2002年3月
YOKOOからの質問
毎日多くの方から『テーマ』についてのアイディアを頂いています。
ありがとうございます。
このHPを通じてどのような情報を掲載すればいいか、
是非皆様から御意見をお聞きしたいと思います。
面白いアイディアなどお知らせ頂ければ、
可能な範囲で実現させていきたいと思います。
沢山の「テーマ」の出題を頂きましたが、中には答えようのないものや、
身の上相談的な質問がありました。
あくまでも文章の「テーマ」に関するものに限らせていただきますので、
どうぞよろしく。
そして沢山のメールを 頂いているの中、全員の方のテーマに対してお答え出来ません事
御了承下さい。
今後テーマを御提案頂いた方の職業、年齢を伺え出来れば、横尾が文章を書かせて頂く時の
参考になりますので、よければ是非お教え下さい。
p.s.
よかったら本人に書いてもらいたいテーマがありましたら、
net@tadanoriyokoo.comへメールを頂ければと
思います。
可能な限り本人へ伝えさせて頂きます。
3月31日
正中さん 「秀才と天才」
「秀才」はどこにも居ますね。頭が良くて、知識も豊富で。
ところが「天才」はそうどこにでも居るという人種でもなさそうです。
例えば、絵を描こうとする人は「秀才」絵がどんどん描けてくのを愉しむ事の出来る画家は「天才」と
言えると思います。
この違いは中々微妙です。天才とて生まれた時からそうとは決まっていないはずです。
努力に努力を重ねた結果、修得した「コツ」で、不離一体の関係にあり、常に本能に従える事の出来る人と
言う事になりますかね。
それかあら梅原猛さんの「仏教」は読みました。
目下梅原さんの狂言「クローン人間ナマシマ」の装束と美術の制作をします。
大阪でも上演しますので、是非観て下さい。
ショート・ショートエッセイ
4月12日、13日公演される梅原猛作、茂山千之丞演出の狂言「クローン人間ナマシマ」の装束と美術を制作したが、
この中で登場するクローン博士はアンディー・ウォ−ホールはそっくりにするつもりだ。
ウォホールは「皆が同じ絵を描けばよい」と言った。と言う事は「皆がウォ−ホールになればよい」と言う事だと思う。
つまりウォ−ホールののクローン人間が居ればいいと言う事なので、ぼくは博士をウォ−ホールに似せる事にしたのである。
ショート・ショートエッセイ
このところ連日東京都現代美術館の個展の為の新作の制作に入っている。
テーマは「Y字路」の延長にあり、今後どうこのテーマが変化するのかは自分でも分からない。謎である。
謎だからこそ面白い。新作の他に「トレビの泉」の立体作品にも取りかかっている。
これは将来ローマにあるものと同寸(左右45メートル)のものになる。その模型(3メートル×4メートル)を制作しているが
ローマの「トレビの泉」の横尾版で、新たに解釈を加えている。
東京のど真ん中に造りたいのだが、目下 の所建造場所がまだ決まっていない。
とりあえず、是非模型を見ていただきたい。
3月30日
勝山英恵さん 「シンクロにシティ」
シンクロにシティは共時性とも言います。偶然の出合いみたいなものです。
電話をしようと思ったら、そのお相手からかかったと言うような事がありますが、
思っていた事が実現した場合シンクロにシティと呼んでいるようです。
シンクロにシティは一口に言うと潜在意識が顕在意識と結びついて起きる現象だとぼくは思います。
ユングは夢日記を書いたり、語ったり、つまり夢をよく味わう事によって、潜在意識(無意識)が
活性化して、悲しいとか願望を実現させてくれると言っています。
そう考えると偶然と言うのはなく、全て必然と言う事になりますね。
ムコウダ セイチュウさん
おっしゃる通り芸術作品には感動を伴うと言う桟能があると思います。
現代美術の世界で忘れがちになっている概念です。知的に認識する事だけが芸術ではないと思います。
「解った」と納得する事が芸術の理解と思われているところがありますが、
やはり身体を通して感受する感動が重要だと思います。
頭で考えるのではなく、脳を開いて受け入れて下さい。その為には作者が妙な考えにとらわれて描いたものや、
何かの目的を持った、つまり欲の芸術である場合は観る側に感動を与える事が難しくなります。
ショート・ショートエッセイ
この間石原慎太郎都知事に会った時、川端康成さんの話になり、川端さんの「みづうみ」が一番いいと
石原さん。
ところが 三島由紀夫さんは川端さんの「千羽鶴」がいいと言う事になり、石原さんは川端さんの好きな作品は?
