4月29日
遠い視線近い視点 10/16/2003 掲載
東京新聞連載より
虚構性と現実性
八月から始まった東京都現代美術館「横尾忠則森羅万象」展がいよいよ今月二十七日で終了することになった。これほど大規模な個展は初めてだったので、準備にたっぷり時間を取ったものの最後の追い込みは体力との闘いだった。
何しろ四十年間の集大成ということもあったが、絵画作品をこれほど一堂に集めたのは今回が最初で、ポスター、版画、立体、ビデオ、ライト・ボックス、インスタレーションなどなど約四百点が高い壁いっぱいに展示された。この美術館は天井が高過ぎるという理由で使い勝手が悪いといわれていたが、今回に関しては、そのことを逆手に取ったために大変評判がよかった。
人から展覧会についての感想をよく聞かれるが、時間の経過の速度にまず驚く。四十年前の作品でも、つい二、三日前に描いた感覚に襲われ、思わず加筆の衝動にかられるんですよと語ってきた。空白の四十年が一瞬に「今」となって、過去、現代、未来までが複合してしまうのである。そして作品の虚構性と現実性が分け難く、時にはこのことも複合してしまうのだった。
「横尾忠則 森羅万象」 紙にオフセット103X72.8cm 2002年
そして今しがた筆を入れたいと思った自作が次の瞬間、まるで他人の作品のように思えることがある。作品が急速に接近したかと思うと、次の瞬間違えてしまう。主観が消えて客観的な自分がそこに立っているような不思議な感覚だ。
ぼくは二十年ほど前に、いわゆる「画家宣言」をしたことがある。グラフィックデザイナーから画家に転身するためだった。ところが今回こうして一九六五年のシルクスクリーンのポスターと並行して絵画作品の制作を行なっており、その後、版画作品などに移行しながらも今日までずーっと画家としてのキャリアを積んでいたことに気づいたのである。
何もわざわざ八十年代の初頭に「画家宣言」などする必要がなかったのだ。個展のオープニングの挨拶でそのことに気づいたぼくは冗談半分、本気半分で「画家宣言取り消し宣言」を行なった。大部分の人たちは笑って済ませてしまったが、ある美術誌はこの宣言を重視して、「歴史的瞬間に立ち会った」と随分大袈裟な表現を取った。
ぼくの実生活と創造生活はしばしば虚実が反転して、大いなる矛盾を生起させ、自分自身でとまどうことがある。でもこういう自分の行動こそ自分の性格、いやDNAかな、と思ったりして大いに楽しんでいる。この二ヶ月は「森羅万象」展のことで気持ちが落ちつかずソワソワしっぱなしだった。そのくせ会場にはほとんど顔を出さなかった。
でもあと十日ばかりになった今、最終日までは毎日会場に足を運んで、観客の想念エネルギーのシャワーをあびるのも悪くないような気になってきた。
4月26日遠い視線近い視点 10/2/2003掲載 東京新聞連載より
銀幕のスター
「See You Again」 油彩/キャンバス182X227.5cm
2002年
開催中の東京都現代美術館の新作のコーナーには原節子を描いたぼくの作品が展示されている。「この女性は原節子ですね」と映画のオールドファンが聞く。誰でも知っている日本で一番美人の女優さんである。そんな原節子をぼくは自作に何度も起用している。
「起用」なんてまるで映画に出演させるみたいな言い方だけれども、ぼくは作品の中にしばしば映画スターを登場させる。そんな時ぼくはまるで映画監督になったみたいで、好きなスターを起用するのである。時には海外との合作映画並みに現実には絶対不可能なスターの夢の共演を演出して見せることができる。
原節子を初め、三船敏郎、高倉健、朝丘ルリ子、ショーン・コネリ−、マリリン・モンロー、ソフィア・ローレン、ナタリ−・ウッド、ロンダ・フレミング
ジョニ−・ワイズミューラ−、アニタ・エグバーグ、アラン・ドロン、ロミ−・シュナイダ−、ジェーン・バーキン、エリザベス・テイラー等々の超豪華スターがぼくの映画、いや絵画の常連出演者である。
ぼくの作品の常連は大抵が往年の銀幕スターである。中には井川遥みたいな売り出し中の若手もいるけれども。こういう言い方をすると怒られるかも知れないが、ぼくは古いタイプの人間が好きなのである。人間に限らず美術、文学、映画、演劇すべて古典ものに惹かれる。
