3月24日
東京国立近代美術館のゴッホ展のオープニングへ行く。1時間以上遅れて行くが、入口辺りには人でごった返していて、ワインを飲む人や寿司をほうばる人達でいっぱい。人混みを避けてやっと展示会場に入ったもののこちらも行列。ゴッホの作品はそんなに多くなく、彼の周辺の画家の作品ばかりが目立つ。ゴッホを研究するための展覧会という印象が強い。すでに画集で知っている作品がほとんどだが、実物を見たのは初めてというものばかりだったので、ぼくにとっては新しい発見があった。でも本当の気に入った作品の前では長時間じっくり眺めたいものだが、人の迷惑を考えるとそんなわけにもいかない。だから帰ってから再びカタログを開くことになる。作品は不思議なもので人の眼に触れれば触れるほど、光を発する。その光をわれわれは名作と呼んでいるに違いない。
3月19日
わがやの猫は家の中ですれ違っても知らんぷりしているくせに、外でばったり会うと、えらい喜ぶ。すり寄ってきたり、地面に寝転がったり、走ると一緒になってついてきたり、ところが家の中に入るとガラリと性格が変わって他人行儀になってしまう。でもお客様が見えるとまた急に騒々しくなってなにやら訳の分からぬパフォーマンスなどする。何を考えているのかよくわからない奴だ。
3月18日
90%以上の人が携帯電話を持っているそうだけどぼくは持っていない。持っていないことを自慢にしているわけではないが、持っていないことで困ったことはない。用件はほとんど仕事場で済ませるし、滅多に家から電話をすることもないし、外部からかかることもあまりない。誰かと常につながっていることはぼくにとっては煩わしいので、外出(旅行)してしまえばこちらの勝ちだ。電話をかける心配も、かかってくる心配もない。メールは全て葉書を書く。手書きの葉書は最近あまりいただかないが、それでもぼくはなるべくお礼など葉書で書くようにしています。これは書く側の気分の問題である。用があって書いても返事は電話だったりするが、別にこれでもいい。もし携帯でも持ったら葉書を書かなくなるかも知れない。そう思うとそんな自分はきっと淋しいだろう。
3月15日
ぼくは野菜と魚があまり好きじゃなかった。もっぱら肉や甘い物が好物だった。それが最近逆転し始めている。その昔モーリス・ベジャールと一緒に仕事(ミラノ・スカラ座の舞台美術)した時、「50歳になると肉を食べる方がいいよ」といわれたことがある。彼は菜食中心の食生活である。でもベジャールが尊敬している三島由紀夫さんは「週に2回はステーキを食べないと、創作のパワーが出ないよ」と言っていた。今のぼくは三島派からベジャール派に変わってきたようだ。でも二人の間をとった中庸が人生の極意だと思うんだが・・・。
3月14日
白いキャンバスって恐怖である。制作を前に白いキャンバスを見ていると跳ね返されそうになる。そんな時、点でも線でも何でもいい一筆入れることだ。ピカソのお父さんは画家だった。その人がピカソに「何も描けそうにない時はキャンバスを真黒に塗るといい」と言ったーということを何かで読んだことがある。黒く塗ることで、そこに闇の空間を作るのだろう。それに対して白は光だ。芸術は闇から入って光に到達するーそんな気がするのである。
グッズ欄で紹介しています一柳慧作曲「横尾忠則オペラを歌う」は増刷にもかかわらず品切れで御迷惑をお掛けしているようです。現在さらに増刷中ですので、今しばらくお待ち下さい。
さてこのCD(4種)はもともと1960年後半にカラーレコードとして発売されたもので、ビートルズも関心を持ち、「マジカル・ミステリィ・ツアー」のアルバムをカラーレコードにしたかったように思いますが、何しろミリオンセラーズのビートルズのレコードを作るには日本に工場を建てなければならないので、ビートルズは断念せざるを得なかったのです。
今回のCD化は35〜6年振りに日の目を見ることになりました。内容は一柳慧のミュージック・コンサート、内田裕也のサケデリック・ロック、高倉健の横尾のための「網走番外地」を歌い、横尾は女風呂で一柳の指導で古賀正男作曲「男の純情」の練習風景などなどの盛り沢山で、60年代の文科芸術状況の空気がそうまま伝わってきます。他に付録も用意されています。執筆者は寺山修司、東野芳明、秋山邦晴、唐十郎らの豪華メンバーです。
兵庫県の加古川線を走る電車(ラッピング・カー)が好評のため全8車両のデザインをしました。秋以前に走ると思います。外観だけではなく内部もデザインします。どこかに行くために乗るのではなく、乗ること自体を目的にした電車です。各車両共内部の色は全部異なっています。
3月12日
野川に鯉のエサを与える人がいる。ぼくもその一人だが、橋の所の看板に「コイにエサをやるのもほどほどに」と書いてある。何だ、この言い方は!と頭にくる。横にいた土屋嘉男さんも「このバカと」本気で立腹。「やるのも」ではなく「やるのは」でなきゃいけない。この看板はまるでケンカを売っていルのだ。行政はいつだって都民をこんな意識で見ているに違いない。一体何様だと二人でブリブリ。