と聞くと「みづうみ」だと言われたと言うので、まず「千羽鶴」を読んでみた。
登場人物の女性達は皆見事に描かれていたが、主人公の男はなんだか惚けてしまって影のような存在しか見えなかった。
まあ三島さんは描かれた女性によって男の非存在こそが男の描き方言われたのだろう。
石原さんはやっぱり男性的な人だから見えない男が嫌だったのかも知れない。
次は「みづうみ」を読むつもりだ。
3月28日
minamiさん 「人間の陰と陽」について
確かに人はこの二つの相反する要素を持っていますね。
陽だけの人、陰だけの人っていないと思うんですが、どちらかが協調されて出てしまう事があって、
その事で、バランスを崩す事はあります。要するにバランスじゃないでしょうか。
どちらかを無理に押さえようとするのも良くないみたいだし。
その存在を否定するのはもっと良くないし。あるものはあるという事を認める事じゃないかな。
認めた上でちゃんと意識を持つ事が重要だと思います。
この地上に存在する全てのものが陰と陽で成り立っている訳だから、両方共重要だと思います。
そしてこの相反する(対立する)概念の落差が大ききゃ大きい程そこに大きいエネルギーが発生するものです。
そのエネルギーを求めて人は相反する要素を求めるようんい思いますが・・・。
大石浩行さん 「水木しげるさんのこと」
ぼくも水木しげるさんの作品は好きです。
実際に会ったことは2度程ですが、水木さんの絵は展覧会を1度見た事が見た事があったけど、戦争の絵が中心で、
その描写にびっくりしてしまいました。
とてもとてもかなわない気持ちで、水木さんと言えばあちらの世界に詳しいだけではなく、
この現実を実に見事に描写されていました。
異界を知るには現実に立脚していなければなく、現実をちゃんと見る為にはまた異界も知るべきだと感じました。
バンクーバーの雪さん
日本では人を呼ぶ場合色んな名称がありますね。
仕事関係の方達は「先生」と呼ぶ人が多いです。本当は「さん」と呼ばれる方が親しみがあります。
「先生は止めましょう」と言っても「先生」と呼ぶ人が大部分です。
そう言うぼくも「先生」と呼ぶ人がいます。そこには尊敬の意味がありますが、自分がそう呼ばれる時は
やはり親しみのある呼び方がいいですね。
前川しげよしさん 「インド」
「インドへ」を出版してから30年程経ったような気がします。
その間7回程行きましたが、今は卒業です。同じものに深入りする事で想像が鈍る事があります。
でも行ける時には行った方がいいでしょう。インドに行って時にはべナレスでは人の死と出会います。
それは大きい経験です。多くの人はインドで死を考えると言いますが、
本当はインドで生を考えるべきじゃないでしょうか。
Seichunさん
新作ポスターと版画に関してですが、販売作品のリストをもう少し沢山増やしましょう。
しばらくお待ち下さい。NYのキャラウェイから出版予定のポスター集が延期になっています。
それに代わってAMUSからポスター集が出ています。(ART SHOP参照)またNew
Yokoo Timesの販売は
このサイトにて近日中に販売をさせて頂きます。図版を見て下さい。
3月27日
Azusa Kitamuraさん 「第一印象」
第一印象で相手を判断するのは難しいですね。
当たる時も外れる時もあります。ただこちらに下心がある時は外れそう。下心がない時は直感に従うのが一番いいが、
これとて難しいです。
ぼくも何度も失敗しています。付き合っている間に相手も変わり、思わぬ性格に出くわする事もあるからです。
といって、最初から相手を疑うのも問題だし。
といって、どう見ても怪しいという人物もいます。やたらお世辞を言う人は避けるべきかも知れません。
また、自分の事しか喋らない人も要注意。黙っている人、よく喋る人、これも困ったものです。
まあ相手に対して何も求めない場合のみ相手を正確に見る事が出来るかも知れません。
また、持ちつ持たれつの利害関係の出来た人間関係もよくないと思います。
長い間には雑用になってしまう。 こういう深入りの人間関係はどこかでピシャッと切るべきでしょう。
aruさん 「ダライラマ」
ぼくは一度ダライラマと会った事があります。岡山の知人の家で会ったのですが、
その時は彼はうどんを三杯おかわりをしました。
2回のおかわりは相手に対する礼儀だそうです。三杯目はよっぽど美味しかったのでしょう。
その時絵の事について聞きました。アンディー・ウォーホールについては名前も知らなかったです。
ピカソは?「スペインの画家でしょう」という答えが帰って来ただけでした。
チベットでは個性的な絵より、伝統に従った絵を描くとも言っていました。実際はチベットにも現代的な絵を描く
アーティストもいるのですが、ダライ・ラマは芸術にはそれ程詳しくはなかったようです。
興味がないはずないとおもうのですが・・ ・。
3月26日
清水浩司さん 「海」
子供の頃の山間部にいたぼくは海は都会と同様憧れの対象だった。
大阪の親戚に行く途中明石海岸を車窓から見るのが唯一の海体験である。・0代の間たった一度だけ須磨の海に
親に連れられて行った事がある。積み上げた砂が波に持って行かれるのを面白がったり、悔しがったりした事がある。
その事を母がよくぼくに話したものだ。
海はぼくの永遠の憧れの対象として作品に時々描く事がある。
小学校一年の教科書に「海」と題する一文が掲載されていた。その文は永遠やここではない別
の世界に対する
想いをかきたてられた。
海は浄土世界など異界の象徴でもあり、肉体の届かない場所、つまり魂の棲み家としていつの間にかぼくの心の中に
棲みついてしまっているようだ。
ショート・ショートエッセイ
今日は「不登校新聞」(こんな新聞があるとは知らなかった。一般紙とは変わらないちゃんとした新聞である)
の取材で不登校者6人がやって来た。聞いてみると小学校1年、小学校2年で中退した姉妹、とか小学校5年、
中学1年。そんな若者(すでに20代の子のいる )と話をするのは初めてだったが非常に愉しかった。
辞めた理由はそれぞれ違うが、今では親も理解しているようだし、それなりに家事をしている者もいる。