話は違うが現在、能、狂言、歌舞伎等は仕事がらみだが、最近は文楽にはまっている。いずれ文楽についてはこの欄で取り上げるたうもりだ。現代武術なんていう最も新しい芸術をなりわいとしているが、ぼくの視線は違い古の時間と交錯しているのである。
話を元に戻そう。絵画の中の映画について語っているはずだった。映画に絵画が与えた影響は実に大きい。では絵画が映画から受けた影響は?今日映画はわれわれの生活や意識とどこかで深く結びついている。そんな意識が例えばアンディー・ウォ−ホール、アレックス・カッツ、ハイパーリアリズム、さらにマグリットやダリの作品の中にも深くかかわっている。絵画と映画の交謀によって大衆芸術の領域はうんと拡大されるように思う。だから映画館に行くように美術館に足を運んでもらいたいと思うアーティストはぼくだけではあるまい。ダリは自分の美術館のことを「劇場」と呼んだ。俳優の演技を観るように作品に接してもらいたいという気持ちからそう呼んだのだろう。
4月24日 遠い視線近い視点 12/4/2003 東京新聞連載より
描き忘れた「弓張月」

「椿説弓張月」 紙にオフセット 103X72.8cm 2002年
歌舞伎座十二月公演で「椿説弓張月」が上映されるが、この宣伝ポスターに1969年、国立劇場での初演のために制作したポスターを再使用することになった。
そのことを提案されたのは今回の「椿説弓張月」に主演される市川猿之助さんだが、猿之助さんは初演にも出演しておられ、その時のポスターの印象が記憶にあったようである。
猿之助さんに初めて会ったのはこの時だが、その後、スーパー歌舞伎「新三国志」シリーズのポスターを依頼されるようになってから仕事仲間の間柄となった。以前から猿之助さんの芝居はよく観ていたので、一緒に仕事ができることに、ぼくは大喜びだった。
「椿説弓張月」の初演時には演出・脚本を担当された三島由紀夫さんからポスターを頼まれた。すでに三島さんとは何度か一緒に仕事をしていたがポスターの仕事は初めてだった。元々歌舞伎に造詣が深い三島さんとて、歌舞伎は初めての挑戦だったので、ポスター一枚にしても演出の一部と考えておられ、ポスターのラフスケッチまで描いて持って来られた。
この「椿説弓張月」の原作は滝沢馬琴で挿絵は葛飾北斎が描いている。その北斎の絵草紙を参考にしてポスターを作りたいというのが三島さんの願いであった。それもシルクスクリーン方式という版画の技術を使って。だから限定枚数で部数はせいぜい百枚程度だったよに思う。
依頼を受けて間もなく三島さんがぼくの仕事場に表れて、「できたかい」といわれるのだが、そんなに早くできるはずがない。また数日経って突然表れて、「おっ、やってくれるね」とぼくの肩越しに、他所の仕事をしていることを承知の上で、皮肉な催促である。何しろ国立劇場の裏がぼくの仕事場だったために、劇場に打ち合わせに来られる度にぼくの仕事場に顔を出されるのであった。
いつ三島さんに襲われるかしれないぼくは戦々恐々だったが、完成した作品に対して新聞で「明治以来の演劇ポスターの最高傑作」と賛辞を贈られた。三島さんのアートディレクションに従ったわけだから、三島さん自身の自画自賛ともとれる。
ところが今回再制作のために当時描いた原画を引っぱり出してきた所、肝心の弓張月を描いていないことに気づいた。三島さんのラフスケッチにはもちろん弓張月がちゃんと描かれている。ポスターに弓張月が描かれていないのに三島さんからのクレームもなかった。
これはまずかったと思ったぼくは今回の歌舞伎座公演のポスターには雲間から覗く弓張月を描き添えた。三十三年後にやっとこのポスターが完成したというわけだ。三島さんがあちらの世界から弓張月がないことをぼくに気づかせてくれたのかもしれない。この芝居の象徴でもある弓張月を描き忘れたことに三島さんを始め、作者のぼくだけでなく誰一人このことに気づかなかったのも実に不思議なことであった。
4月23日
遠い視線近い視点 11/6/2003 東京新聞連載より
「模写こそ絵画創造の原点」
「巌流島の決闘」 満5歳の時の模写作品/紙にクレヨン
以前NHKテレビの「ようこそ先輩・課外授業」という番組で、郷里の小学校六年生の生徒を対象に美術の授業を行なったことがある。ぼくの提案は全員に模写をさせることだった。美術の時間に模写を奨励する先生は恐らくないと思うがぼくはあえてそれをやることにした。