3月11日
いつか誰かがぼくの死生観を知りたいという方がこのホームページのBBS欄で質問されていましたね。簡単には語れないテーマです。ぼくはこの世に未完の形で生まれて来たと思っています。だからその長くて短い人生の中で少しづつ完成できればとまるで長期にわたって制作する作品のように作り上げていければと望むのですが、紆余曲折が多すぎます。ぼくの場合常に芸術と人生が深く関わっており、芸術が人生を導き、人生が芸術を創るそんな関係が未完からの脱出(昔「未完からの脱出」というエッセイ集を出版したことがありました)の路を示唆してくれると信じています。そんな芸術と人生の関係を死の側から眺めるという視点が必要になります。死という宇宙摂理からです。
体調は日替わりに良くも悪くも変化します。自己診断であれこれ不安になり、光明が差したりしながら、心と体が離れたり、くっついたりしています。そんな自分を第三者的に観察しているもう一人の自分がいるのです。さらにその第三者をもう少し高見から虚無的に見ている第三者の自分がいるのもわかります。
3月10日
昨日あんまり天気がいいので、野川に散歩と思って隣町に住む俳優の土屋嘉男さんを誘おうと思って電話をしたら留守。もしかしたら散歩に行っているかも知れないと、ふらふら野川へ向かう。すると向こうから自転車で近づいてくる土屋さん。「きっと横尾さん天気がいいから散歩に来ると思ってあなたの歩くコースに入ってきちゃったんだよ」。「公園へ行かない?」「俺もう先に公園に行っちゃったけど、もう一回行こうか?」ということできたみふれ合い公園へ。この公園は小田急の車庫の屋上にある広大(?)な公園である。天気がいいので家族連れが結構多い。「土屋さん毎日何しているの?」「一日中本書いているよ」土屋さんは今童話を書いているのである。子供の頃のエピソードがそのまま童話になっているのだ。何遍か読んだがどれもこれも面白い。文章が上手い。そんなわけで何冊か本も出している。黒澤明さんのことや魚釣りのことなど、確か新潮文庫だったと思う。一読あれ。いつも会うと、体のことが話題になる。二人共肩が痛いのだ。そのうち病気自慢みたいになってしまう。その時だけはどういうわけか話に力が入って元気になる。至福の一瞬だ。
3月7日
一昨日だったかパリから帰国されたばかりの作家の平野敬一郎さんと「プリンツ21」の次号のぼくの特集号で対談をしました。会う前から瀬戸内寂聴さんから彼のことはよく聞かされていました。ぼくの京都国立近代美術館の個展なども観てくれていたので、初めて会うという感じではなかったです。23歳だかで芥川賞を獲って三島由紀夫の再来とまでいわれた若い平野さんも間もなく30歳になるそうです。対談のあとわが家で12時頃まで語り合いましたが、パリでもよく笑ったそうですが、「今日ほど笑ったことがない」とご機嫌で帰っていきました。何がそんなにおかしかったのか後で思い出しても心当たりがないのですが、そういえばソファーに横に倒れて笑っていました。好感の持てる若者でこれからどこまで才能を伸ばしていくのか無限の可能性を感じます。今日は彼の人物像に少し触れました。
「タカラヅカ・ドリーム・キングダム」のレビューの三木章雄先生の演出の舞台美術に対して沢山の轟さんファンの方々から大変好意のある批評、感想を私のHPのBBSに寄せていただき感謝しています。
すでに御存知だと思いますが、今月27日(日)熊本市現代美術館の私の個展にちなんで、美術館と同じビル内のホテル日航熊本で轟さんとのトークショーがありますが、チケットを御購入された方はトークショーの前にぜひ個展会場(3階)に足を運んでいただければ嬉しいです。轟さんから私の展覧会や作品の感想もあると思いますので、そのためにも。展示場の中にも宝塚に関する作品や公開制作で描いた轟さんの肖像画も発表しています。当日を楽しみにしています。
3月2日
3月に入って少し暖かくなったのかな、と体が感じております。今日も帯状庖疹になった人2人に会いました。すでに、20〜30人位の経験者に出会っています。別に安心はしないけれど、実にポピュラーな病気なんだなあと妙に感心するのです。疲労が極限に達した時に起こるといいます。皆さん用心して下さい。
「今何にこだわっていますか?」という質問を熊本の公開制作/トークショーで何人かに受けました。だいたい「こだわる」という言葉は好きじゃないですね。つまり「執着する」ということだからです。如何に執着から自由であることが大事だというのに、、、、、。「こだわる」という言葉を最近よく使うのを聞くと不思議に思います。「こだわる」を「関心」という言葉に置き換えれば、そうですね、やはり健康でしょうか。これも体調を崩して初めて気付くわけです。