自立出来ない若者が多い中彼等はそれなりに自立している。
問題は社会である。彼等を社会がどう受け入れるからだ。その事で彼等の問題の対象は社会である。
驚いた事は彼等は大学を出た若者と同等、それ以上のしっかりした考えを持っている者がいる事だ。
ぼくは嬉しくなってしまった。今日一日気分がいい。
何か知らない大事な物を彼等からもらった気分だ。 今日は質問され側だったが、
次は質問する側になって、彼等から学ぼうと思った。
3月25日
黒田隆明さん 「写真」について
カメラはいつもバックの中に入れています。テーマを持って撮っているのは「Y字路」ですが、
常にカメラの眼で事物を眺めているわけではありません。
それでも興味の対象に出会うとシャッターを切る事がありますが、その写真をコレクションするとか、
資料に使うとかではなく、シャッターを切る事によって対象を自分の中に、つまり肉体化する為です。
一種の記憶と体験の蓄積です。
シャッターを切ると言う行為が重要でその写真の結果はどうでも良い事です。
想像とか創造は記憶と体験の蓄積の質と量のよって決まります。
とは言っても能動的な意志がないと何も始まりませんがね。
つだアヤさん
海外で住む気はないです。海外の現地で仕事をする事はありますが、
思うような作品が出来ない事が多いです。
やはり日本の風土の中で創作する方が肉体的で、生理的、本能的なものが発揮出来るように、
肉体は生まれた國から脱出しにくいものです。
勿論海外に進出している人は沢山いますが、ぼくの場合はよほど日本と深い血族関係にあるように思います。
質問の家族との絆はとはあまり関係はありません。
ショート・ショートエッセイ
瀬戸内寂聴さんから「かきおき草子」(新潮社)が送られてきた。
読んでいるとこちらにぼくの事が出て来る。
二人は前世では親子と言う事になっている。
全く異なった土地に住んでいる三人は霊能者が二人はかつて前世で親子だったと言うのだ。
それは分かる。何故かと言うと知り合って30年以上にあるけど、
お互いに親子っぽい役を演じて(?)いる。
例えばぼくが京都で倒れて入院した時など、瀬戸内さんにしなかった為にえらい呵られた事がある。
「私はあなたの母親でしょう!」と。
またぼくが寂庵に行く事が家に帰ってきたような気分になって台所に入って行ったりしてしまう。
まあこの事はいいとして、「かきおき草子」の中で瀬戸内さんを宝塚の「ベルサイユのばら」に
案内した時のエッセイは面白い。瀬戸内さんは女学生の頃学校をさぼって連絡船で徳島から宝塚劇場を観に言って、
宝塚に入りたかったなどの話、他にも面白い話満載である。
3月24日
Sakagamiさん 「涅槃像」
このコレクションは現在休止符が打たれました。
1年間程で約600体集めました。「涅槃像」の他には「オダリスク像」も同時進行です。
「オダリスク」とはハーレム(後宮)の女性です。
頭の後ろに両手を持って来て男性を魅惑するような姿をしています。
「涅槃像」も「オダリスク像」もどちらも横たわっていて一見よく似たポーズに見えます。
前者が聖、後者が俗と言えるでしょう。
人間の中には聖なるものを求める高い意識と物質的なるものに対する欲望の両面
を持っています。
そう言う意味でこの対立する概念の置き物を集めてみようと思い立ったのです。
集めだすとこれが中々ないのです。海外にも何度か出掛けました。
タイなどの巨大な涅槃像は一種の霊性を感じますが、小さい像が沢山集まってくるとこれらの一つ一つが
大きい力(エネルギー)になってそこに霊性を形成していくのに気付きました。
みずこさん
「執着するエネルギー」と言われていますが、どんな場合も執着はよくないと思います。
執着はこだわりになるので、執着を離れた執着と言うか、「軽い想い」の持続力だと思います。
想いも持続もエネルギーですから、そのエネルギーが必要なものを寄せ集めるのです。
だからその為の苦労をする必要はないのです。
轟悠さん(宝塚)の絵を描いた事がありますが、発表はしていません。
日生劇場の「風と共に去りぬ」が愉しみですね。今度はショーの部分がなく、植田紳爾理事長は
芝居だけをじっくり観て下さいと言っておられました。
初日に行く予定です。轟さんのファンサイトの皆様にもよろしく。
また轟さん」の事でそちらへも伺います。
中島千景さん
我が家の死んだバーゴとミンネの名前の由来ですが娘が付けたもので、彼女はクリスチャンだから、
きっと根拠は その辺から出たのだと思います。
今度会ったら聞いておきます。
聞いても多分忘れてしまうと思いますが。
Mariさん 「恋愛」
現代の恋愛は相手の事を「想う」と言うより、相手について「考える」と言う方向に移り変わっているのでは
ないでしょうか。
恋愛は本来相手を理屈抜きで、目的も打算もなくただ「想う」事ですよね。
それが「考え」始めるようになって、相手を自分に向ける事ばかりになります。
すると相手を縛る事になります。やがて相手はどこかに逃げて行きたくなる事間違いなしです。
得るより与える。この事が結局相手を自由自在に我がものにする事になるのじゃないでしょうか。
これ、宇宙の原理原則かも。
3月23日
Yujin Imai
33題のテーマを頂きました。全てについて書けませんので、その中から一つ携帯電話を選びました。
ぼくは携帯電話を持っていません。携帯電話は常に外部と繋がっていたいと言う気持ちの表れのように思います。
ぼくは極力外部から自由でいたいと思うので、携帯電話は必要ないのです。
確かにどこでもすぐ必要な時に相手と会話が出来ると言う意味では便利でしょが、
ぼくはあえて不便でいる事を求めています。
とは言うものの今のぼくの状態はずっと以前から変わっておらず、特に携帯がないので不便だと思う事はありません。
その為に孤独を感じた事はないです。
人は人以外の事物とも心の中で対話する事も大事じゃないでしょうか。
舞野優子さん 「会話」について
昔は無口だったのが、いつ頃からかよく喋るようにないりました。
と言って時間つぶしのお喋りはほとんどしません。
なるべく必要不可欠な会話のみと言うところですかね。
会話はありのままの自分を伝える事で、自分をそれ以上でも、以下であったりする必要がないと思います。