というのもぼくの美術の原点は模写だったからだ。昔も今も美術の時間では模写はタブーに違いない。個性尊重を重視する美術の授業ではけしからんことかも知れない。
しかし、とはいうものの小学校の絵画コンクールの審査などに行
くと、学校単位で誰も彼もが同じモチーフで、まるで一人の子供が描いたのではないかと思うほど、そっくりの絵を応募してくる。これは一体どういうことか。そんな疑問を抱いていたぼくは、個性尊重といいながら均一的な絵を描かせる教育に対して、皮肉ってやろうという気持ちも動いて、このような授業を提案したのだった。
結果は全員が驚くほど個性的な絵を描いたのである。模写とは描く対象と寸分違わずそっくりに描くべきだが、それができる生徒は一人もいなかった。およそ模写の概念からはずれた不器用な絵ばかりで、ぼくは笑ってしまった。
だけどである。しかしそこにはオリジナルな観察とピカソもびっくりするようなデフォルメされた見事な絵画作品があったのである。ある意味で模写の対象を超えていて誰の絵にも似ていない。これらの作品を見て嬉しくなったぼくは、さらに次の課題として、今度は模写の見本もそれを模写した自作を見ないで、記憶だけで再び同じ絵を描くことに挑戦させた。
大部分の生徒は短時間でそれをやってのけた。二度目の記憶だけで描いた絵の方が最初の直接的な模写作品よりも、もっと自由でいきいきした作品に仕上げた。これらの絵はすでに模写とはいえない自立した立派なオリジナル作品であった。
というのは、最初の絵を頭で記憶しているのではなく、肉体がちゃんと記憶していて、ただ手を動かせば自然に指先から色や型ちが流れるように表れたのにすぎなかったのである。このことは絵画創造の原点でもある。だからぼくは彼等の絵に感動したのだった。
ぼくは子供の頃から模写が得意だったので、見本に近づけて描けたが、それだけに個性表現は貧しかった。もし現在のぼくにあの子供達が描いた自然にデフォルメされた模写ができればどんなに力強いことかと、彼等を羨むのである。
ピカソがマネやべラスケスの絵を素材にしながらピカソ流にデフォルメしたように、子供の模写はなかなか独創的であった。今さら彼等を羨ましがっても仕方ないので、ぼくは今までもぼくの子供時代そのままに、模写を続けている。子供時代のクセで写生をする代わりに写真を撮って、それを見て描いている。このことは一度二次元という平面に置き換える作業だが、これも絵画そのものが平面性を特性としているという理由からだろうか。
4月22日
遠い視線近い視点 11/20/2003掲載分 東京新聞連載より
「富士山は美の化神」
「木花開耶媛の復活」 194×194cm アクリル・コラージュ/キャンバス 1998
三日ばかり富士山の裾野の、ある出版社の保養所で単行本の執筆のために宿泊していた。ここには何度も来たことがあるので別荘に戻って来たような気分になる。以前、この出版社から出した「夢枕」という夢の絵を描いた時などは一ヶ月以上滞在した。
この場所が気に入ったのは建物内が広々しており、部屋の大きいガラス窓越しに巨大な富士山が迫るように見えるからだ。富士山を見ながらの仕事はこの上なく贅沢な気分にさせてくれ、インスピレーションのすべては富士山からやってくるような気がするのである。
ぼくの世田谷のアトリエからも富士山が遠望でき、富士山を見ない日はない。だから富士山の一部である裾野で感じる富士山に対する想いは格別で、他人のような気がしないのだ。
夏に来た時の富士山は、黒い地肌を現していたが、この季節には白い雪がかぶり本来の秀麗な姿でぼくを迎えてくれた。抜けるような透明な青空を背景に白銀に輝く富士山に真っ赤に紅葉した樹々を配すると、もうそれは見事な一幅の絵画作品になる。
こちらが富士山を眺めているのか、向こうから眺められているのか、その関係がわからなくなるほど一体化してしまうのだ。富士山の表情は一日中光と影によって変化し、巨大な造形物と化して何やら語りかけてくるのである。
富士山の護り神は木花開耶媛と聞くが、この女神は女性的というより男性的な性格かもしれない。優しいが非常に強いエネルギーとパワーの持ち主に違いない。こういう女神を芸術の美神に持つと魂に金棒だろう。今日からぼくのミューズ神になってもらえないかと思わず心の中でお願いしてみたい。
