展が銀座のgggで目下開かれているが、そのオープニングが終わった後、永井さんとギャラリーの人達で食事に行った。食卓を囲んでこの日の主役の永井さんの話をするのが礼儀なのに気がついたら話題は田中一光さんの回想に終始していた。なぜだろう?と誰もが思った。実は次の日が一光さんの命日だということがわかり、全員納得したものだ。生と死は断絶しているのではなく地続きなのだ。
1月13日
この間暖かい日、土屋さんと自転車で遠出しました。土屋さんというのは黒澤明さんの「七人の侍」でデビューし、その後黒澤映画の常連になった俳優さんですが、家が隣町で電気自転車を見せたいんだと思うのですが、それに乗って、「どこか行こうよ」と誘われ、野川沿いにどんどん上流に行きました。土屋さんは植物とか動物とか、なんでも物知り博士なので、川に浮かんでいる鴨の種類をいちいち「あれは土鴨、これは尾長鴨」と教えてくれるのですが、ぼくは鴨より鯉の方に興味があるので、あまり聞いていないと、「鯉というのはねえ・・・」とまた鯉の講釈が始まるのです。するとまた鯉から離れていくぼくをつかまえて、「三船ちゃんはねえ・・・」と今度は三船敏郎の話になりました。そして三船さんが刀で人をバタバタ切る真似をしてくれるのです。腹がへったのでファミリーレストランへ行こうよ、ということで行くと、サラダやコーヒー、紅茶、などなど飲み放題、食べ放題で、結構食べ過ぎました。ファミリーレストランにはまりそうになり、また帰る頃はお尻が痛くなったという一日。
1月10日
夕べ、そろそろ寝ようとした頃「愛しているわよ」といきなり。こんな電話をしてくるのは美輪明宏さんしかいないのです。「黒蜥蜴」を演っている時は凄みのある声で「黒蜥蜴よ」といって掛かってくるのです。電話でのモシモシ抜きなので、こちらは本当に黒蜥蜴かと思ってしまうじゃないですか。夕べの電話の内容は公表できないけれど、まあ生き方説法みたいな電話でありました。美輪さんと瀬戸内寂聴さんの電話は長いので椅子を持って来て電話の前に座るわけです。ぼくは寝るのが早いので、夜は滅多に電話に出ないのですが、たまに出るとこの二人だったりします。最近夜は小津安二郎の映画で結構放映される作品全部見ています。よく似た話、同じ俳優、同じようなセットで、どれがどれだかわからなくなりますが、今の自分の生活の中に小津映画の生活がそのまま流入して来て、虚実一体という感じは一種の快感です。創造より生活というか生活の反映が創造であると感じるのは小津安二郎の日記がそう語っているように思えます。
1月5日
「平賀源内展」のポスターを作ることになって、色々資料などを見ていく内に、この人は手に負えないという結論に早々達してしまった。平賀源内という人がしたことをいちいち系統的に認識したり理解しようと思ってもその逸脱したキャパシティーの大きさに、こちらの頭がおかしくなるだけなので、ぼくは勝手に好きなようにポスターを作ることに決めるしかなかった。
江戸東京博物館の「源内展」の会場に一歩足を踏み入れた途端、厖大な脈絡のない展示物を前にして、これらの物や作品が平賀源内といかなる関係にあるのかという疑問に襲われてしまった。彼が発明したものや、人に描かせた絵や、自作の絵もあったり、源内焼きとかいう焼物があったり、戯作者であったり、西洋の珍しい本や地図のコレクターであったり、金山の開発を始めたかと思うと、金唐草紙を作ったり、櫛まで手掛け、さらに貝の収集、採薬などなど、もう森羅万象を一手に引き受け、日本中を旅しながら様々な名士や芸術家との交流を結んで数えきれないほどの文化事業を各地で立ち上げ、再び風のようにどこかに立ち去って行ったという感じではなかったのだろうか。ここんとこが子供ぽくっていいじゃないですか。彼の一生は見事なインファンテリズムでつら抜き通したのである。彼の最期は人をあやめ、自らも一ヶ月後に獄中で病死している。イタリアのカラバッジョという画家も殺人を犯したが、日本にも同じような芸術家(?)がいたことは初めて知った。
会場には鈴木春信や司馬江漢らの名作がずらりと展示されているが、今や大巨匠である鈴木春信や江漢に平賀源内が大きい影響を与えたという。「ほんまかいな?」と耳を疑うような話だが、技術指導までしたそうな。もしこういう人が今いればぼくは早速弟子入りしたいところである。
このように見てくると平賀源内とは一体何者なんだ、ということになる。彼自身は歴史に残る名作を残したわけでもないでしょ。何者であるということは、何をしたかということではなく、どう生きたのかということにわれわれ興味は傾く。名作なり一点の傑作を残すことよりも、その人間が如何なる生き方をしたかが問題であリ一種のバサラ的人間でもある。今でいえばマルチ人間とか、プロデューサーとか、コンセプチュアル・アーティストに属するのかも知れないが、現代ではこの種の人種はマスメディアを舞台に活躍する。だけれど例え源内が今日生きていたとしても果たしてメディア人間であり得たかどうかは疑問だ。数奇であり、バサラ的人間はなかなかメディア的にはなれない宿命がある。
何しろ時代に先行しているからだ。二十一世紀の初頭に江戸のど真ん中で自分のこんな大きい展覧会が開かれていることを知ったら、どんな顔をするのだろう。
=同展は江戸東京博物館にて1月18日まで。
しかもどれひとつ最後まで全うしなかったというのである。
森 小知さん
「松島の夜」という作品は目下東京の世田谷美術館の「世田谷美術展2004」に出品しています。もし上京の機会がありましたら2月1日までです。そこで現物を観て下さい。また日記に関しては「プリンツ21」という雑誌に数年前から連載しています。日記といっても心情は書かないで、もっぱら事実の羅列ですけど。
1月1日
新年おめでとうございます。飲めないおとそをいただいて、お雑煮を食べ、近くの神社に初詣では毎年の行事。まさか凧上げや、カルタ取りはしないまでも、昔の生活というか古風な生活は嫌いじゃないです。子供の頃は正月になるといつも新しい下駄を買ってもらったことをふと思い出しました。