相手をよく見る事でしょうね。会話がはずまなくなればさっさと終わる事です。
意義のある会話だけが自分を成長させるように思います。
自分を主張するのも必要ですが、相手から何か得ようと言うそんな相手との会話は大いに役に立ちます。
ぼくは高い年令の方との話が好きです。
人生経験の豊かな人の話は、それこそ心を豊かにしてくれます。
ぼくは時々家が近かったので黒澤明監督の家にしばしば遊びに行って、よく映画の話を聞いたものです。
黒澤さんは読書が好きで、例えばトルストイの「戦争と平和」は30回も読んだとおしゃっています。
この事を知っただけでも凄い事を学んだと言う気になります。
3月21日
独り言
絵って一体どこで終わるのだろう。これは終わる瞬間まで作者自身も知らない。
食べ物だって一体どの位食べればいいのか分からない時がある。
もう少し、もう少しと言いながら食べるとかなり沢山食べられる事を知っている。
ストップと言う信号はその人の生理が出すのか、理性が出すのか、どちらに従うかによって異なる。
身体はギブアップしているが頭ではもう少し食べたい。
また頭ではもう充分だけど身体が食べたがっている 事さえある。
絵も食べ物の関係に似ているように思う。
でも絵は肉体も頭脳も疲れて「何もこれ以上やる必要ないんじゃない」と肉体と頭脳の間で言葉が交わされて、
ハイ完了と言う事になると思う。
まだまだ塗残した部分や整理出来ていない所があるのに、気分が「ヤーメタ」と言えばそれまでである。
まあ観る人は誰も未完だと思って観ないはずだ。
でもぼくの作品のほとんどは途中にほっぽり出したものばかりである。
3月20日
我が家の裏庭には春になるとつくしが出て来る。だから毎日のように食卓にはつくし料理(?)が並ぶ。
子供の頃つくしを取に野や川の土手によく行ったものだ。
そんなつくしも、もう視界から消えたと思ったら2、3年前から突然我が家の裏庭に出現して大喜びだ。
美味しいものではないが、故郷の香りがして忘れていた記憶がよみがえる。
また30cm程の桜の苗木2本を10年程前に植えたのが今では庭一杯に枝を拡げて見事な桜を咲かせている。
さらに食べた桃の種を庭に捨てたのが芽を出し、今では立派に成長してきれいな桃色の花を咲かせており、
ちょっとした桃源郷の雰囲気だ。
すると住人のぼくは仙人でなきゃいけないんだけど・・・。
トワコさんへ
確かに「恐い」絵ってありますね。ぼくの絵でさえ恐いと思う人が居ます。
自分自身の中に閉じこもって、自らが露出されるのを恐れて「恐い」と思う人はどうしても恐い絵を
避けて通ります。
だけど恐れる人間の本能です。何も特別の感情でもないはずです。
もし人間が本性のまま、本能のままあけっぴろげに生きて行く事が出来れば「恐い」事などないはずですね。
絵画の中でもロマン派に属する画家の作品には恐怖のテーマにしたものが多いです。
死、夢、無意識、狂気、異界などなどです。
ぼくはロマン派に影響を受けました。目に見える世界だけが現実ではないと思います。
むしろ見えない世界にこそ真実が隠されているはずです。
その見えない世界が絵画に表現された時、人は「恐い」と思うのじゃないでしょうあか。
「恐い」と同時に惹かれるものは人間の本質に触れたからでしょう。
林賢志さんへ「人間の使命」
難しいですね。人間は一人一人使命を持って生まれてくるのだと思いますが、使命と言えば何か世の中に役立つ
仕事または行為と考えがちで、社会や他者にどう対応すべきかを問題にしているように思います。
無論社会や他者あての自分ですが、それ以前に一個の「私」が存在している訳です。
その「私」の使命はこの宇宙にいかされていると言う事実を知る事から始まるのではないでしょうか。
森羅万象が宇宙によって生かされている事を知れば人間も例外ではないと思います。
与えられた日常の仕事を通して、宇宙の摂理に少しづつ近付く事で、自らの
本体も見えて来る事でしょう。
この本体を通しての行動が、そのままその人の使命になるのではないでしょうか。
3月19日
京都の村井さんへ
フェリーについては「アートのパワースポット」(筑摩書房)で書いたように思います。
一度調べてみて下さい。
村田舞さんへ
芸術の持つ力は本当に不自然ですね。
ただ理屈では描いた作品はある種の知的興奮はあるかも知れませんが認識してしまえば、
それ以上の深さに触れる事はあまりありません。
作家の本性が本能の力によって思いの丈を、しかも捨て身になって表現されたものは、
描かれた対象の観念を越えて、魂に迫って来るものがあります。
正に魔術の力によって。
向田正中さん「竹」について
竹と言えばぼくは「かぐや姫」をすぐ思い浮かべます。竹についての体験は色々あります。
竹馬、竹とんぼ、竹竿、竹薮、竹垣、など子供時代と接続します。
ポスターに竹を描く時は大体竹垣のイメージであったり、南方の竹製の額縁のイメージが多いようです。
かつて禅寺に参禅していた頃、あるお坊さんから悟りとは竹の節のように根元は節の間隔が短いが
上に行くに従って長くなる。
最初は小悟を何度か経て次第に大悟していくそんな状態を竹が示していると教えられました。
竹取物語の好きなぼくがしばしば竹を描くのはやはりこのロマンチックなイメージの再現です。
ぼくの本能がそうさせるのです。
いわた ひろみさんへ
生前の池田満寿夫とツブアンとコシアンについて論争した事ですが、彼はコシアン派、ぼくはツブアン派。
関西系は大体ツブアン派で関東系はどうもコシアン派みたいですね。
池田さんは長野出身だから当然ツブアン派です。彼の主張理由は忘れてしまいましたが、
ぼくはツブアンは二度楽しめると言うような事を言ったと思います。
口に入れた時はツブを味わい、胃に入った時はコシアンになるからです。
コシアンはすでに加工されて洗練されているので気取っている、モダニズムじゃないか、
それに対してツブアンは原石の輝きがあってどちらかと言うと反モダニズムだとかなんとかいい加減な事を
お互いに言いながら両共一歩も譲らなかったと言う思い出があります。
3月18日
Katsuyamaへ
美輪明宏さんについてですね?
