10月31日
 明日土曜日は福岡市美術館へ行きます。ここにコレクションされている作品の展覧会と講演のためです。帰りに山口県の錦町に寄ります。3年前からこの町の観光ポスアーを作っています。次は第4弾です。水がきれいで6月にはホタルが出ます。幽霊も出ます。平家の落ち武者数人、車道を歩いているのを見た町役場の人がいます。UFOも出ます。川の深みからいきなりUFOが上空に上昇したのを見たやはり町役場の人がいます。何が起こってもおかしくないような山奥の町です。瀬戸内海も見える見晴しのいい牧場のある場所に建っている、らかん高原交流センターの天井画を描いています。赤い星座の夜空に鯉が螺旋状に泳いでいる巨大な絵です。床に寝そべって見ると気持ちいいですよ。

10月30日
 朝日新聞の「いつもそばに本が」の最終回は11月2日(日)です。何しろ自分の人生を3つに分けて、そこに本のことを短い文章で書くのは一苦労。本屋には殆ど毎日行きます。古本屋も毎日。古本屋では殆どの絵の資料が中心。一般書店ではやはり文庫中心ですかね。明治、大正の小説が好きなんです。現代物は殆ど読まない。最近読んだ現代物は、なかにし礼さんから送られた「赤い月」と、装幀をした筒井康隆さんの「ヘル」。両方共面白かったです。今は来春文庫本になる「コブナ少年」(十代の伝記)の校正をしているところです。もう一度書き直したい衝動を押さえて読んでいます。この本を書いて気がついたのは10代の時のような生き方を今すればどんなに生きやすいか、ということをしみじみ感じます。ぼくにとって生き方の原点は十代です。十代が手本です。

10月28日
 ベッドに入ると明日の散歩コースを考えますが、体はその通りにしてくれません。家の門を出て右に曲がるつもりが、瞬間に左に曲がってしまいます。昨夜考えたコースを無視して体は勝手にどんどん何処かにぼくを連れて行きます。まあコースを考えない分助かりますが、こんな時は大抵帰るのに一苦労です。今は迷っているので楽しいけれどその内迷わなくなると、何処か遠くまで自転車で行き、そこに自転車を止めて、知らない道を歩くことになるのではと予想していますが、自転車の所に無事帰れるかどうかは全く自信がないですね。散歩は人生に似ていて、同じ道ばかり歩いている人もいるけれど、ぼくみたいに結果を考えないで歩いている人もいるかなあ?散歩の醍醐味はやはり道に迷うことですね。

10月27日
 五木寛之という日本中の寺を廻って情報化している作家がやたらと「目垢」(めあか)という言葉を使い始めていますが、この語は元々ぼくの造語なんですよね。すでに多くの人の視線に曝された事物に対して「手垢」(てあか)ならぬ「目垢」と捩ったもので、ぼくは気に入って、度々エッセイなどで「目垢」について書いているのですが、この言葉が美術関係者の目に止まり、そういった人がどうやら使っているようで、それをまた五木氏が面白がって色んな所で使い始めたという訳です。今朝(10/27)の朝日新聞の彼の連載エッセイでも、この「目垢」をテーマにして書いています。著作権損害という訳にもいかないが、こういう人が乱発すると「目垢」にもとうとう手垢がついたとしか言いようがない。
 「目垢」とはぼくは大衆の目に既に曝されたものに興味があります。例えば絵葉書や聖画などがそうです。大衆はそう言った複数化されたものに、願望、希望、夢、祈りなどを託します。そしてそれはいつの間にかイコンと化するのです。そうした大衆の視線に曝されたものをぼくは「目垢」と呼ぶことにしているのです。

10月24日
 先日筒井康隆さんの家に遊び(仕事?)に行った。原宿のど真ん中に庄屋造りの家を建てられたのだ。これがまた素晴らしかった。話は筒井さんの近著「ヘル」を装幀したことから死後の世界や夢の話に及んだ。まあこの話は文春の書評誌を読んでもらえればいいのだが。筒井さんの書斎に案内されて、そこにあった本棚に白い装幀だけの本が凄い沢山並んでいてそれに感動したのだった。これは見てみないと分からないので、想像してもらうしかない。まさに白日夢のようだった。

10月23日
 この間の日曜日の日本経済新聞の文化欄に「意識と肉体と」というエッセイを書いたが、これがオシッコが出るタイミングについての話だ。オシッコは生理現象なんだけど、ボーットして便器の前に立っていてもオシッコは出ない。「よし行くぞ」と声こそ掛けないけれど、意識を下半身に集中すると出る。まあ当たり前のことだが、このことがあんまり不思議だったのでついつい書いてしまったのだ。つまり人間の意識が肉体を支配しているみたいな話なんだ。「病は気から」というがこれも意識が肉体に及ぼした結果だ。案外、肉体と意識はばらばらに考えているがひとつのものであるということを駅の公衆便所の便器の前で身体を通して「悟った」話なんだ。

10月22日
 1964年といえば今から39年前になるかな。「堅々獄夫婦庭訓」 (カチカチヤマメオトノスジミチ)と題するアニメーションを作ったことがあった。それが「KISS KISS KISS」、「アンソロジーNo.1」のニ作品を加えて今度DVDになって発売された。当時、草月会館でアニメーションフェスティバルというイベントがあって、それに出品するために作った作品で、全くの手作りアニメで、一枚一枚絵を描いたものだ。「KISS KISS KISS」などは撮りながら絵を破いていったので撮り終わった時は一枚も残っていなかった。そんな原盤フィルムが長い間行方不明になっていたのが、ある所から見つかって今度DVDになって初めて陽の目を見ることになった。一度見ていただきたいと思うが、きっと時代を感じることだろう。