ぼくの中で富士山は美の象徴であると同時に美の化神として何度も作品の中に登場してもらっている。美は思想を超えて生命の源である。美はぼくにとって神であり、絶対的な存在だ。だからその象徴が富士山なのである。
無数の星空の下では富士山は恐いような形想をしている。また早朝のまだ空に星が残っている時間の富士山は実に霊的で神秘的だ。このような富士山を眺めること自体が何か宗教体験のような気がする。ここに宿泊すると早朝の富士山が拝みたくなっていつも早起きをしてしまう。冷たい空気を肌に感じる時、富士山の霊波が呼吸として体内に入ってくるのがわかる。
芸術は内面を表現するのではなく、外面を描くべきだということが富士山と終日対話していると自然にわかってくる。内面なんていうのはアーティストのごう慢でそんなもの描いてどうなるんだ、形想がすべてで、それこそが美の表現ではないかと富士山がぼくに語りかけてくるのだった。
4月14日
YOKOO POST OFFICEで紹介している「KIDS IN N.Y」と題する絵本の著者はN.Y在住のTHE YOMIURI AMERICAの編集者で、ぼくがN.Yに行った時、何度も取材を受けた三浦良一さんという方が出版(偕成社)された方で、大変絵が上手で、きれいな楽しい本です。三浦さんが絵を描く人だと知らなかったぼくは、この本を見て、日本人離れした感性と表現にびっくりしたのです。一度本屋で手に取って見て下さい。
4月9日
半年振りに郷里に帰って絵を描いてきました。Y字路の第一号になった場所をもう一度違った表現で制作しました。最初の絵となかなか同じようには描けないものです。実際に場所の様子も変わっているのです。と同時に描く環境も異なります。今回は美術館内部のアトリエで描きました。今までは友人の画家の来住しげ樹さんという風景画のスケッチの描き方のような本を2冊も出版し、目下3冊目の準備をしている人で、彼の山の中のアトリエを借りて制作してきましたが、今回は号数(100号)も大きいということもあって、美術館で描くことになりました。
市役所の人や新聞社の人達が入れ代わり立ち代わりやってきました。来住さんは描いている横で一日中いることもありましたが、全然気になりません。描いている絵について色々話しながらですが、これが結構リラックスと集中になるもんです。マネがアトリエに友人の画家達を沢山集めてアッという間に描き上げたといいますが、ぼくも3日で完成しました。一種の公開制作みたいなものです。人は逆だと思うかも知れないけれどかえって自分に対する弧
だわりがとれるものです。
郷里から帰ってみたら庭の桜と桃が満開でわが家の桃源郷に感動してしまいました。残念なのは風です。どういうわけか毎年桜が満開になると雨か風が邪魔をします。だけど桜の木の下が今度は花びらでびっしり敷かれて、地面
が満開です。日に日に陽が沈む時間が長くなっていくのが楽しみです。夕方の時間がもしかしたら一番好きかも知れません。センチになるということは滅多にないですが、ぼくはこの時間帯になると急に哲学的になって、色々と考えるんです。まあ、生きるとか創造についてですがね。しかも歩きながらとか自転車に乗りながらです。
4月1日
30日の日曜日、朝、北原照久さんが横浜から車で迎えに来てくれて、彼の海の別 荘に行くことになったが、あわてて2階に駆け上がろうとして足を踏み外して、左足親指を強打。靴もまともにはけないまま車に乗る。北原さんの海の家は建物が半分海の中に建っていて、真正面
に富士山や江ノ島が見えるという最高のロケーション。その家でわかめシャブシャブをいただく為に妻と招かれたのでした。庭である海で取れたてのわかめのシャブシャブは絶品。そのあと北原さんが加山雄三さんから教わったという「キミトイツマデモ」という卵うどんもご馳走。きれいな夕日を見て、海の空気に触れた気分爽快な一日でありました。翌日早速足のレントゲンを撮るが、骨折は免れ、痛みをガマンしながら歩いています。まあこの足で2日から郷里の西脇へ行くのは少しつらいかな?という感じですが、ケガの原因はいつもオッチョコチョイの性格から来ているようです。世のオッチョコチョイの方はご用心下さい。