美輪さんとは最も気の合う友人の一人です。
いつも思いやりがあって優しい人ですが、自分に不正直な人には厳しいです。当たり前ですよね。
常に自己と直正面に向かい合いながらも社会の不正やいい加減さには怒っています。
また自己の魂の向上を常に求めている人ですが、しゃっちょこばったところがなく、ジョークを飛ばしたり、
大笑いしたり、とにかく愉快なアーティストなのです。
誰でも美輪さんのように生きられれば言う事ないですね。
彼はこの世での自分の使命をよくわきまえた人です。とにかく美を最も愛する事の出来る人です。
そでにカルマを消化してしまった人の一人です。
美輪さんはもうこの世に生まれ変わる必要のない人です。
向田正中さん 「色」について
ぼくは昔から自分の事を色音痴だと思っています。今もそうです。
色はぼくの作品の重要なテーマの一つです。将来こう言う色の世界を書きたいと言うイメージはあるのですが、
さあ、描けるでしょうか。
ぼくはあんまり多くの色を使う事は出来ません。絵を描いても数色以内です。
10色以上使う事は滅多にしないです。
セザンヌはコローに4色で描きなさいと言われました。
大抵の印刷物は4色からなっています。色はどうも本能的なものじゃないかと思っています。
何年経っても好みの色は変わらないからです。時には意図的に他人の色を使用してみる事がありますが、
画面は不協和音をきたし逆に濁ってしまいます。
やはり自分の色を使うのが一番自分を表現する近道です。
つまり本能に従えと言う事ですかね。
3月17 日
Fumiko Kiriharaへ 「霊性」について
「霊性」と言う言葉は「広辞苑」を見ても出ていません。仏教用語でしょうかね。
ぼくは霊性は人間が霊的存在であると言う事を認めた上で存在する何か神的なものだと思います。
霊性の高い人、低い人と言う言い方があるように霊性はその人の人格を決定する非常に重要な
もののように思います。
また人格が高くないと霊性は宿りにくいものだとも思います。
その為には心と肉体が一致して初めて霊性が生じるのではないでしょうか。
三島由紀夫さんは霊性は礼節ある行動を通して初めて宿るものだと語ってくれました。
今人々に最も欠けているもの、それは礼節ではないでしょうか。
Syoosannへ
さあ宇宙人に宗教と言う概念があるのでしょうか?
この広い宇宙のどこかには高度な知性を持った宇宙人(ヒューマノイド)が居てもおかしくないですね。
地球人が抱えているような厄介な問題を全て解決した自我から解放された自由な魂の宇宙人であれば
わざわざ宗教を必要としないと思いますが、宇宙は原理原則の摂理に従った統一された世界だから
もし宗教があるとすれば、宇宙摂理に従った生き方のみが全てではないでしょうか。
Katsuyamaさん 「天使について」
天使は非存在の存在だっと思います。
聖書に出て来る天使を宇宙人だと言ったり、宇宙人を天使と考える人もいますが、天使は神と人間の中間の存在で
一種の意識体ではないでしょうか。
天使の性質をビジョン化すると名画などで見る翼を持つ人間の姿になると思います。
西洋では守護天使(ガーディあん・エンジェル)は誰にもついていると言います。
天使からのメッセージは直感を通じて行われるそうです。欲望や執着や野心などに振り回されない純粋な意識を持つ者には
彼(叉は彼女)のメッセージを受信する事はそれ程難しい事ではないでしょう。
天使を求める心があまり強いと逆に執着になり自分にバリアを張ってしまい受信が困難になるはずです。
考えるよりも想う心が大事で、先ず天使に恋をする事です。
天使はその心をキャッチするはずです。
3月16日
マリさんへ
独学について?