10月20日
 残された時間のことを最近はよく考える。あと20年もあるとは思えない。80歳まで生きたとしてもあと10年そこそこだ。過去の10年なんてほんの数年前のように思える。これからの10年もそう考えるともう目の前だ。本屋へ行っても「死」とか「老い」の本ばかり目につく。いやこの手の本が最近うんと多くなっているように思う。死を目の前にしていかに上手に老を生きるかという人生の最後のテーマに取り組む時期に来ていることは確かだ。若い人はこんなことを考えないだろうけれど、死は確実に誰にでも平等にやってくる。死を考えることはそんなに恐ろしいとは思わない。むしろ死を考えることは若い頃からの趣味だったかも知れない。作品にも死はぼくの重要なテーマになっている。生の側から死を見るのではなく、死の側から生を見る視点を持たなければ、ちゃんと生のなんたるかが分からないのではないかと思うのだ。ぼくは時々自分が死んだ人間として現実を眺めるようにしている。といって本当に肉体のない自分にはなれないから、あくまで空想である。タカが人生、タカが芸術じゃないかとね。何やら大袈裟に生きてきたのがおかしく見えるのだ。これからの人生はできるだけ大袈裟に生きないことだと反省する。今夜(19日)はぼくと同じ年で亡くなった知人のお通夜がある。

10月19日
 毎朝散歩をしていると、一目見て散歩のプロだなあという人がいます。散歩のためのファッションで身をかため、両手をピストンのように回転させて、早足でぼくのような散歩のアマチュアを追い越して行きます。その後姿がこれみよがしに得意がっているのが分かります。ジョギングをしている人も多いです。この寒いのに半パンツにランニングシャツ、そのくせ何故か手袋をはいています。手袋をはくと何となくプロに見えるからですかね。こういう人は足早に抜いて行きます。そして「おはようございます」と声を残して去って行きます。健康に気をつけている人は皆仲間だと思っているのか、それとも先輩ずらをしているのかよく分からないが、そのどっちかでしょう。かと思うと重い足を引きずりながら息も絶え絶えに走って来る人もいます。何でこんなに苦しい思いをしながら走らなきゃならないのかと疑問に思えてきます。変わり種では上半身裸になった老人がいつも脱いだ衣服を丁寧にたたんでベンチに並べ、妙な格好でくねくね曲げたり伸ばしたりしていますが、どうしてこんな寒い朝に裸になっているんでしょう。日に日に衰えて行く老化にきっと挑戦しているのでしょう。そういう意味ではぼくも老化に挑戦しているのかも知れません。だけど散歩をするようになって自分の肉体に対する関心が強くなってきたことは確かです。肉体が要求していることが耳を澄ませば、勿論声なき声ですが、よく聞こえてくるような気がします。寒い日でも1時間も歩くと身体中いっぱいに汗をかきます。シャワーの後は一日が気持ちいいんですよね。

10月14日
 ぼくはテレビを見る時、一局の特定の番組だけを見ると言う事は絶対にないです。リモコンで各局のそれからBSやWOWOWなどひっくるめて同時に全部パチパチとチャンネルを変えながら見ます。映画も2,3本同時に、その間にクイズやバラエティー、野球、ドキュメント、ニュースなどが次から次へと現れるけれど、それでも大体全部内容が解ります。こんな見方は大抵の人がしていると思って、お客さんやうちの事務所の者に聞くと「そんな人はいない」という反応だったけど、ひとつの番組だけを初めから最後まで見ている方が不思議じゃないですか。どうせ大した番組は少ないので、もしろこんな見方をした方が今のテレビには相応しいのでは、と思うのですが皆様は如何ですか。

10月12日
  マリア・カラスの声の変化をなんとか絵画で表現してみたいと思っている。彼女の声は天性のそのものだが、彼女の妥協しない心も天性のものだ。人間の魂は本来妥協を許されないものだと思う。

10月10日
 原監督の辞任劇で巨人のコーチが総なめに辞めてしまった。また川相が現役選手として続行する為に他球団への移籍を希望している。これで球団の思惑は崩れてしまった。これでも巨人ファンを名乗る巨人ファンっていると思いますか?

10月9日
 朝の1時間の散歩は坐禅にも似ているように思う。坐禅では堂内を歩く坐禅があるが、肉体が動いている時には心が静止していることに気付く。散歩は馬鹿に出来ない。肉体こそが人間であり「私」であることを認識させてくれるからだ。

10月7日
 最近「自分ごと」に対して疑問を持ち始めた。作品もエッセイも「自分ごと」主流だったが、どうも「自分ごと」に深く関わっていると自分を超えられないように思うからだ。「自分ごと」にこだわっている以上なかなか個になれない。つまり普遍的な物の見方や表現が出来ないからだ。そして危険なのは自分の弱点やコンプレックスを売り物にしかねないからだ。芸術は「自分ごと」から出発して、普遍に至らなければならないと思う。エライ作家でも「自分ごと」を売り物にしている人が多い。