そう言えばぼくは独学で絵を学んでいたかも知れません。それだけに無駄な時間を費やしてきました。
しかし独学の者にとってはこの無駄をするべきかも知れません。
何かと目的意識に縛られたり、結果を考えて行動する人には無駄の効用がないように思います。
それが例え無駄だと思っても目の前の事柄に対して努力する事ではないでしょうか。
独学は逆に自由です。定められたカリキュラムに従うより、自分の感性や生理に従えば、自然に正しい方向に
運ばれていくからです。
独学は人に頼らずに学ぶ訳ですから自然に自立した力がついてきます。
自立こそが個性であり、本能表現ではないでしょうか。
柳沼加恵さん
東京国立近代美術館のリニューアル・オープン展はとうとう観る時間がなく自作が展示されているにも関わらず残念でした。
ぼくの場合は60年代のポスターが選出されたのですが、ポスターを美術作品として認めてくれている事に
嬉しく思いました。MOMA(ニューヨーク近代美術館)での「MOMAハイライト20世紀」展にもロートレックと一緒に
ぼくのポスターが選ばれていましたが、近年美術の領域にも拡大されて、写真や工業デザイン、建築、インテリア、
テキスタイルなども美術の一カテゴリーとして評価する時代になってきました。
これが本来の芸術の姿ではないかと思います。
しかし現実はまだまだカテゴライズされているのが現状です。
大衆の意識の中にはそのような垣根はすでに取り払われているのではないでしょうか。
ダイさんへ
そう言えばぼくのへアースタイルはしょっちゅう変わっているようですね。
昨日と今日でもう変わります。美容院には2〜3ヶ月に1回程度です。性格が飽きっぽいせいか、
行く度に変わります。季節の 衣替えのようにコロコロ変わります。
そのくせヘアーには無関心なのです。まあ気分転換とか遊びの気持ちでへアート付き合っています。
この事は作風が常に変わり続ける事と無関係ではなさそうですね。つまり固定のスタイルを持たないと言うことです。
方法論がないと言う方法論を持っているのでしょうね。
方法論を持たない生き方が一番楽だと思うからです。
3月15日
Morito Suzukiさんへ
野口裕子さんへ
お二人のテーマが「銭湯の絵」についてだったので、お答えします。
東京都浴場組合のポスターをデザインして以来何かと銭湯や、その壁画が話題になっていますね。
最近でこそ銭湯には行かないけれど子供の頃はよく行きました。
銭湯には必ず富士山を描いたタイル絵がありました。富士山の裾には決まったように湖が広がっています。
富士五湖のイメージですね。ぼくの子供の頃は湖に帆掛け船が描いていましたが、最近はヨットに変わったようです。
ぼくのポスターにはやはり富士山と湖に映った逆さ富士、それに中年の外国人男、遠景には丸髷を結った昔の
日本女性がまるで湯舟に入っているような姿で実は湖から肩を出している風景です。
それにしても何故富士山なのでしょうか。富士は日本の象徴ですね。湯舟から仰ぐ富士山を見ていると極楽気分に
なりませんか。母はよく湯舟の中で「極楽、極楽」と独り言を言っていました。そんな極楽気分と富士が交差すれば、
それだけで「神」を感じたのでしょう。
ぼくの昔のポスターにはよく富士山が描かれています。
それも子供時代銭湯の湯舟から仰いだ富士山が無意識に顔を出すのかも知れません。
クロス由美さん(リバプール在住)の出題「孤独」について
「孤独」はぼくにとっては愛の対象です。というのはどちらかと言うと孤独が好きだからです。人間は誰でも
孤独の部分を持っていて、時にはそこを隠れ家のようにしているはずです。
だからと言っていつまでも孤独に浸っているのもどうかと思います。
と言って孤独を悪だと思う必要もないでしょう。
時には孤独を味あう事も必要だからです。孤独の中から多くを学ぶ事もあるはずです。
孤独から逃れる為にしたくもない事をしてみると言うのはどうでしょうか。
人間は本来この世に生を受けた瞬間から孤独は始まるのじゃないでしょうか。
人間界、この世俗と付き合う事自体が孤独なものです。
宇宙の存在に気付き、宇宙の摂理に意識を向け、それと一つになる事が出来れば、その瞬間から孤独は孤独ではなく
なるのではないかと思います。
人間はありとあらゆる事物、出来事、人々と無関係でないと知れば植物一つの会話も成立して、孤独でない事に
気付くかも知れませんね。孤独を愛しながら、孤独を超克していけるよう、お互いに頑張りましょう。
3月14日
Yaginumaさんへ
好物はツブあんのでっかいおはぎです。田舎のぼた餅です。
だけど今は好物を極力断っています。すぐ「身」に付くからです。
にも関わらず来客の方はこのことを知って甘い物を持って来ます。嬉しいような困ったような感じです。
例の甘栗のことですか?ダイエット中だったのでせめて甘栗くらあいならイイだろうと毎日一袋づつ食べていたら、
2キロ減量するところが逆に2キロ太ってしまいました。あれは食べ物の種だからカロリーが大なのです。
太って当たり前。それ以来甘栗屋を横にらみにして前を自転車で通り抜けています。
無知が太らせたのです。
神戸の富家さん
近作の西脇を主題にした情景を描いた作品ですか?
多分Y字路シリーズの事だと思います。西脇に帰ったある夜、子供の頃行つけの模型店を訪ねたらすでに壊されていたので、
その場所を記念に写真を撮りました。それがたまたまY字路だったのです。
早速その場所を絵に描いたのがY字路シリーズの始まりです。以来20数点描きました。尚続行中です。
最初は西脇のY字路から出発しましたが最近は各地のY字路を描いています。
故郷に関する想いはYOKOO VISIONに少し長い文章を書きました。
それを読んでいあただくとあなたの希望に答える事になるはずです。
杉山ともこさんへ
親しい人の死に執着がないというのはいい事じゃないでしょうか。何かにつけて執着ほど人間を縛るものはないからです。
死者だって生者の執着が強ければ言わゆる成仏が出来ないと言うじゃありませんか。
死者に対して無関心がなくなると言う事が自然な事かと言う質問ですが、中には死と同時に必要以上の執着を持つ人も
居ると思います。
しかし人間には忘れると言う神の恩寵があります。時間が解決してくれるのも恩寵の一つでしょう。
これは本能の働きではないでしょうか。本能の中に既に人間を正常な状態に立ち直らせようと言う力が存在しているように
思います。
札幌のつだアヤさんへ
MOMAのピカソ展でのあなたの体験は非常に興味がありました。
このような現象(アヤさんが熱心にピカソの作品を食い入るように見ている時、彼女の頭の中で『これらのもんは
全部糞(くそ)なんだからあんたは早く家に帰ってあんたの「え」を描け 』という声がした)は、
ぼくが兵庫県立近代美術館で個展をした時、三島由紀夫を描いた作品を見ていた人(女性)の頭の中に声がして、
その声が「何を考えているんだ、さあ今直ぐ行動を起こしなさい」と言った、とその女性はぼくに語りました。
ぼくにはこんな体験がないけれど、ぼくは決して眉唾ものではないと思います。
その声がピカソか三島由紀夫か、それとも潜在意識から発されたものか、分かりませんが、全くあり得ない事では
ないと思います。
人間の想念はエネルギーですから、もしかしたら、死者の意識に通じたのかも知れませんが、そんなメカニズムは
どうでもいい事で、重要なのはメッセージだから、それが誰であるとか、どうしてそんな事が起こったかについては
軽く流した方がいいと思います。
3月13日
中島千景さんへの解答
誰にでもあることで気になりますね。人と人が惹かれるのは。
そこに何か利害関係があるだけではなく説明の しようもなく見えない磁力のようなものが働く事があります。
気が合うとかウマが合うとかいいますね。これがまた一番大事な事です。
そこには何か未知の因果関係の働きさえ感じます。
因果関係は今生(現世)だけのものではなく、前世から引き続いた働きさえ感じます。
無論前世の事はわかりません。だけど、この世での人と人の出会いには前世が無関係でないように思います。
例えば家族構成を考えてみればわかります。
なぜ夫婦であり、親子であるかということです。
でたらめに偶然親子になった訳ではないはずです。
親子関係を結ばざる理由はあるはずです。
かつて親子がどんな人間関係を形成していたかはわかりませんが、
両者の間に生きる「何か」を知る為であり、またできれば何かを解決する為かも知れません。
両者に何かまだ未解決問題がある為に親密な関係が生じたのではと思います。
もちろん他人との出会いと関係も同じだと思います。
世の中には偶然はないと思います。因果は必然の法則でもあるからです。
Hideoさん
まだアニメ映画「メトロポリス」は観ていません。「千と千尋の神隠し」も観ていません。
ここ数年間というか10年位映画は数本しか観ていないように思います。20代の時で、二本立て、三本立ての
時代には年間300本という年もあったのです。想像出来ますかこの本数!
といってテレビで映画を観るということもありません。だけど自作の絵画で映画を描いている様な気がします。
最近は映画に代わって舞台を観ることが多くなりました。
舞台、能、狂言、歌舞伎、それに宝塚などです。
そのうちまた映画に戻るかも知れません。昔は短編アニメーション映画を何本か制作した事もあります。
あなたの年齢(30ちょっと)の頃は話題作は片っ端から観ていました。
その頃の記憶が今、作品の中にチラホラ現れてるようです。
清水浩司さん
「いちばん会ってみたい人」ですか?会ってみたい人はすでに亡くなった人ばかりですね。
黒澤明さん、三島由紀夫さん、柴田錬三郎さん、谷内六郎さん、深澤七郎さん、
この間亡くなった田中一光さん、等々この世にいない人ばかりです。
それも親しかった人が多いです。歴史上の人物や偉大な芸術家は山といますが、こちらのレベルが
そういう人と会える高い霊性に到達していないとあまり意味のないことです。
ミーハー的に会うだけじゃ意味がないですね。
Sakuraさん
最近の作品は原美術館で開催した個展の延長線でのY字路シリーズです。
観ていただいていれば話は通じやすいのですが・・・。
シリーズ当初からそんなに激変していませんが、絵のスタイル(描き方)は徐々に変化しています。
それはモチーフによって変化するものです。
モチーフが変わっても絵のスタイルが変わらないというのはぼくにとっては不自然だからです。
例えば同じY字路でもそれぞれ個性があります。すると描き方がその対象によって敏感に変わります。
それがまた楽しみであったり面白いのではないでしょうか。
また絵は生き物ですから、描きながらどんどん勝手に活動します。
作者を離れてどこかに行こうとしまう。その時はその絵にゆだねます。
それがよく言われる「描かされている」という感覚なのです。このようにして描かされた作品は観る人にも
きっと自由な感覚、まるで絵の中を旅している様な気分になるのではないでしょうか。
観る人の思いを絵の中へ解き放てばいいのです。
いちいち考える事はないのです。
Wakaiさんの出題「着物について」
子供の頃実家は呉服商だったが、着物を着ることはほとんどなかったです。
まあ戦争を挟んだ時代だったので軽快な動きを要求されるので、のんきに着物など着ておられなかったんでしょう。
まあ終戦後しばらくしてからは母などは着物を着ていたように思いますが。
ぼくが着物に着た記憶は雑誌の企画で2回位。もちろん自分では着付けが出来ないので手伝ってもらうという
ありさまです。一度肋骨を折った時、一、二ヶ月着物を着ていたことがありますが、それ以外にはなかったと思います。
今後も着物着用はないと思います。着物はかなり精神的だが、精神より肉体に感心のあるぼくはやはり活動的な
洋服の方が実質的で好きです。
呉服商の家に生まれながら、「何故かな?」と思いますが、きっとぼくの肉体がそれを求めていないからでしょう。
3月12日
角屋直美さんへの解答
最近聴く音楽といっても絵の制作以外には聴きません。音楽は制作と一体だからです。
制作時には石原裕次郎と渡哲也をよく聴きます。次はモーツアルトです。
石原裕次郎の声が好きです。郷愁があります。遠い昔に連れて行ってくれます。
遠い昔とは失われた時間、記憶、そして子供の頃の日本の姿です。
考えだけを優先した作品はあまり好きになれないです。
しっとりとした情感がぼくの作品には必要だからです。
現代美術はこのような感情を必要としていないですね。
むしろ捨てる事で近代を肯定しているように 思います。
といってあんまり土着的になる事は危険でもあります。
難しいところですね。
裕次郎の歌には中原中也の「骨」という詩を歌った曲があります。
死んだ自分が霊魂になって、自分の骨折を見ている気持ちを歌ったものです。
裕次郎の歌と死がぼくの中で交差した瞬間、ぼくの作品はぼくの肉体と霊魂が交差するのです。
林こうきさん(カリフォルニア・ロングビーチ在住)への解答
「三島由紀夫さんにつて」というご要望ですが、今まで色んなところで書いてきましたので、それらを
参照していただければと思います。
三島さんを知るまでの三島文学には大体目を通してきました(全てではないが)、
三島さんを知ってからの作品は一冊も読んでいませんでした。それが一昨年程前から、再び読み始めました。
読んでいない作品の方が多いのでこれからが楽しみです。
それからL.Aでの個展、日にちが決まりましたらこの場を通じてお知らせします。
以前ロスのオーティス・パーソンズギャラリーで個展をした時、ベニスビーチでアトリエを借りて制作を
していましたので、ロングビーチには時々食事等に行きました。
東京とは異なった時間が流れていて、ベニスビーチで朝食を取りながら、
一日の始まりをゆっくりした時間の 中で味わう毎日でした。
ベニスビーチでは一ヶ月の間ただの一人も日本人に会う事がなかったのが不思議だったです。
夕方の海岸のざわめきも今では思い出の中でチカチカしています。
3月11日
小澤征爾さんについてのエッセイをサイトで依頼されたので書きます。
小澤さんとは同じ成城の住人で、ぼくが2日に1度は行くというおそばやで時々お会いする。
このお店はいつも超満員なので時間を外して行くようにしている。
小澤さんも時間を外されるので、そんな時に会うのである。
小澤さんは夏などはTシャツ一枚、冬でも薄着で、いつも元気そうだ。
小澤さんの定位置はいつもテレビの下のテーブル。ここは客から少し死角になっている。
が小澤さんは声が大きいので、また目立つので誰もが知ることになる。
小澤さんを最初に知ったのは墨田区のトリフォニック・ホールの壁画を描いた時、
アサヒビールの会長の樋口廣太郎さんの紹介だった。
その後、小澤さんのモーツアルトのオペラ「コジファントツテ」に招待された。
今年の正月元旦のウィン・ニューイヤー・コンサートの成功は日本人であれば誰でsも嬉しくなる話題だった。
今年になってまだそばやでお会いしていない。
去年の暮れの頃例のそばやに行くと「たった今小澤さんも、大江健三郎さんも見えていたのに」と
残念だった事があった。この2人は偶然おそばやで遭遇されたわけだが、大江さんともこの店で1、2度
お会いした。大江さんとは道でお会いする事がある。会うといつも一言、二言、核心にせまった話をされる。
スリリングだ。何やら近い内に2人に会いそうな予感がしてきた。
3月8日
4月7日よりぼくの郷里の兵庫県の西脇市岡之山美術館で「まるごと位置1年忠則横尾展」を開催します。
期間は1年間だけど、展示作品は次々入れ変わります。現地で制作する作品もあり、近作もありでメディアの統一も
ありません。今後如何なる作品が制作され展示されるかはぼく自身も予想がつかないので愉しみです。
この美術館は磯崎新さんの設計の建物で一見の価値ありです。また美術館の庭が電車の駅で「日本のへそ公園」という
駅名です。周囲は川と林に囲まれ自然にめぐまれた立地条件です。
近くには宇宙科学館もあります。館内にはぼくの制作した大作のタペストリも展示されており、建築の外部には
占星術にちなんだ彫刻作品も設置されています。
美術館と問い合わせて是非観て下さい。
新大阪から西脇行きのバスが出ています。詳しいことは美術館にお問合せ下さい。
西脇市岡之山美術館:0795-23-6223
3月7日
YOKOO VISIONにまた少し御無沙汰してしまった。気持ちの上では毎日と思うのだが、いざ書こうとしてもテーマが浮かばない。
雑誌の原稿などはテーマが与えられるので、それに従うだけだから考える必要がない。
普段もなるべく考えないようにしている。これも努力しなければつい考えに落ち込んでしまう。
その努力も最近は身についてきたのか、わざわざ努力しなくても考えないでおられるようになった。
考えを中止したら、その代わりに直感が働き始める。
直感は誰にでも平等に働いているのだが、見逃してしまったり、直感を「考え」と勘違いして自分の思想に結び付けてしまう。
ところがYOKOO VISIONにはなかなか直感が働いてくれない。というのは書く必要がないということかも知れない。
毎日書こうと決めたことが先ず問題なのだ。
ぼくは日記を毎日書こうと決めたことが先ず問題なのだ。ぼくは日記を20年以上つけているがつけ忘れることがある。
気がついたら1週間もつけてない時がある。だからといってその空白を埋める訳でもない。
気にしていないから、また続くのだ。このYOKOO VISIONもその程度に軽く考えれば続くに違いない。
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